写真を「みる」意識がすこしずつ変わってきている。写真を始めた当初はできるだけたくさん見ることに重きを置いていて、分母を増やしていく意識が強かった。時間が許す限り多くのギャラリーを巡り、多くの写真集を購入してはめくるようにしていた。同じ「みる」でも、ニュアンスとしては「廻る」とか「覧る」に近かった。興味の幅を広げていく行為だ。次第にギャラリーや写真集の好みも収斂してきて、一か所一か所、一冊一冊をしっかりと「観る」や「視る」という意識に変わっていく。最近はそこからさらに変化して、一枚一枚、一点一点を「診る」とか「看る」という感覚になることもある。実際にできているかどうかは別として、広く浅くから、狭く深くに気持ち的には移行している。これが着地ではなくて、拡散と収斂を繰り返しながら、ちょっとずつでも広く深く学んでいきながら、「みる」力を養いたいと思っている。
写真展
潮田登久子写真展「BIBLIOTHECA/本の景色」@PGI
自分は読書好きではなくて、書物好き。印刷、製本、装丁など造本につい注目してしまう。潮田登久子さんのBIBLIOTHECAは、そんな書物好きにはたまらない展示といえる。14世紀頃の西洋の祈祷書や江戸時代の帳簿、個人宅の本棚など、本そのものを主題とした20年にもわたるシリーズだ。プリントの美しさもさることながら、写っている本そのものの存在感に意識が向いてしまう。
潮田さんは「ふと自分の手元にあった本の美しさに、オブジェとして本を撮ってみたいと思ったことが、このシリーズを撮り始めたきっかけでした」とステートメントで書いているが、まさしく「オブジェとして本」の魅力を引き出しているシリーズだった。
特に「斎藤和英大辞典」の背表紙のイメージはほれぼれする。タイトルの箔の荘厳な輝き、どっしりとした佇まいは、見ていて飽きることがない。本書は昭和3年に斎藤秀三郎氏による個人編纂で、和英辞典のパイオニアにして金字塔ともいえるものだ。二十代の頃は訳あって復刻版「NEW斎藤和英大辞典」にはお世話になった。なんだか感慨深い。
さて、潮田さんといえば「冷蔵庫」で衝撃を受けた人は多いだろう。私もそのひとり。何がきっかけで知ったのかはっきり覚えていないのだけだけど、冷蔵庫がただ写っているあの写真集を見る機会があり、食い入るように見た覚えがある。それからずっと写真集を入手したかったが、1996年発行で新品は見当たらず、古書も定価の2.5〜3倍の値がついていて買うのを躊躇していた。それが今回、PGIの展示に合わせてデッドストックが販売されていて、幸いにもゲットすることができた。しかも定価で、しかもサイン入り。いつになくうれしい買い物となった。
カメラ機材を諸々手放す。
ずいぶん使っていないカメラ機材を諸々手放すことにした。残ったのがフィルムカメラ5台のみ。ライカM4ブラッククロームとズミルックス35mm、ハッセル500C/Mとプラナー100mm。先日買ったばかりの合板4x5カメラ、それとSX-70。最後は勢いで買ってしまったライカ・ゾフォート。すべてフォーマットが違う。
ライカはズミルックス50mmを持っていたが、35mmだけにした。どちらも第二世代だ。こちらは50mmがしっくりこなくて、買ってからほとんど使っていなかった。最終的に最初に買った35mmだけにすることにした。ハッセルはこともあろうに80mmを手放して100mmを残すという、ある意味掟破りをおかした。ふたつを試した結果100mmに軍配があがり、80mmはまったく使わなくなってしまった。シノゴはこれからの楽しみだし、ポラ系はまあいいかって感じ。
結果的にデジタルカメラはスマホだけになった。おそらく当分デジは買わないかもしれないな。そっちに予算が回らないというのもあるし、あれもこれもできないなってのもあるし。私はカメラコレクターではないので、使うものだけを手元に置いておけば事足りる。かといってジャンクカメラをいじり倒すようなメカ好きでもないので、被りのないアガリの組み合わせに巡り会えたらそれでよしだ。それも年月とともに変遷するだろうし、多少の増減はあるだろうけど、今の趣向ではだんだんと機材は少なくなる傾向だと思っている。
森山大道写真展【Odasaku】@POETIC SCAPE
無頼派の織田作之助の短編「競馬」と森山大道の大阪の写真との競作本『Daido Moriyama: Odasaku』の発売記念として開催されている写真展。織田作之助は、通称「織田作(オダサク)」と呼ばれ、わずか7年ほどの活動期間で、かつ33歳の若さで亡くなっており、その濃縮された人生に魅せられるファンは多いらしい。
