濱野絵美「不確かさの記録」@Open Letter Galery(アーツ千代田3331)

少しさかのぼって、9月に銅版画家の濱野絵美さんの個展に伺った。今のところ、銅版画作品を所有している唯一の作家さんだ。場所は「Open Letter」という土日限定オープンのギャラリーで、今年の5月に渋谷から末広町駅の3331アーツ千代田に場所を移していた。2年前の初個展も同ギャラリーのこけら落としだった。ちょうど版画にも興味が向いていた頃で、タイミングよく濱野さんの作品を見ることができた。まったくの初めてではあったものの、見れば見るほど興味がわき、気に入った一枚を求めた。それから2年が経ち、2度目の個展でどのようになっているのか楽しみにしていた。

濱野さんの銅版画はエッチング技法で製作されている。青インクを基調色として用い、線の集積によるストイックな幾何学的模様が特徴だ。その執念ともいえる作業とは裏腹に、アルシュ紙に定着した青い線分はどこまでも目に優しく届いてくる。ずっと飽きることなく見ていられる作品だ。

今回の新作は線による幾何学模様をさらに掘り下げながら、大型作品に取り組んだり、新たな形態にも挑戦したりしていた。平面的な模様から、より立体的な形に再構築したイメージが含まれていて、まるで三次元座標上で線分が踊っているようなイメージもあった。

藝大を卒業後、社会人として製作と仕事の両立に葛藤しながらも、製作環境を整えつつ、限られた時間で新たな作品に取り組み始めている。作家活動を続けるうえで、誰しもが一度ならず何度も通る道だろう。それでも濱野さんはなんとか踏ん張って地道に活動を続けていくと思っている。そんな期待を込めて、今回も購入を決めた。

版画の世界も奥深く、写真とはまた違った魅力を持った表現方法だ。それでいて意外なほど技法的なプロセスが写真のそれとよく似ている。作品と作家の間に機械や道具が介在するという意味でも共通するし、写真好き、もっと言えばプリント好きならば版画も面白味を感じてもらえると思う。密かに、あと5年以内に版画技法ないし版画作品が再評価されて、ファインアートの表舞台に出てくるのではと見込んでいるのだ。

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レーザー墨出し器

展示に合わせてレーザー墨出し器があってもいいなと思って探していた。一般的なレーザー墨出し器は釣鐘型のものが多く、そこそこ高価なものが多い。グループ展などで借りて使ったこともあったが、買うには至らずだった。強いて挙げれば、ブラックアンドデッカー社の安価なものがあるけど、見た目がどうも気に入らない。

あれこれ検索してきたらこんなのを見つけた。

ボッシュ(BOSCH)社のクロスラインレーザー「Quigo Plus

なんといってもこの形とサイズにやられた。65mmの正立方体で、軽量コンパクト。安定のボッシュ製で、しかも実売7千円前後とくればもう買うしかない。

赤色レーザーで、線はやや大きめ。壁に垂直に照射すると等間隔になるメモリも便利そうだ。レーザー墨出しを使い慣れているわけではないので、実践投入でうまくいくかはわからないけど、とりあえず搬入に持っていってもいいかな。

三人展のお知らせ

四年ぶりに写真展を開催します。多人数のグループ展や公募展じゃないものは本当に久しぶり。今回は友人との三人展です。今までは三人ともゼラチンシルバープリントを展示することが多かったメンツですが、今回はそれぞれ違うものになりそうです。三者三様でそれぞれテイストの違う展示になりそうで楽しみにしています。

共通しているのはフォトジェニックなものは撮っていないことです。少なくとも一般的に「いいね」をもらえるような写真でないことは確かです。まあ、そのあたりも狙いの一つになります。

私は二枚組に挑戦します。組み写真の最小単位で、成立させるのが難しいとされている二枚組です。きっかけは「Heikki Kaski: Tranquillity」という写真集。ヘイキ・カシキはフィンランドの写真家で、本作は3年前に直接メールで問い合わせて買った思い出深い一冊です。それからというもの、撮るにしても、見るにしても、二枚組の見立てを考え続けていました。最近ようやく胸にすとんと落ちるものがあり、実際の展示で試してみたくなりました。納得のいく展示になるかはわかりませんが、自分なりに意図のある二枚組になったらなと思っています。

