才を見つける才

ホンマさんはいつも気になっていて、これからも観つづけたい写真家のひとり。でも、おそらく自分とは今も昔も周波数が合っていないし、今後も合うことはなさそうな写真家だ。根拠はないけど、ホンマさんにそういう印象を持っている。

作品は物事の本質を探ってくる。アプローチはいろいろで、既成概念をバラしたり、再構築したりしながら作品を作っている。巧みなフェイクを交えたり、見抜かれないような伏線を張ったりもする。でも、文脈やコンセプトに偏重しすぎて、写真を気持ちよく見られない、ということはホンマさんの作品にはない。

あくまで写真に軸足を置いていて、際立ったクオリティで提示してくれる。たとえ制作意図を知らずとも、写真集をみれば、ふと手を止める写真があり、展示に赴けば、思わず足を止めてしまう写真に出会える。写真そのものの旨味は捨てない。そういえば、2015年に大宰府天満宮でカメラオブスキュラを使ったインスタレーションなんかもやっていた。写真の技法もすべて踏襲しようとしていると聞いたことがある。

「なぜこの写真なのか?」と意図を知りえた時に、ホンマさんから答えをもらえるのではなくて、ようやく問いかけてもらえる。投げられた問いはふわりとした軌道を描く時もあれば、ビュンと直線的に懐に収まる時もある。たまにポイと横に放られてしまうこともある。その問いに触れていろいろと考えては、また写真を見る。写真を観てはまた思考する。その循環によって作品が膨らむ。ホンマさんの役目はそこまでで、あとはこちらにゆだねられる。

捉えられそうで捉えられない。掴めそうで掴めない。常中変であり変中常。いつの間にか変化して先に行ってしまう。だから追いかけてみたくなるんだけど。

でもホンマさんの何がすごいかって、「人の才を見抜く才」だと思う。これはかなりエグい。この前のトークショー(らしきもの)の場でも思い知らされた。ホンマさんの間合いに踏みこめるのは、相当な手練れか、大間抜けくらい。かろうじて間合いを見極められる知恵者が渡り合えるだろうか。でもホンマさんが待っているのは、手練れでも、大間抜けでも、知恵者でもなくて、気づいたら間合いを詰められている天賦の才なのかもしれない。読めない才能を待ちわびているんだと思う。

どうやら自分はそれらのどれにも当てはまらない凡人だ。迂闊に周波数を合わせない方がいいかもしれない。むしろちょっとノイズが乗っているくらいが幸せなんだと思う。凡人には凡人なりに、噛み合わないという兵法もあっていいかもしれない。