「織田作って誰?」というところから始まる教養のない自分は、観に行く前に青空文庫でまずは原作を読んでみることにした。短編も短編であっというまに読み終える。エンディングまでの疾走感。読み手の心にひっかき傷を残す一代。瞬く間に破綻してゆきながらも、どこか爽快さすら覚える寺田。軽く妄想させてもらうなら、ぜひ六角精児の朗読で聴いてみたい作品だ。文学の素養は全くないが、こいつは愉しめた。
写真展初日までのひと月あるかないかの準備期間しかなく、通常では考えられないほど駆け足でだったそうだ。そのご苦労は想像に難くないけれど、準備期間を含めた全体にわたる疾走感(失踪感? 疲労感? 悲壮感?)も含めてこの展示は凄味がある。とにかくかっこいい。ただでさえ森山大道の写真はかっこいい上に、そのかっこよさに輪をかけているというか、火に油を注いでいるというか、鉄を熱いうちにたたいているというか、まあ、とにかくウルトラかっこよいわけだ。語彙が拙いのは申し訳ないが、他に小難しい言葉はいらないし、言葉にならない。あーもうかっこいいに決まってるし的な写真展と本書なのだ。
この森山大道による文学オマージュの作品は大好きで、文学好きでもないくせに、太宰と寺山も持っている。読んでいるというより持っているだけなのだが、ヤバいくらいかっこいいわけだ。森山大道の写真がきわめて文学的とは思わないけれど、融合と拮抗が微妙なバランスで成り立っていて、編集の力をまざまざと感じさせてくれる。
今回の本文フォント使いも最高もしくは最強だ。おそらく筑紫Bオールド明朝というクセの強い異端フォントを使っている。写真、文、装丁と渾然一体となっていて、この編集は唸るしかない。このフォントはたしか藤田重信さんというフォントデザイナーの手によるもので、テレビでこのフォントの開発ドキュメンタリーを放送していて、すっかりファンになってしまった。これを選んだマッチアンドカンパニーの町口覚さんの力量に感服する。
展示の写真は印刷原稿のRCペーパーのヴィンテージで、独特のテカリがむしろかっこよい。さらにシルクスクリーンプリントも展示されていて、これがさらにスタイリッシュ。森山大道はハーフトーンが良く似合う。10枚セットのポートフォリオも! これは買えるなら買った方がいい。まあ、買わなくてもいいけど、一度見たら欲しくなること請け合いだ。とにかくこれは会期が短いので早めに観に行った方が良い。ぜったいおすすめ。
森山大道 写真展「Odasaku」
会場:POETIC SCAPE|東京都目黒区中目黒4-4-10 1F
会期:2017年2月15日(水)− 3月5日(日)
会期中無休 13:00-19:00 *通常の営業時間とは異なっております
協力:森山大道写真財団|写々者|マッチアンドカンパニー
展示構成:町口覚
喜多村みか写真展「meta」@Alt_Medium
中野行きの東西線に乗っていて神楽坂にさしかかる。そういえば高田馬場にギャラリーがあったっけと思い出し、途中下車してみる。徒歩10分ほどで到着しなたのはAlt_Medium。喜多村みか「meta」が開催されていた。
喜多村みかという写真家はなんとなく名前だけ知ってたものの、写真は見た記憶がない。私が写真を始める3年前の2006年の写真新世紀で喜多村みか+渡邊有紀の二人組で優秀賞を受賞しているようだ。
さて、思いつきで訪れた写真展はというと、とてもよい展示だった。友人か知人か、人物がひとり写っている写真が並んでいる。屋外だったり室内だったり、場所もさまざま。これ以上寄ればポートレートになり、これ以上引けば風景になる。そのどちらとも言えない距離感。中途半端にならず、距離や構図が統一され、妙にしっくりくる。
つまりこれは、私やここに写っている人たちがこの世からいなくなったとき、誰かに見つめられ、そのとき何を感じさせることが出来るのかを問う、わたしの密かな実験でもある。確かめる術こそないけれど。
(引用:喜多村みか写真展「meta」ステートメントより)
写真の根源的なものを問い続け、同じ距離感、構図の集積によって立ち現れる何か。いい試みだと思う。額装も丁寧でウォルナット風の塗装フレームでフローティングも効果的だった。とても気に入り同タイトルの写真集も求めた。
書いていて思い出したが、渡邊有紀という名前もなんとなく覚えていて、調べてみると、2015年にノートンギャラリーで「内海」という個展で作品を見ていた。揺らいだイメージが印象的だった。こちらも近くにギャラリーあったよなと思って寄ったのだ。別々に興味を持って、似たような動機でふらりと足を運んだというのも面白い。
瑛九1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす@東京国立近代美術館