6月ぐらいから撮影を開始して、いまセレクトがまとまりつつあります。先日ギャラリーに赴きレンタルフレームを押さえて、これからマットの発注とプリントの仕上げです。プリントはカラーネガからで、額装しやすい余白を指示できるラボ仕上げを検討中です。

さて、はじめてFBで公開イベントページを起ち上げました。アカウントがない方でも見られるはずです。詳しくはそちらで。もう少し先ですので頭の片隅にでも置いておいてください。

荒木経惟「センチメンタルな旅 1971- 2017-」@東京都写真美術館(TOP MUSEUM)

最終日に滑り込み。写真展あるあるだ。ともかくこれは観られてよかった。

「4|陽子のメモワール」、「4-43 愛情旅行 1984」

陽子さんのポートレートだ。

この展示はこれがすべてだと思った。

異様なまでに美しくて、どうしようもなく愛おしくなる。そんな一枚だ。

yokoaraki
※展示内撮影可

 

以降の写真を観ていると、事あるごとに無性に「4-43 愛情旅行 1984」に戻りたくなってしまう。何往復しただろう。観ても観ても観足りない。陽子以降の写真の理由がちょっとだけわかった気がした。初台のオペラシティアートギャラリーの「写狂老人A」が近しいものに感じられた。

野村佐紀子写真展「Ango」@Poetic Scape

えらいの見ちゃったな。これは実際に観ないとわからないやつなのは確か。

陶然とするモノクロプリント、絶妙なサイズ感、配置や並び、台形の額やマットをはじめとする高度で的確な額装。野村佐紀子写真群のイメージがぐっと拡張された展示だった。

そして写真と言葉が拮抗する書物「Sakiko Nomura: Ango」。噂の製本技術「ツイストハードカバーブックバインディング」が使われている。これが変態的に美しい。天地は水平で小口だけが捻られて製本されている。開くとページが台形になっていて、最初は下辺の方が長く、めくるごとに上辺の方が長くなる。マジシャンがトランプを等間隔で扇型にするように、銀行員が札勘定をするように、美しく捻られいる。一枚一枚の角度が違うため、捻り工程を逆算して一ページごとに割付の角度を変えているそうだ。あーこれ、言葉で説明しても拉致があかない。実際に手にとってみないと理解できない。とにかく触ってめくって気持ち良さを感じて欲しい。

町口さんと野村さんのトークも充実していた。スタイルは対称的。造本に掛ける情熱が煮こぼれるように語る町口さん。口数は少ないが一言で聴き手を怯ませる強さがある野村さん。

町口さんが「これ作ってるとたぁ〜のし〜なぁって」とニヤニヤしながら話すのは聴いていてもうれしくなる。製本にまつわるマニアックな話も粋な落語に聞こえるから不思議だ。時間が許せばいつまでだって聴いていたい。

野村さんは穏やかで口数は少なく、あまり声も張らないが、一言の破壊力がすごい。野村さんは「撮ること」が空気を吸うかのごとく普通に行われている。テーマを決めて撮ることはなく、身の周りに起こる出来事をきっかけにこれまでの写真を選ぶことが多いそうだ。正確な言葉は覚えていないが、「頭でコンセプトを立てたらそれを(写真で)超えることはできないじゃないですか。それよりも先方の事情の方がね」と言っていた。「先方の事情」とは写真に撮られる側の事情ということだろう。野村佐紀子という写真家は被写体と対峙するというよりも、被写体に寄り添い同じ方向を向く意識があるようだ。良い意味で自我が希薄で、自分の感情や都合に左右されてモチベーションが上がり下がりしない。調子が良かろうが悪かろうが撮るものは撮る。自然体で在ろうともしていない。自然体で在ろうと意識した時点で自然体にはなれないのも自明の理。でもそれができないから悩む写真家も多い。

漫画の話で申し訳ないが、ドラゴンボールで人造人間セルとの決闘前に、悟空と悟飯が精神と時の部屋で修行をする話がある。他のメンバーはさらなるパワーアップを目指す中で、二人は違うベクトルで修行を積む。結果として、最高のパワーを発揮するスーパーサイヤ人の状態を無理なく普段から維持できるようになる。普通の状態をすでに最強の状態にすることで、その先の強さ、潜在能力を引き出す土台づくりに成功した。

野村佐紀子さんの状態を例えるなら、常に何の無理もなくスーパーサイヤ人で居られる状態なのではないか。とにかく撮り続けることでしかたどり着けないだろうが、撮り続けたところでたどり着けるとは限らない。これは天賦の才としか言いようがない。きっとこの境地を羨む写真家はゴマンといる。

