[写真集]奥山淳志「弁造 Benzo」

北海道で自給自足の生活を送った井上弁造さんの20年の記録。身内ではない他者と向き合うというのは、写真家としてのひとつのアプローチだとは思うんだけど、それが20年となるとね、半端ではない。その集大成がこの一冊だ。

2012年に弁造さんは他界されたが、その後も奥山さんは撮影を続けている。かつて弁造さんの家があった庭や無数に描かれたエスキースなどの遺品を折に触れて撮りためている。

銀座ニコンサロンで開催されていた個展「庭とエスキース」では、弁造さん亡き後の写真も多く展示されていた。展示構成はタイトルの通り「庭」と「エスキース」を2枚1組で並べられていた。奥山さん自身が、今までにない選び方と組み方をしたら、どのような弁造さんが立ち現れるのか模索しているようだった。1時間ほどかけて何度も見た。素晴らしい展示だった。

写真集にはCプリントが付いてくる。いわゆるスペシャルエディションになっていて、通常版の設定がない。かなり珍しい試みだ。購入者が好きなカットを選べるようになっていて、選んだ一枚を奥山さんにお伝えすれば自ら焼いてくれる。はじめは直感的にすぐ選べる気がしていた。それが甘い考えだったとすぐにわかる。写真集が届いてから2ヶ月ほど経っても、まだ1枚を選び出せずにいる。

シンプルに絵的な好みとかで選べば良いものを、弁造さんと奥山さんのことをを考えているうちに、ついつい深読みしてしまうのだ。写真集を買ってすぐなのに、弁造さんに会ったこともないのに、奥山さんとは銀座ニコンサロンで初めましてだったのに、あれこれ想像してしまって、写真を選ぶところまで気持ちが行かない。

奥山さんは常日頃から弁造さんのことを考え、写真を撮り、また考え、また写真を撮る、を繰り返してきた。それが今なお継続している。奥山さんは、弁造さんを通して、写真を通して、人の在り方をずっと考えている。私も倣うように考えてみたくなる。それだけの力、魅力がこの写真集には備わっていると思う。

「期限はありませんから」という一言に甘えて、もう少しだけ考えてから1枚を選びたい。

参考リンク:奥山淳志写真集「弁造 Benzo」について

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鴻池朋子「Little fur anger」@ Gallery KIDO Press(3331 Arts Chiyoda)

3331アーツ千代田内にある「ギャラリーキドプレス」で鴻池朋子さんの版画を拝見した。鴻池さんの作品を見るのは初めてだった。キドプレスは半分が工房で、半分が展示スペースになってる。とてもコンパクトなギャラリーだ。今年で15周年ということらしい。以前は清澄白河にあって、2015年に末広町に移転している。

今展ではカービングという版木作品とドライポイント技法の銅版画の二種類を展示していた。版画を発表するのは初めてとのこと。木版用の版木をそのまま作品にしているダイナミックなカービング作品も素敵だったけど、気になったのはドライポイントの方だった。朝日新聞朝刊の朝日歌壇俳壇という連載の挿絵「どうぶつのことば」の中からご本人が選出したもの。連載を引き受けた時は鉛筆のドローイングにするつもりだったが、新聞の挿絵としてあまりにもつまらなく見えて、同じ「刷る」ものの方がしっくりきそうだと銅版画にしたそうだ。

モチーフは蜂やウサギ、毛虫などの昆虫や動物だ。ドライポイントならではの滲んだ線描写と、黒と青のインクを用いた2回刷りによるわずかなズレを活かすことで、ふわりとした産毛の質感を表現している。じーっと見つめていると本当に毛が揺らいでくるようだ。薄っすらと青味がかったトーンも美しい。

中でも「横たわる獣」はお気に入り。何かの幼獣と思しき姿は、毛むくじゃらで、ちょろりと尻尾を生やし、仰向けに身体を縮こませ、やや上目づかいでこちらを見ている。野生の険しさを漂わせながらどこか愛嬌がある。他が実在の動物や昆虫をモチーフにしてるのに、これだけ「獣」って、ざっくりしてるのも面白い。挿絵の中には、他にも不特定な生き物は登場してたのかちょっと気になる。