近美で瑛九展。これがとても楽しめた。今まで聞いたことがなかったけど、「瑛九」という名前の響きに反応した。油彩の「れいめい」は一見の価値あり。他も見所が多く、フォト・デッサン、いわゆるフォトグラム手法の作品や、油彩、デッサン、コラージュなど手法は多彩を極める。時代的にも技法的にもシュルレアリスムの影響を感じる。
瑛九の作品集がないか調べていると、ひとつの作品集が見つかった。「瑛九画集・久保貞次郎編」。瑛九作品が満遍なくみられる画集になっている。さっそく求めた。しかもこれは特装版で、巻頭に本物の銅版画が4点綴じられている贅沢なつくりだ。刷りは林グラフィックプレスで池田満寿夫監修による。
気持ち的には切り離して額装したいけど、綴じられて成立している特装版なので、それを解体するのは気がひける。そうはいっても40年以上前の本なのでそれ相応にシミがあり、アーカイバルの点からも本当はバラしたほうがよい。できれば版画4点はシミ抜き修復を依頼して別に保管したい。ただし、4点の修復となると安く見積もっても5万円は堅い。そこまでするかという問題もある。いろいろ悩ましい。
さて、ここ2、3年くらいで版画にも興味の枝が伸びている。その中でも銅版画はよい。いくつか技法があって、ドライポイント、メゾチント、エッチングの中でも、よりシャープな線描で構成されるエッチング技法が好み。プレス時に生じるわずかな四角いエンボスが活版印刷のそれと同じで、平面の中に立体感をもたらし、紙の斤量を感じさせ、物質としての魅力が際立つ。写真好きに版画好きが少なくないのも、ペラ一枚の紙の魅力を引き出してくれる技法だからだろう。
渡部さとる写真展「demain 2017」@ギャラリー冬青
冬青で渡部さんの写真展「demain 2017」を観てきた。安定の銀塩モノクロプリント。なじむ。年代も写っているものもばらばらで、いろいろ読み解き方があるだろうが、もう、シンプルに「渡部はこれです」と宣言をしたような展示になっていた。写真業界のめまぐるしい変化を周知しながらも、開き直るんではなく、諸々踏まえたうえでこれを出している。取り留めもなさそうでいて、どこか腰の据わった展示だった。
新作の写真集はチャレンジングな一冊となった。普及版とあわせて、冬青としては珍しい特装版もある。渡部さんの思いのたけが詰まったものだ。今ではスタンダードとなった感もある写真集の布張り製本も、冬青となれば特別となる。取次店を通しての流通を旨とする冬青の本は、ダストカバーありきのデザインになる。だから装丁で遊ぶことはまずない。だから、この特装版はISBNのない手売り専用となったようだ。
ただ、今回の写真集で挑戦的なのは、装丁の話だけでなく、むしろ本紙の方だろう。すみずみまでインクで染め上げた「しみチョコ系」とも言える写真集で、表面張力の限界を試すような紙面だ。イメージの周りは余白をなくし、真っ黒な「余黒」仕上げ。よくこんなの成立させたと思う。普通なら企画段階で消えてしまうようなアイデアだし、印刷にこぎつけたとしてもどこかで破綻していてもおかしくない試みだろう。展示同様に取り留めないようでいて、つい引き込まれる。あらゆる写真のオマージュが含まれているようにも見立てられるし、単なる寄せ集めとも取れる。この落としどころのない感じがかえっておもしろい。まったく落とせてないんだけど、なるようになっていて、不思議と全体の調和がとれている。
渡部さとるという写真家、カメラマンは、どうも写真の中間地点に身を置いて活動しているようなところがある。多方面を柔軟に見渡せるようにしながら、自身はその場からそれほど動かない。受け入れるべきは受け入れるが、我関せずも貫ける。東北人の頑なさを保ちつつ、好奇心に身をまかせられる気質。他人に言われなくても自分の立ち位置がよくわかっている。そのうえで継続的にコツコツと挑戦を続けている。なかなか引き合いに出す人物が見当たらない。
渡部さんのワークショップ出身としては、渡部さんの写真や写真集を語るのは暗に避けてきたようなところがあった。どうも身内感覚になってしまい語るだけでも面はゆくて、言葉があまり出てこなかった。6年経ってやっと気負わず話せるようになったのかもしれない。
かぶせ箱を差し箱に作り変える
プリント購入時に額装もお願いすれば、「黄袋」+「差し箱」に入れて納品してもらえる。黄袋は防虫効果のあるウコン染めの生地で美術品の収納には欠かせない。ウコン染め風の生地を使っている場合もあるけど、無いよりは良いし、何より出し入れがしやすい。差し箱は一般的に段ボール製で、短辺のひとつを差し込み蓋にして文化鋲で留める箱だ。ギャラリーのバックヤードなら必ずといっていいほど存在する。額装品の収納には、黄袋と差し箱の組み合わせが最適。定番中の定番だ。