戦後生まれだからこそできることがある。文学と写真の拮抗を試みる書物。その書物とプリントの展示空間が呼応しながら形を成し、言葉に表せないほどの一体感持って展開した奇跡的な個展となった。

そして何よりうれしかったのは、野村佐紀子という写真家に出会い、あの師にしてこの弟子という凄味をまざまざと見せつけてもらい、ひょっとしたら師も羨む才能を知り得たことだ。

志賀理江子「ブラインドデート」@丸亀市猪熊弦一郎現代美術館

滞在時間はわずか3.5時間で、移動時間は7時間。移動の方が倍になっちゃうパターンの日帰り弾丸トラベラーで観覧してきた。

入って直ぐ、暗闇に点滅する光源に目が眩む。特に順路はない。はて、どう観てよいやら掴み所がない。でも次第に目が慣れ、場に馴染んでくる。歩きながら目にとまるスライドや写真を気ままに観られるようになる。周りの人も各々のスタイルで観賞している。中央で距離をとってぐるりと見渡す人。木製スツールをプロジェクターの脇に置き間近で食い入るように見る人。ふらふらと散策するようにあちらこちらを眺めている人。

21台ものスライドプロジェクターの作動音が有機的に響く。プロジェクターは改造されていて、投影のタイミングで点灯し、切り替わる時に消灯する。点いたり消えたりの無限ループ。それも機器ごとにテンポが違うようだ。綿密に練られた無秩序的秩序。まるで展示室がひとつの生き物のようで、しかも自分がその生き物の胎内に居るような感覚。妙に落ち着き、妙に騒つく。

そして展示室を抜けた通路の壁のテキストが出色。通路幅は一間ないくらい。柱が出っ張ってる箇所はもっと狭い。反対の壁にもたれながら距離をとって読む格好になる。先に三、四人も壁にもたれながら対面の文字を目で追っていた。それに倣う。ゆっくりと順にカニ歩きしてずれながら読み進める。少し考える。また読む。考える。また読む。考える。その繰り返し。志賀さんの言葉に理屈を超えた説得力がある。「弔い」や「歌」という言葉も、確信を持って発しているからこそ、読み手に訴える。この引力は凄まじい。

志賀さんがもがいてあがいてたどり着いた今回の個展。常に実験的で挑戦的な志賀さんならではの圧巻の展示空間だった。夏休みの宿題をギリギリに片付けたような駆け足の丸亀行きだったけど、観賞できて本当によかった。これを観て繰り返し考えたり、時間を忘れて語らえば、どれほどの学びがあるのだろう。志賀さんにどっさり宿題を出されたようだった。

平面の質感

改めて写真の何に魅力を感じているのかなって考えてみたら、わりと単純に物質としてのプリントそのものに惹かれているんじゃないかなって。

もちろん写っているものは大事だし、それを見て何を考えるかも大切。でも、まずはシンプルに平面の魅力を堪能したい。例えば、近美のプリントスタディで拝見した川田喜久治のゼラチン・シルバー・プリント25点の切れ味には心拍数が上がりっぱなしだった。石内都のフリーダ・カーロの遺品を写したCプリントは手に取れるようなリアルさがあった。伊丹豪の生み出す超高解像デジタルプリントは肉眼の知覚能力を超えて、ゲシュタルト崩壊していく体験がくせになる。コレクションしている森山大道のプリントは、フロントウインドウ越しの景色とバライタならではの滑りけのあるテクスチャとが相まって、見ても見ても見尽くし切ることがない。

紙と写真は相性がいい。その相性の良さを引き出せてる写真は、結果的に強度が高いものが多い。最近は紙に落とし込まない写真も増えたし、やたらドラスティックな表現も多くなったけど、それはそれだ。紙と写真の組み合わせには、野暮ったくて腐れ縁的な関係性がある。写真のそういうところが醍醐味の一つじゃないだろうか。

シンプルエース

「写ルンです・シンプルエース」をひとまず10個まとめ買いした。といっても全て貯まっていたポイントで交換。10月のG展に向けてやっと本格始動する。普通に買っても勢いが付かなそうだったので、ぜんぶポイント交換というお得なのか暴挙なのかわからない行動で発破をかけてみたわけだ。いろいろ構想は練ってはいたが、構想だけやっててもまったく意味がない。やっぱ撮ってなんぼだ。久しぶりの展示なのでワクワクする。にしても写ルンですなんて何十年ぶりだろうか。

