先日、亀山仁さんの個展を見てきた。冬青での初個展から2年半がたっている。今回も継続的に撮影しているミャンマーの続編だ。少しずつ撮り貯め、吟味し、着実に形にしているのがうかがえる。
私が来た時は、数人の先客がいて、ずいぶん盛り上がっていた。軽く挨拶を交わして、まずは壁の写真に目を向ける。
プリントは見るたびに魅せられる。バライタのファインプリントはこうでなくちゃと素直に思える。それに亀山さんの写真を見ると妙に落ち着くのだ。きれいな写真というのが、一概に褒め言葉ではないかもしれないが、亀山さんのそれには自然と美しさを感じるし、人柄を感じさせる。
別紙のキャプションが面白い。短文でエピソードが添えられている。亀山さんに解説してもらうとさらに理解が深まる。
前回に比べて、より生理的な反応でシャッターを切っているようだった。自分がそこに佇んで、その風景を見ている。人と再会しておしゃべりしている。それがただ写真に写っている。そんな感じ。中には、自分が見ているという自我すら感じない写真もあった。
画面映えは求めていないが、プリントは美しい。飽きることなく、ずっと見ていられる写真ということだ。
それで思い出したのが、写真家の渡部さとるさんが同期で常々天才だと言わしめている写真家・山下恒夫さん。渡部さん曰わく「作為の無い撮り手」「カメラで撮っているという感じがしない」写真家だという。齋藤亮一さんについても似たようなことを言及していた。
作為を無くすというのは、並大抵のことではない。おそらく追い求めるものでもない。もちろん撮影技術や経験は必要かもしれないが、作為を無くすというのは、腕を磨いて習得するものではない。自ずとそうなる人だけがそう撮るだけなのだと思う。これは羨んでも仕方がない類のものだ。
きっと亀山さんも、そういう写真家になりつつあるのではないだろうか。次回の個展も決まったそうで、どんなミャンマーを見せてくれるのかこれから楽しみでならない。