別件が終わった後に寄っただけだったけれど、良いギャラリー、良い展示が見られた。これを機に今後の企画展も見てみたいし、鴻池さんの作品についてももっと知りたくなった。

野村恵子 展|OKINAWA @POETIC SCAPE

楽しみにしていた野村恵子さんの個展を見てきた。同ギャラリーでは5年ぶりだそうで、そんなに間が空いていたんだと改めて思う。前回の展示は思い出深く、思い入れも強い。というのも、コレクションしているプリントの中でも最初期の1枚が、前回の『野村恵子 展【Soul Blue -蒼の彼方へ-】(2013年)』のプリントだからだ。私のルーツの一つである五島列島の写真で、初見でとても気になり、2度目に訪れた際に意を決して購入した。とても大切なプリントとなっている。

今回の個展は、ポルトガルの出版社『Pierre von Kleist editions』から昨年に出版された写真集「OKINAWA」から、新作を加えて展示をしている。2014年の銀座ニコンサロンの『赤い水』で見たイメージもあった。やはりこの濃密で濃厚な写真はクセになる。野村さんの写真には、自分の中にはない「濃さ」があり「強さ」がある。だからこそ無性に気になり魅せられてしまう。

どれをとっても野村恵子さんらしい濃さと強さを持った写真ばかりなのだが、その中でも「水面に浮かぶ女性」「焼かれる山羊」「腕にタトゥを刻んだ女性」「屋上の洗濯物」が気になった。特に「屋上の洗濯物」は銀座ニコンサロンでも見ていて、強烈に印象に残っている。たしか野村さん本人に、「どれか気になるのある?」みたいことを聞かれて、真っ先に選んだのがこの写真だった。またこれが壁にかかっていてとてもうれしかった。

それに加えて、今回は天野太郎さんとのクロストークがあり、とても楽しみにしていた。つい先日まで横浜市民ギャラリーあざみ野で開催されていた写真展『金川晋吾「長い間」』のキュレーションを手掛けられ、見事な展示構成を目の当たりにしていたこともあり、お名前は聞き及んでいたが、実際にはどんな方なのだろうと興味津々だったのだ。

さてそのトークはもう抱腹絶倒、爆笑必至の無双トークだった。詳細はいろんな意味で割愛せざるを得ないが、あえて一言で表現するならば「愛ある叱咤激励」とでもいうべき内容だった。天野さんも野村さんも関西弁全開でもはや漫談。天野さんの確かな経験と知識に裏打ちされたお話は、核心を突きまくり頷くことしきり。いつまででも聴いていられる面白さで、「ああ、写真と出会っててよかった」と思えるひと時だった。

野村さんが母方のルーツである沖縄を撮って20年。特有の時代背景を引き受けつつも、あくまで私的な目線で沖縄を追い続け、粘り強く、力強く、濃密にとらえ続けている。他のどの沖縄写真とも違う、野村恵子さんならではの沖縄写真は着実に強度を高めている。また長野のシリーズが継続中で、期待は膨らみ楽しみは尽きない。

なんにせよ、この人なら何があっても写真は続けるだろうと確信を持てる写真家の一人だ。だからこそ、写真家の野村恵子のコレクター、その末席にいられるだけでも、とても誇らしい気持ちにさせてくれるのだ。

金川晋吾「長い間」@ 横浜市民ギャラリーあざみ野・展示室1

最終日。初めて金川晋吾さんの写真を見ることができた。とにかく見に行けてよかった。写真にもテキストにも映像にも吸い寄せられた。父と、その父の姉である伯母の失踪。どう向き合い、どう受け入れ、どう取り組み、どう写真で表そうと、露にしようとしているのか。生まれてきた境遇、社会的な立場、親子や親類という関係など、生きていく中での役割が破綻した時に、人は何を思い、何を考え、どう行動するのか。息子である写真家も、被写体である父も、そして伯母も、何ら答えを持っていない。身内の稀有な状況を晒し、人と人の関係性を問い続ける金川さんの写真家としての姿勢は興味深い。