比較しようのない価値

やろうと思えば、いくらでも徹底的に比較検討して、最得・最安を探し、ほぼ納得ずくでお目当てを買える時代。

実際に足を運ぶまで具体的にどういうものかもわからず、生で現物を観てから、どんなものとも比較しようのない価値を見極め対価を払う。誰が何と言おうと、自分は今目の前にあるものの価値を認める。そういう買い物ができるものの一つに、プリント購入ってのがあるのかな。

最得や最安を目指すのもありだけど、比較ばかりしていると相対的な価値に左右されて軸を見失う。機会があれば、比較しようのない価値にお金を払ってみるのも良い経験だと思う。

熊谷聖司展「EACH LITTLE THING」@POETIC-SCAPE

ポエティックスケープの熊谷聖司展「EACH LITTLE THING」。同タイトルの写真集を10冊まで出版するプロジェクトで、今回で7と8が上梓された。

デザイナーの高橋健介さんに編集を一任して、熊谷さんはあまり干渉しないというスタイルをとっている。3.11以降「わたしの欲望とは何か」というテーマのもと自問自答する試み。

もちろん誰が編集しようとも熊谷さん自身が反応して撮影したものには変わりはない。でも編集の及ぼす影響は大きい。特に写真は編集いかんによっては、見え方はがらりと変わる。撮影者と編集者との信頼関係があればこそだろう。

まあ、そんなプロジェクトの前提を知らなくても、熊谷さんの写真が魅惑的なのは間違いない。おもねらず、突き放さず。ツンでもデレでもない。写真の塩梅が際立っている。写真の旨味たっぷり。これ、やりたくてもなかなかできない。見れば見るほどに、熊谷さんのすごさを実感してしまう。

藤崎均さんの「歪んだ箱」@OUTBOUND 吉祥寺


吉祥寺のOUTBOUNDで木工作家・藤崎均さんの「歪んだ箱」を一目惚れで購入した。この箱、クラロウォルナット材という銘木をくりぬいて製作されている。米国産に欧州産を接ぎ木したブラックウォルナットの亜種で、瘤杢(こぶもく)なる歪な模様が特徴らしい。確かに波打っているような、震えているような有機的な杢が見てとれる。その杢に同調するように、箱の外形も絶妙に歪んでいる。のせ蓋がはまった時の塊感、安定と不安定のバランスが素晴らしい。店主・小林和人さんは物の役割に「見た時に認識できる具体的な『機能』と、目に見えない抽象的な『作用』」があると常々言っているが、藤崎さんの箱はまさに「作用」の逸品だ。矯めつ眇めつしているうちに、しばし暑さを忘れるとか忘れないとか。

田中大輔展「火焔の脈」@ガーディアン・ガーデン

田中くんの内面の狂気は計り知れない。そう思うようになったのはいつからだろう。時を経るごとに、展示を重ねるごとに、田中大輔の根幹の部分が少しずつ炙り出され、研ぎ澄まされてきている。適正とは言い難かった写真も、量を積み重ねるうちに、成立させてしまう説得力を手に入れつつある。というより、写真の質を凌駕するほどの強度と狂気を獲得しつつある。

彼の狂気はこれまで溜め込んで行き場のなかった熱意であり、写真へと導いた初期衝動だ。田中大輔の写真はとにかく刺さる。ズブッとひとつ突きではなく、ゆっくり鳩尾に刃先が入ってくる感覚だ。

未完成感を残したまま強度を増してゆく様は、さながらダーマ神殿に一度も行かずにレベル99を目指すドラクエの主人公だ。不器用極まりないが、転職しない写真家の狂気に癒された日だった。

エレナ・トゥタッチコワ「ひつじの時刻、北風、晴れ」@STUDIO STAFF ONLY

エレナ・トゥタッチコワの写真と映像、テキストによる個展。そのオープニングに伺った。2014年から知床の峰浜を何度となく訪れ、住人と交流を重ねながら、写真と映像にまとめている。加えてエレナの日記や、峰浜の人たちのインタビュー記事も一部展示され、フィールドワークとして産声を上げた個展になっていた。エレナは興味を持てば素直に反応して、素直に行動できる写真家だ。理屈や理論、技法に一切引きずられずに、写真と言葉のプリミティブな関係性、それぞれの魅力を引き出せる稀有な人。言葉と写真に愛されてる。類まれな才能だ。写真にまつわるエピソードを聞いていると、エレナ自身が一番楽しくて、一番うれしくて、一番面白がっているのがよく伝わってくる。