ところが既成額の外箱のほとんどは「かぶせ箱」。量産が効きコストも安いが、とても収納しづらい。縦置きにするとふたが開いてしまうし、平ゴムやパーマセルで留めてもすっきりしない。かといって平積みすると「ダルマ落とし」よろしく、取り出すのに苦労する。やはり額の収納は差し箱の縦置きが理想的だ。
そこで時間が取れた時に、かぶせ式の外箱を、差し箱に作り変えるようにしている。板段ボールで一から作るのと違って、かぶせ箱からの改造はわりと簡単だ。すでにその額のサイズになっているので、四辺中の短辺ひとつを残して、三方を塞げば出来上がりとなる。道具類は次のものがあるといいかも。
- 水張りテープ(ミューズ製)
- 文化鋲(タコ糸、ポリワッシャー付き)
- ボーン・フォルダー
水張りテープと文化鋲は「まさにこれ!」って仕上がりになるのでぜひ用意したい。
特に水張りテープはマスト。他の粘着テープでも代替できるけど、水張りのほうが重ね貼りしやすく、仕上がりが断然きれいだ。文化鋲は金づちで潰して固定する鋲で、タコ糸とポリ製ワッシャー付きのものだ。他にはハトメ金具を使った封緘と呼ばれるタイプもあって、マチ付きの書類封筒に使われている。見た目は似ているけど、差し箱には文化鋲が向いている。
それと、あると便利なのがボーン・フォルダー。バーニッシング・ボーンなんて呼ぶこともあるヘラだ。製本道具として使われている。紙工作ではとても重宝するので、一本あると本当に便利。ちなみに「ボーン」って名がつくのは実際に牛骨製のものが主流だから。牛骨製は用途に合わせてヤスリで削って形状を変え、アマニ油に浸し自然乾燥させて硬くしてから使う。牛骨製の場合は必ずこの作業をしないと、骨の中は見た目以上にスカスカなので、すぐ折れてしまうし、けっこう生臭い。3年くらい前に作ったのが少しずつ飴色になってきていい味出してきてる。
文化鋲は水張りテープで三方を閉じる前に、裏から金づちで打ち込んでおくと良い。慣れが必要だけど、先端を垂直に打ち込めれば自然と四方に割れて潰れてくれる。
テープは、水に浸して軽く絞ったスポンジでのり面を濡らして貼り付けるだけ。ボーン・フォルダーで余分な水分を逃がしながら慣らせば、より仕上がりがきれいになる。
差し込み蓋は、かぶせ箱の上蓋の短辺をひとつ切り落とし、底蓋の短辺に繋げて作っている。中には、底蓋の側面を二つ折りにして強度を高めているものがある。それならば、折り込みを広げるだけで差し込み蓋になる。上蓋は切り落とすだけだ。
こういう外箱なんかにも気を配ると額装品の管理も楽になって、掛け換えなんかもスムーズになると思う。
エクタクローム再生産で20年前を思い出す
写真をはじめたのが2010年ごろで、このエクタクロームが製造終了のことも知らず、再生産のニュースにもそれほどテンションが上がっていないのだけど、実は20年くらい前にフジの工場のバイトをしていたことがあって、ダイレクトプリント部門で三、四年勤めていた。
そこでポジのスライドをロールの印画紙に機会焼きしたり、L版の複製を焼いてたりしていた。周りには巨大な引き伸ばし機や巨大な現像機があった。たまに現像液なんかの劣化をチェックするために検査してデータ取りする仕事もしていた(当時は言われるがままに作業していただけなので具体的に何だったのかわからない)。
大伸ばしの部署のベテラン社員は特に高いプライドを持って仕事をしていて、何十年もの経験を生かして、歴戦のプロやハイアマチュアのシビアな要求に的確に応えられる職人気質の人が多かった。バイトさんの中にはスライドを一目見ただけで適正露光や色補正を言い当てるようなツワモノもいて、社内コンテストでトップを取ることもあり、社員が舌を巻くこともあった。
辞める一年前くらいにはプリントからプリントへの複製はフロンティアが導入されてデジタル化された。アナログの機会焼きから当時最新のスキャニングマシンへと移行した。試験導入後のテストプリントやキャリブレーション、本格実施まではお手伝いした記憶がある。確かフジ製のデジカメでハニカム構造のCCDが初採用された頃だ。
当時はまったく写真自体に興味がなくて、あくまで生活のためだったんだけど、今思うとかなり貴重な経験だったと思うし、今だったらテンション上がりすぎて仕事にならないかもしれない。
今の自分にとっての布石が、その時に既に打たれていて、年月を経て繋がったような気さえする。人生無駄なことがないってのは本当だと思う。
どこかの誰かのために
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
昨年一年もたくさんの写真に出会うことができました。今年もいろいろ楽しみです。
このプログは最初、写真を始めたばかりの習作フォトブログとしてTumblrを使ってスタートしました。それからWordpressに移行してからは、少しずつ文章量が増え、いつの間にか写真展の感想を投稿するようになりました。このスタイルはしばらく続けていくと思います。
