何をもって「見た」ことになるのか。二つの個展にて。

■ タカザワケンジ「Osamu Kanemura’s New Work?」@The White

■ 野村浩展『Inbisible Ink』@POETIC SCAPE

それぞれ会期終了からだいぶ経ってしまった。もっと早めに感想を書こうと思ったんだけど、時間が経てば経つほど、この二つの個展がシンクロしてくるので、やはり併せて書いておこうと思い立った。

まず、タカザワさんの個展。

昨年の「Cardboard City」も面白かったが、今回も写真評論家ならではの切り口で、とても楽しめた。

ギャラリーの壁三面を各々セクションに分けて、ピンナップでグリッドに並べる展示になっている。

ひとつは金村修さんの写真集の複写。ふたつ目は過去の個展の複写。そして三つ目は、金村修さんのイメージと重ねるように、アジェや森山大道、エバンスなどのスナップショットの複写を幾人も混在させたセクションになっていた。

美術の世界ではアプロプリエーションという盗用美術という手法があるそうで、参考にするとか拝借するとかではなくて、正々堂々と盗んでしまう手法とのことらしい。美術史的な文脈はわからないけど、なんか面白い。

展示のプリントも、わざと解像度が低くピクセルが目立つような画像にしている。作家や画像の特徴が平均化されて、何をもって、金村修なのか、アジェなのかが曖昧になり、見分けることが難しくなる。さらに観賞者がスマホなどで撮影し複写し、非可逆的に写真は劣化してゆく。それも今の写真らしく思えた。

写真家ではない人が写真を使って展示をする意味は、より客観的な第三の視点で写真に向き合わせてくれることだろうか。興味深い試みだと思う。


次いで、野村浩さんの個展。

これは説明しにくいし、説明することが野暮な感じもする。ネタバレがひとつの楽しみを損なってしまう可能性がある。でもタネと仕掛けがわかってからが本番ともいえる作品でもある。

作家自身のゴッホにまつわる視覚体験をヒントに「Invisible Ink」という技法を用いてゴッホの自画像をモチーフにした作品だ。その摩訶不思議なインクによって、青いモノトーンのゴッホが浮かび上がる。

青で再構築されたゴッホの自画像は、今までに見たことの無いゴッホでありながら、むしろ生々しいまでのリアルさを感じさせてくれる。

はたして私たちがゴッホだと認識しているものは何なのか。見えているものは、本当に見えているのか。フェイクとリアルを巧みに織り交ぜながら、写真の特性をフルに活かして「見る」ことの本質を提示している。

一つだけタネを明かすと、この「Invisible Ink」は架空の製品で、実際はサイアノタイプを用いている。作家にとって青写真にする必然性があったが、安易に技法にフォーカスされないように、あえて「Invisible Ink」という製品に置き換えたそうだ。

美術批評家の土屋誠一さんとのトークショーも聴くことができた。内容はディープで、土屋さんの脳の中にある知識の泉から湧き出る言葉の数々が、形容しがたい野村ワールドの核心を突きまくっていた。専門用語も多くて難解なところもたくさんあったけど、おそらく土屋さんにしかできない踏み込み方だったと思う。

野村さんの作品については、会期後でもギャラリーに直接尋ねるのが良いと思う。野村浩の世界を味わうには、実体験が一番だからだ。

タカザワさんと野村さん。立場は違えど、共に写真ならではのアプローチで「見る」ことそのものをテーマにした個展だった。それが奇しくも同時期に開催された。偶然にしては出来すぎている。

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