屋上の映像がまた素敵だった。ウナベツ岳の麓にあるメーメーベーカリーのオーナーや近隣の人々、羊の群れ。何を語るでもない十数分間がとても美しかった。とりわけこの日は関東で天候不順。知床の吹雪く映像と、曇り空で吹きさらしの屋上とがリンクし、期せずして妙な臨場感が演出されていた。

このフィールドワークも写真集にまとめたいとのこと。楽しみがまた増えた。

 

ルイジ・ギッリ写真集「POLAROID – L’OPERA COMPLETA – 1979-1983」


1992年に49歳の若さで夭折したイタリア人写真家のルイジ・ギッリ。2013年にMACKから復刻した「Kodachrome」と2014年のみすず書房発行の「写真講義」。この二冊をきっかけに国内でも再注目、再評価されている。長く写真をやっている人からすると懐かしいという声をよく聞く。それだけ、亡くなってからは名を聞かなくなってしまっていたのだろう。

私はというと、再注目も再評価もなにも復刻版「Kodachrome」をきっかけに初めてルイジ・ギッリを知ったクチだ。書籍は買わずに、MACKが(実験的に?)リリースした電子書籍版をiBooksからダウンロードして見ていた。別に「ルイジ・ギッリいいね!」と思ったわけではなく、「MACKが電子書籍? 試しになんか落としてみるか。ど・れ・に・し・よう・か・な」って感じでダウンロードしただけだ。写真講義もまだ読んでいないしね。

ただ、ギッリのポラロイド作品集があることを知ってから、気になって仕方がなくなってしまった。1978年が初版で、2003年に再販されている。たまに検索しては古書を探し、良さそうな再販版をやっと入手した。こいつがむっちゃいいんですよ、ほんと。今のところ、ギッリの写真集はこれだけでいいや。そのくらい気に入りました。


ついでと言ってはなんなんだけど、ちょうどタカ・イシイギャラリー 東京でギッリの70年代のプリントをセレクトした写真展が開催されていたので、他の有名アートギャラリーも集結した「complex665」に初めて行って見てきた。ますますギッリ好きになりそうだ。しかし、ここは敷居高し。


それと、ルイジ・ギッリが好きになりつつあるのも、どうやらイタリア人写真家というのもポイントになってるみたい。フェデリコ・クラヴァリーノとかグイド・グイディとか、まったく知らなかったけど、写真集見て気に入って買ったらイタリア人だったてのがチラホラ。写真に共通する要素があって、そこが琴線に触れるのかな。そういう視点で体系的に見返すのも面白そうだ。

鈴木のぞみ個展「Mirrors and Windows」@表参道画廊

予定にはなかったけど、ふらりと表参道画廊に立ち寄ってみたら、これが大当たり。ぶわっとテンションが上がってしまった。

窓と鏡をテーマにした作品群は、写真の起源、写真の根本を見事に具象化させていた。「窓」は解体された窓を枠ごと利用している。ガラス面に写真乳剤を塗布し、住人が日頃から見ていたであろう窓越しの景色を定着させている。「鏡」も同様に、手鏡や浴室の鏡などを使い、据えてあった場所で映り込んでいたであろうイメージを同様の技法で定着させている。

ユニークかつ的を射た視点が素晴らしい。それに加えて実際に現物の窓や鏡を感剤化し、感光から現像を経てイメージを定着させてしまう、その見立てと力技は見事と言う他ない。「本当にやっちゃうんだこれ」っていう感じ。力技でありながら、着想から作品に至るまでに必然性があって無理がない。

記録としての写真のあり方を、さらにえぐるように、遡るようにして記憶を炙り出す試みは、物の中に潜像しているかもしれない記憶の断片を垣間見せてくれる。見えるものと、見えないものとの境界線を彷徨っている感覚になる。ふとした瞬間に薄ら寒さすら覚えるほど、鋭く写真の中核を突いていた。