実は私の周りでこのブログを知る人はあまり多くありません。タイミングが合わず言いそびれていたのもあり、当初は単純に恥ずかしさもあったのですが、どちらかというと天邪鬼なたちなので、本当に興味がある人に読んでもらえたらと思っていたからです。
もちろん友人に楽しく読んでもらえたら、素直にうれしいです。ただ、ブログを教えたから見てもらうのではなくて、見知らぬ人でも、通りすがりでもいいから、その人の興味に符合して、足を止めてもらえたらもっとうれしいなあと思うのです。僭越ながら、どこかの誰かのために、ちょっとでも役に立てばいいなと考えています。
自分の知識や経験など浅薄極まりないんですが、興味が尽きないのが写真の世界です。人それぞれ、その段階、その段階での楽しみ方があると思います。他人の評価はさておき、少なくとも私が「この写真はすごい!」「こんな写真家がいたのか!」と驚き、喜び、面白がれたものを、日々つづってゆけたらいいなと思っています。
今年も自分勝手に主観満載で写真展や写真集、機材のことなどをつづっていきますが、よろしければたまに覗きにきていただければ幸いです。
シノゴ用の三脚とフィルムと現像用品を買う。
ゆっくりと進行しているシノゴで撮ってみよう計画。やっと中古三脚を手に入れ、先日フィルムと現像用品を買った。三脚はジッツオの雲台付き2型3段の出物があったので早々に手に入れた。フィルムはフォマパン400。粉末現像剤のアドックス・アトマル49、それとステアマンプレスの現像タンクもそろえた。
ステアマンプレスはカメラ本体に続き、クラウドファウンディンク系。Sliversaltでも買えるが、直販もある。スキットルのような形状で一度に4枚現像でき、液量が475mlと少なくすむのが特徴だ。まだ使ってないのでなんとも言えないけど、コンパクトで使い勝手は良さそう。
ここ何年かは、ブローニーフィルム以外の感材はSilversaltで買っている。値上がり著しい感材は慎重にならざるを得ない。周りもヨドバシで買わなくなったと言っているし、B&Hでまとめ買いする人も多い。送料が2、3千円掛かっても国内で買うより安く済む。これでは国内需要がジリ貧になり、値上がりやディスコンの波は止まらないだろう。サイバーグラフィックスが撤退してしまえば、国内での入手が困難になるなんてことも懸念される。海外の小売から買っても安い現状だし、早いうちにどこか合弁で輸入代理を考えてもらいたいものだ。
さて、話は戻して、シノゴ計画がなかなか進まないのは、もともと腰が重いタイプなのと、さすがに年末とあって追い込みの仕事でフラフラになってしまったからだ。年内に一枚くらいはと思っていたが、来年になりそう。でも初撮りが楽しみで仕方がない。と言いつつ、どこかに出かけて撮影プランはないので、自室で物撮りでもして試してみようと思う。お正月の宿題だ。
年末にオリジナルプリントを見返す。
年末にオリジナルプリントを見返してみた。グループ展で出した昔の自分のプリントも区別なく見てみる。ひとりプリント・ビューイングだ。額装しているものはたまに掛け替えているので、見る機会が多いのだが、シートのまま、もしくはブックマット入りのものは年に数回ほど見る程度だ。別に思いいれが浅いわけではなく、すべてを額装して飾るわけにはいかないだけだ。お金が掛かるのはもちろんだけど、額に入れると物理的にかさばるので、今の住環境では収納に支障が出る。ブックマット入りも含めてシートはすべて無酸性の保存箱に小分けして保管している。写真集のスペシャルエディションに付属しているプリントなども同じように冊子と分けて保管している。
5、6年かけて集めたプリントは、銀塩モノクロのプリントが多いものの、意外と多様なイメージが多い。ストリートスナップ、ポートレート、風景、静物。まあ、イメージの種類で選んでいるわけではないので、ばらけていても不思議ではない。順繰りにプリントを見ながらあれこれ思いめぐらしていると、何となくシートのままのプリントの分類が始まった。それはざっくりと三つに分かれる。いつか額装したいなと思うものと、少なくともブックマットには入れておきたいなと思うものと、まだシートのままでいいなと思うものだ。見返すたびにその分類が変わっていく。無意識に「もし飾るとしたら」と想定していたのかもしれない。
額装すればそのまま飾れるし、ブックマット入りなら同規格のフレームがあれば差し替えて飾れる。その次がシートのままとなる。でもシートのまま観賞するのも結構好きだ。手に取って見られるのも一興。三番目の分類「シートのまま」は額装の優先順位ともいえるし、シートのままのほうが適正と考えたのかもしれない。はっきりとした根拠があるようでない。
