
兼子裕代展「Apperance」がとっても気になっていた。なかなか見る機会が得られなかったが、ようやく観ることができた。歌う姿はとても無防備なのに、皆んな逞しく誇らしげでもある。写真なので実際の歌声は聞こえないけど、確かにそこには歌が存在している。
まず作品を見て、瞬間的にハロルド作石の「BECK」を思い浮かべてしまった。アニメや映画ではなく、あくまで原作の漫画の方。音声を聴けない漫画おいて、時間的、動的な補足表現を捨てて、コユキの静止画だけで勝負した描写に痺れたものだ。音が出ない世界で音を感じるあの高揚感を「Apperance」に感じた。
ポートレートは一対一で撮る撮られるの関係性があってこそ成立すると聞いたことがある。被写体がカメラ目線かどうかは別として、撮られることを意識しているのがポートレートなのだと。
そういう意味では、この「Apperance」は、被写体は撮られることを認識しながらも、歌うことに意識が向いていて、カメラへの意識はそれほど強くない。兼子さんに歌を聴かせている感じではなくて、歌っている姿を兼子さんが撮っているという印象だ。意識の等価交換になっていないというか、兼子さんの撮る意識を、被写体が受け取って、歌で増幅しベクトルを変えて解放しているような、そんな共同作業のようにも受け取れる。
最初に「とっても気になっていた」と書いたけれど、観る前からそう思っていたのは、作品が「歌う人」だったからだ。それも玄人ではなく一般の人の歌う姿だったから、なおのこと気になっていた。
実を言うと(というほどでもないけど)、私は三度の飯より歌うことが好きだ。たぶん誰にも打ち明けたことはないし、周りの人たちも、私が歌好きという認識はないだろう。言うなれば隠れ歌好きといったところ。別に声楽を習ったこともないし、下手の横好きと言われればそれまで。カラオケは苦手でヒトカラも行かない。楽器はからっきしだから、弾ける人、吹ける人、叩ける人は尊敬する。とりわけ楽器を演奏しながら歌える人なんて、自分からすれば奇跡的な存在だ。プロとアマチュアなどは関係なく、そういう人たちに、もっと言えば音楽に対しては憧憬の念がある。
音楽の中で、唯一自分ひとりでできるのが歌うことだった。自分にとって歌はいつも身近にありながらも、とても私的な行為なので、公でお披露目することはまずない。それでいて、下手の横好きですませたくないので、技術的なことも表現力も日々向上させたいという思いもある。まったくもって何がしたいんだかわからないんだけど、とどのつまり歌うことが好きなのだ。
兼子さんの写した「歌う人」は、兼子さんに心を許し身を委ねているのが伝わってくる。その上で歌っている姿は、まさにその場に出現(Apperance)していて、得も言われぬ恍惚感に満ちている。隠れ歌好きな私は、どこにも出現したことなどなく、これからも積極的に出現するつもりもない。でも、兼子さんと被写体の人たちのような関係性が成し得たならば、ひと前で歌うことも悪くないだろうと思わせてくれる。
最後にもうひとつ。「Apperance」を観ていて思い出したのが、2019年に同ギャラリーで開催されたアンソフィー ・ギュエ「INNER SELF」。この作品同士の関連性も気になってきた。この直感を頼りにもうすこし時間をかけて考えてみたい。

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