外界を見るための窓とそこに映る自己を見つめるための鏡。黎明期の写真を思わせるガラスや鏡を支持体とする鈴木のぞみの作品は、そのどちらでもないような眼差しのあり方を予感させてくれる。最初の写真であるダゲレオタイプは、その鮮明で魔術的な画像から「記憶を持った鏡」とも呼ばれたが、鈴木は物それ自体に宿る記憶や、物を見るわれわれを見返すような物からの眼差しの存在について思考を巡らせてゆく。

窓際のカーテンや皮膚の変色に見られるように、あらゆる物は光に対する病を抱えている。それならば、物の表面には、過去のイメージが潜像として焼き付いていたとしても不思議ではないだろう。我々の意志や意識の外側で人知れず形成されたイメージがそこかしこに潜在し、現像されるのを待ち続けている。鈴木のぞみが提示するのは、そんな狂気にも似た世界である。

小原真史( こはら・まさし)

引用:表参道画廊ウェブサイト・東京写真月間2017小原真史企画鈴木のぞみ・ステートメント

原芳市 展 | エロスの刻印 @POETIC-SCAPE

原芳市さんの写真は、裸体に限らず、写るものすべてに色と情が宿っているような気がしてしまう。どこまでも自分にも被写体にも誠実でありどこまでも真摯なエロティシズム。要するに原さんの写真は何が写ろうともエロい(笑)

今回のポジのカラープリントは妄想以上だった。ギャラリーに入るなり、眼前の写真に心を鷲掴みにされた。すうっと壁面に引き寄せられて、あっという間にイメージに没入していた。もうなんというか、一枚一枚にひと目惚れし、空間全体に酔いしれてしまう。

ポジフィルムは不幸にも損失してしまったが、印刷原稿を特殊な技術で複写することで「エロスの刻印」は蘇った。プリントを見るとポジからのダイレクトプリントと見まごうばかりの仕上がりで、複写という印象は全くない。やや低彩度ながらも、冴えのあるコントラストを感じる。あのバライタのマットとはまた違う味わいがある。

まだ原さんのことは、百分の一も知らないんだけど、だからこそ、もっと体験してみたいと思う一方だ。


instax SQUARE SQ10

フジが満を持して発表したスクエアチェキ。機材は縮小傾向とか言っておきながら、予約で買っちゃったよ。ポラロイド好きではあるので、よしとしようか(笑)

このSQ10、ベースはデジカメでスクエアチェキがプリントできるっていう、要するにハイブリッド機だ。ほんといいとこ取り。実際に使ってみると、撮ってからプリントするのが予想以上に楽しい。こんなの久しぶりかも。撮影後にデータを加工してから、後でプリントができるマニュアル機能もなかなか画期的。インスタでフィルター使ってアップする流れと感覚は一緒。インスタ世代にはどストライクだろうな。

ポラロイドよりふた回り小さいサイズながら、悪くないサイズ感。ミニと高さが同じで真四角なので、画面は1.5倍くらいかな? 筐体のデザインは賛否あるんだけど、機能面はよく考えられている。プリントする時に、上部の排出口と連動して液晶のイメージが上にスライドするギミックも楽しいし。いずれミニでもこの方式のカメラ出るかもね。

「鉄砲百合の射程距離」刊行記念 森山大道写真展@森岡書店銀座店

森岡書店で「鉄砲百合の射程距離」。俳句と大道も格別だった。織田作の疾走感とは異なり、一画一画がガツンとくる。俳句と写真が拮抗して共創している。内田さんの俳句は初めてながら、一句読むたび、胴が真っ二つに切られていることにすら気づかぬほどの切れ味。畏れすら抱く強さがある。

黙読では物足りず、どうにも音読したくなる。もし朗読を聴くなら白石加代子。坦々と、抑え気味に、でも力強く。うん、いいと思う。

余談ながら、内田美紗さんと森山大道さんはただならぬご関係だった。なるほど内田さんの方がヤクザで上手なのもうなずける。その事実は本筋ではないのでここでは割愛。ま、もしよかったら『大竹昭子のカタリココ』をご覧あれ。知らなかったら驚くと思います。

小駒眞弓展「晶晶」@森岡書店銀座店

東京駅の八重洲口改札を出て、外堀通りを鍛冶橋方面に向かう。行き先は久しぶりの「一冊の本を売る本屋」― 森岡書店銀座店。この日の午後の予定はこれだけと決めていた。

今週は小駒眞弓「晶晶」展。選ばれた一冊は宮沢賢治「ポラーノの広場」だった。本書に収録された17編のうちの一つ「十力の金剛石」と小駒さんの作品とが共鳴している。

小駒さんはセラミックジュエリーを手がける陶芸作家で、手作業で切り出す立体的な市松模様や幾何学模様が特徴だ。ジュエリーにはとんと疎いのだが、小駒さんの切り出す模様に惹かれるものがあり、観にいくことにした。