エレナ・トゥタッチコワ「In Summer: Apples, Fossils and the Book」@POST
POSTで開催されているエレナ・トゥタッチコワの写真展を観に行ってきた。写真集「After an Apple Falls from the Tree, There is a Sound -林檎が木から落ちるとき、音が生まれる-」の発売に合わせた写真展で、同時開催で代々木八幡のnaniでも映像作品を展示している。昨年のポエティックスケープでの個展も記憶に新しい。ダーチャの景色はどこか懐かしく、なんだかハックルベリー・フィンやトム・ソーヤを読んでいるような気分になる。
今回は新作「Treasures」が加わり、さらにわくわく感が増している。秘密の場所から宝物を発掘してくる才能は一瞬のきらめきなのだ。ロシアの短い夏。幼少期のかけがえのないひと時。その瞬間にしか出会えない宝物。箱庭のような世界。凝縮された記憶が観る者をやさしく包んでくれる。エレナの写真は清々しくもあり、どこか面映ゆくもある。シンプルに「ああ、ほんといいなあ」って素直に思える写真ばかりだ。
写真集もいい。今回はプリント付きのスペシャルエディションを購入した。白地にグレイッシュな深緑のワンポイントのデザインが美しい。仮フランス装でしなやかな張りを持たせた表紙と微塗工紙の組み合わせが手になじむ。特装函がなんとも贅沢だ。版元の「torch press」は出版ペースはゆっくりなリトルプレスながら、シンプルで良質なものを着実に出版している。注目のレーベルだ。
エレナの天真爛漫で予想の斜め上をいく発想は、自然と人を惹きつける力がある。かけがえのない才能と素養に同時代に出会えたことを心から感謝したい。
エレナ・トゥタッチコワ/Elena Tutatchikova
1984年、モスクワ生まれ、東京在住。モスクワでクラシック音楽や日本の歴史を学んだ後、東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻で学ぶ。自然と人間の関わりや文化的現象を通じて、人間の記憶がどのように形成されるかに関心を抱き、地域のリサーチを重ねることで土地や個人の物語を採集し、写真、映像、音、テキストによるインスタレーションとして構成している。主な展覧会には、個展「After an Apple Falls From the Tree, There is a Sound」 POETIC SCAPE(東京、2015)、東京写真月間「To the Northern Shores」 MUSEE F (東京、2015)、グループ展「はじまりのしじま “In the Beginning, Silence was Always Silence”」Takuro Someya Contemporary Art (東京、2015)、茨城県北芸術祭(2016)等がある。
《プロフィール引用 torch press より 》
村越としや写真展「雷鳴が陽炎を断つ」@ギャラリー冬青
2011年頃から観続けている村越としやの写真。これからもずっと観たい写真家のひとりだ。震災を経て写真の見られ方は変わったかもしれないが、彼自身は何かを変えようとしていないし、写真もずっと同じスタイルを継続している。その代わりというか、フォーマットはわりと豊富だ。でも撮っているものは変わらないので、パノラマだろうが、スクエアだろうが、6×7だろうがあまり印象は変わらない。
先月の渡部さとるさんとのトークショーでの写真家に至る経緯がとても面白かった。選択した進路のどれもものにしなかったおかげで、今の村越としやがある。こう言っては失礼かもしれないが、他の選択肢を袖にしてもらってありがとうとお礼を言いたい。それほど写真家という肩書きがしっくりきている気がする。
基本的に写真集とプリントの売り上げだけで活動を続けているそうだ。彼が望んでそうなっているわけではなさそうだが、請け負いで写真を撮ることはあまりないらしい。写真界での立ち位置、スタイルは唯一無二の存在になりつつある。仮に村越としやに憧れて同じ道を歩もうとしても成立しないかもしれないな。
というわけで、村越作品の3枚目を注文した。
Jack Latham – Sugar Paper Theories
宮田明日鹿【con/text/image】@Poetic Scape
中目黒のポエティックスケープで宮田明日鹿【con/text/image】を観てきた。稀に見るおもしろさだった。ニット作家による個展であり、傍目には写真展には見えない。宮田さんのファンであるニット好きからしても、従来の写真好きからしても、戸惑うことしきりだろう。