「晶晶」展では葉書よりひとまわり大きい磁器タイルの作品が展示されていた。これは普段作るジュエリーになる前のイメージを標本化したものだという。たしかに桐箱の額装に収められたタイルは、アンモナイトの化石標本を想起させる。小駒さんは形にする前に、模様のイメージを思いつくままにスケッチしているそうだ。下書きというよりもイメージの集積。創作には欠かせない工程なのだろう。今回そのイメージを標本化することで、普段の作品とは違う世界観が生まれている。

模様も規則正しく削り出され、コンポジションも考えられているのに、どこか有機的な揺らぎを感じた。小駒さんがあくまでフリーハンドで模様を切り出しているからなのかもしれない。動画を見せてもらったら、本当に定規も型も使わずに半生状の板をデザインナイフで一目一目切り出していて驚いた。

ジュエリーも磁器タイルも、小駒さんの作品はとてもみずみずしい。ちょんと指で触れると波紋が広がりそうなくらいだ。模様の凹凸に釉薬が流れ込み、浅い溝には薄っすらと色が乗り、深い溝には多くの釉が溜まるため濃紺色をたたえる。釉溜まりが発するほのかな色合いは青磁にも似ている。

宮沢賢治の「十力の金剛石」を読むと、より「晶晶」の存在感が増してくる。このふたつを引き合わせた森岡さんはさすがという他ない。

野村浩展【Doppelopment】@POETIC SCAPE

もうそろそろ期待を裏切ってくれても一向にかまわないのに、腹が立つくらい裏切ってくれない。もがけばもがくほどはまっていく底なし沼。歩けど走れどたどり着けないワンダーランド。野村浩という作家の真骨頂だ。今回も野村浩にしてやられました。

タイトルは【Doppelopment】。「Dopplganger(ドッペルゲンガー)」と「Development(現像)」の造語。意訳して「ドッペル現像」っていうのもいい。愛娘の双子(笑)のハナちゃんとナナちゃんの写真の仕掛けも絶妙で、見どころ満載の作品だった。参加した大森克己さんとのトークがもう最高。少なくとも今年一番ではなかったかと思うほどの面白さだった。野村さんの「写真の旨味」発言から端を発して、爆笑と驚嘆、納得の連続だった。自身が二卵性双生児であること。大森克己さんとの出会い。東京藝大での榎倉康二氏との出会い。平面への興味と意識。写真新世紀からの歩み。エキスドラの誕生。なぜ写真なのか。拡散しないハッシュタグなどなど。もういろいろありすぎて見出しだけでもはみ出しそうだ。

野村さんはこれまで一貫して「見る」こと、「見えていること」へ問いを投げかけている。表現方法やアウトプットが多種多様なので、掴みどころのないように思えるが、芯の部分は変わらない。多重的に多層的にしかけつつ、種と仕掛けの先にある核心に迫っていく。核心に迫っていくようでいて、さらに解釈が広がっていく。特に今展では、野村さん自身が仕掛けていたはずなのに、実は誰かに仕掛けられていたんじゃないかと錯覚するほど、作家である野村さんが驚くエピソードがいくつもあり、SNSを通じて伝え聞くたびにこちらも驚いた。

必然と偶然が入り混じることでさらなる拡張を見せた【Doppelopment】。野村さんは写真家というくくりでは量れない。ただし、美術家、芸術家というくくりでも何かもったいない。牛腸茂雄を見事に引用したことからも分かるように、存外、野村浩は写真寄りなのだ。

ここまで野村浩を絶賛しておいて申し訳ないが、トークショー後の「妹」ハナちゃんによる写真集へのサイン会で主役の座を追われることになる。一人ひとりに即興でイラストを描いてもらえたのだが、下書きもあたりも付けず、一発で淀みなくペンを運ぶ描きっぷりに一同度肝を抜かれ、その場から離れられなくなってしまった。一筆一筆に「おー」と歓声が上がり、予想を超える仕上がりにほれぼれする。間近で見ることができて本当に幸せだった。

写真の旨味、存分に堪能させてもらいました。