宮田さんは日常的に美術館やギャラリーの展示物の脇にあるキャプションを携帯電話のカメラで撮影している。あくまで備忘録なので、水平垂直など気にせずパースは適当で、自分の上半身や手の影も写ってしまっている。その画像データを電子編み機に読み込ませ、二色の糸を選び半自動で編んでゆく。キャプションの文字も、スチレンボードも、壁紙も、自身の影も、すべてが任意の二色の糸に置き換わり、いっしょくたに編まれてしまう。編みあがった一枚の作品は元がキャプションの画像とは想像がつかない不可思議な模様として立ち現れる。
展示では編まれたニット作品の左下には、元となるキャプションを掲示している。キャプションであるかのように脇に掲示されたものが実は親で、ニットが子供となる。その親子関係が妙な愉快さを生んでいる。キャプションの画像がニット作品へどう置き換わったかをくりかえし見比べるているうちに、いろいろと共通点や差異が見つかると笑えてきてしまう。テキストの部分の形がそれなりに再現されていたり、写りこんでしまった宮田さんの影のほうが強調されてしまっていたりして、その緩い偶然性や滑稽さが見る者の思考を際限なく巡らせてくれる。
宮田さんのニット作品を観ながら写真サイドでどう見立てられるだろうかと考えた。ぐるぐると思考していると、「あ、これ、ひょっとしたら新しい画像形式なのかもしれない」と思いつく。手に取れるニット作品でありながら、概念的には「.knit」という拡張子を持った新しい非可逆圧縮形式で書き出された画像なのだ。いわば写真展ではなくて写真的展といえる。これは私なりの一つの解釈で、見る人によってまったく違う感想になるだろう。特定の見立てだけでとどまらない広がりをこの作品に感じる。
作品は編まれているけど、心はほどける素敵な個展だった。それにしてもオーナー、攻めに攻てるなあ。
許容と受容
「批難」するのはわりと簡単なことだと思う。相手の欠点や落ち度を主観で指摘するだけでいい。無責任さが付きまとい、そこに気づきや広がりは生まれにくい。自分でもついやりがちだ。「批判」は白黒はっきりさせるニュアンス。良いなと思ったことも、これ駄目だなって思ったことも、はっきり言う感じ。毒舌、辛口でキャッチーな意見になる反面、褒めすぎ、こき下ろしすぎの極論にもつながる。「批評」は対象の良い点も悪い点も挙げた上で総合的に判断する。冷静かつ客観的に努めている姿勢がうかがえる。いずれにしても全く主観を入れないというのは無理な話だ。ようは主観の入れ方が問題で、「許容」や「受容」する心がなければ、「批難」も「批判」も「批評」も大差なくなってしまう。「許容」や「受容」は面白がる心につながってくる。まだまだだなと思うことも、これすごいなって思うことも、全部ひっくるめて楽しんでしまう姿勢で写真を観たいと考えている。周りにそういう人たちが多いことに感謝している。そうして観る強度がだんだんと高くなってくれたらと自分に期待している。
香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治-シベリアシリーズ・原爆の図・地図-@平塚市美術館
その日の朝に思い立って湘南新宿ラインに飛び乗った。とにかく観に行けてよかったということ。今年の展覧会で三本の指に入る名展だった。この展覧会を雄弁に語る言葉は持ち合わせていないけれど、三者の苛烈な作品がおもむろに胸ぐらを掴んできた。作品の強度が高いのに、構成、配置、ボリュームのバランスが秀逸で、観ごたえがあるのに中弛みしない。一定の緊張を保ちながら鑑賞できた。香月泰男、丸木位里・俊、そして川田喜久治。継ぐべきものだ。観終わったら力が抜けてしばらく呆けてしまった。治に居て乱を忘れることなかれ。いや、今は「治」でもないのか。川田さんがよく口にするカタルシスとクライシスの言葉が頭をよぎる。とにかく観に行けて良かったということだ。
第15回写真「 1_WALL」展 公開最終審査会@ガーディアン・ガーデン
写真の公募展に関しては食わず嫌いなところがあって、写真新世紀も1_WALL(旧・ひとつぼ展)も毎回見に行くというほどのモチベーションはなかった。特に1_WALLは入り込みにくい印象があった。
ところが3、4年前に出会った田中大輔さんが初応募し、最終審査まで残ったと聞いて、初めて公開最終審査を観覧することにした。
やはり食わず嫌いはもったいないなと改めて実感した。観覧できてよかった。フィイナリスト6名の期待感は確かなもので、それそれの持ち味や魅力があり、初見でも甲乙つけがたかった。
その中でも、木原結花さんの「行旅死亡人」はきわめて完成度が高く、登竜門にエントリーするレベルをとうにクリアしている作品だった。入念なリサーチを重ねて、事実とフェイクを写真やテキストに落とし込む製作方法はタリン・サイモンを彷彿とさせ、このままコマーシャル・ギャラリーに出してもおかしくないと感じた。個人的には写真と記事を二枚抜きのマットで並べてひとつの額に収めても面白いのではと感じた。
それと、アンポンタン・裸漢さんはポートフォリオが抜群によかった。今までは撮りためた写真を分類して発表していたらしいが、何かひとつ抜けきれないものがあったらしく、分類することをやめてみたそうだ。それが功を奏して、「等価化」「均質化」という新たな表現を手に入れた。写真を撮る技術がある上に、もともと何でも同じ感覚で均質に撮っているから、分類という色気がなくなり、より強度を増した写真群になっている。
ラッセルさんは展示よりも写真集で見てみたい作品だ。個人のアイデンティティを元に製作されてはいるけれど、そこを超えて別のストーリーに再構築すると今までにないものが出来上がりそうだ。
富澤さんと遠藤さんの二人はとにかく写真がうまい。富澤さんはライフワークとして自分のルーツを撮りためていきながら、決め切らない写真、意図的にハズす写真を撮れる。遠藤さんはその逆で決め切る写真、決定的瞬間をあえて狙って突き詰めようとしている。このコントラストも面白かった。
でもグランプリは一番完成されていない田中さんだった。撮影技術や展示の完成度は、他のフィイナリストのほうが長けていたかもしれない。でも田中さんのプレゼンを聞いてしまったら、その可能性に賭けてみたくなる気持ちもわかる。プレゼンに関しては他を圧倒する熱量だった。
以下、田中さんのプレゼンテーションです。
僕は普段、子どもの頃から抱えてきた孤独や怒りといった感情を大切にしながら、作品作りをしています。展示作品は、象のはな子の映像を中心に構成したもの。はな子に初めて対面した時に殺気みたいなものを感じると同時に、共感する自分がいたのがきっかけで写真を撮るようになりました。そのうちに、自然と動画を撮るように。なくなってもそこにあるもの、なくなったからこそそこにあるものが写真には存在しているはず。時間や瞬間を捉えるだけではなく、写真にはまだまだ新しい可能性があると思っています。
以前、洋服ブランドのショーを撮影したことがあって、その時のモデルさんを撮影した時のざわざわとするような感覚を今も覚えています。個展では、そんな風に、心が動かされるような対象物を撮影して展示したい。
引用:田中大輔「elephant sea」公開最終審査・プレゼンテーションより
一年後の展示がとても楽しみだ。
公開最終審査のレポートが掲載された。ご興味があれば詳しくはこちらに。
泉大悟写真展「UNDERCURRENT」(2016)@月光荘画材店 画室3
ニコンサロンの「FRAME」はブツ撮りによる銀塩のソリッド(solid)な美しさを追求していったシリーズだったが、この「UNDERCURRENT」シリーズはソリッドさから離れていき、真反対のホロウ(hollow)な美しさに移行していっている。でもホロウ側に完全に行ききってしまうことはなく、虚ろでおぼろげな画面の間に、キリッとした画面が混ざり、展示として不思議なリズムを刻んでいる。
ひょっとしたら、もともと自然と反応するシーンが、多重性だったり、レイヤー構造だったりするのかもしれない。ガラス物の写り方や、レースのカーテンを挟んだイメージなど、複数のレイヤーが重なり絡み合いながら、いつか溶けて無くなってしまうような揺らぎがある。どれも一枚の中の構成要素が多いので見れば見るほど発見があって面白い。
安定感のあるファインプリントはそのままに、今までよりも薄っすらと粒状感が出ている気がしたが、狙って何か特別なことはしていないらしい。最初に覚えたプリントワーク、レシピを変えていないし、機材も変わっていないそうだ。ここは普通のカメラ好きの男性とは一線を画す。ずっと「最初」が継続しているというのは女性に多い傾向だ。身近にも同じものを使い続ける女性のカメラ仲間は多い。
余談だが、アートディレクターの平林奈緒美さんは、黒縁眼鏡に、シンプルなトップス、軍パンという定番のコーディネートを崩さないと、トークショーで言っていた。愛用の黒縁眼鏡が廃番になると聞いて、一生分の5,6個をお店を回って入手したという逸話があるくらいだ。数か月後に職場近くのローソンで平林さんを見かけた時も、確かに同じスタイルだった。
平林さんほどテンション高めじゃないんだけど、泉さんにも似た佇まいがあって、ずっと「最初」を使い続けることで「らしさ」が滲みでる人なんだろう。変わらないものは変わらない。でも変わらない物事を組み合わせ重ね合わせて、今までより少し強度を増した写真を差し出してくる。実はかなり油断ならない写真家なのだ。
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