継続中の二つのシリーズは、道半ばで、未知なまま。理解するための導線も用意されているようで用意されていない。自分の中ではまだはっきりとした言葉が浮かんでこないけれど、しばらく写真集をめくりながら、写真とテキストを頭ん中で反芻させてみようと思う。

あと今回の展示構成が秀逸。前半の父のシリーズは、縦3列に互い違いに壁が設置され、ひとつの壁に大きな写真が1枚ずつ。ゆらゆらと木の葉を落とすように右に左に視線を誘導して、とても滑らかに観覧できる。壁と壁の間から他の写真が何気なく見切れるのもおもしろい。会場の中間地には、父の自撮り写真のスライドショーを挟みテンポを変える。それから後半の伯母のシリーズは、打って変わって広い部屋に小さな写真が広い間隔で並んでいて、時計回りに自然な導線になっている。大きめのスペースでこれほど滑らかで無理のない導線はあまり体験したことがない。この構成力、唸りました。

版画の景色 現代版画センターの軌跡(前期) @埼玉県立近代美術館

昨年末から楽しみにしていた企画展。期待に違わぬ質と量で見応え十分だった。

「現代版画センター」は1974年の創立から1985年に倒産するまで、版画芸術の普及とコレクター育成という明確な構想で活動していた。版画作品の「版元」として奔走し振興に努めたという。10年余りという活動期間を短いと取るか長いと取るかは人それぞれかもしれないが、国内における現代版画の黎明期を支えていたことは間違いない。今その活動は画廊「ときの忘れもの」に引き継がれている。

版画というメディアに興味を持ってから、写真界の周辺で版画が見え隠れするようになった。興味を持てばアンテナが張られて、今まで目に留まらなかったものが目に入るようになり、自ずと情報が集まってくるのは道理ではある。でもこれほどの巡り合せは、版画との不思議な縁を感じてしまう。まあ、勝手にだけどね。

版画初心者にとっては、ほぼ未知の作家ばかり。知っているなという名前は、アンディ・ウォーホル、安藤忠雄、磯崎新、一原有徳、瑛九、草間彌生、駒井哲郎、関根伸夫、舟越保武くらい。それもまともに作品を見たことがないものが多くて、どれもこれも新鮮。それに一点一点がユニークな主題で飽きることがなく、大満足の企画展だった。気づけば1時間半ほどかけて鑑賞していた。

木版、銅版画、シルクスクリーンなど技法による描写の違いや、コットンペーパー、和紙、布地、金属などの支持体の違いも楽しめる。版画は写真よりも支持体のテクスチャーを楽しむメディアかもしれない。ミクロな視点も版画の醍醐味と言える。写真も版画も「プリント」という括りでは共通点が多く、写真好きも意外なほど楽しめると思う。

また図録がかっこよくて即買いした。タトウ箱入りの分冊という凝った作りだ。それと『版画、「あいだ」の美術』という本もゲット。これも楽しみだ。

一部展示の入れ替えがあり、トークイベントがあるようなので、時間を作って後期も足を運びたい。

川田喜久治 ロス・カプリチョス –インスタグラフィ– 2017 @PGI(赤羽橋)

VIVOメンバーの中でも個人的に特別な存在になっているのが、川田喜久治さんだ。東京国立近代美術館のプリントスタディでラストコスモロジーの収蔵品45点を閲覧してからというもの、すっかり川田ワールドに魅せられてしまった。素人がたった一人でプリントスタディを申し込むなんていう研究員が呆れる暴挙はもうできないかもしれないけれど、怖いもの知らずで臨めたことは後悔していない。とても貴重な時間であり財産になっている。

今回の個展はゴヤの「ロス・カプリチョス」という風刺の効いた銅版画集にインスピレーションを得て撮影したシリーズになる。1972年から雑誌で散発に発表され、1986年にフォト・ギャラリー・インターナショナル(現PGI)で個展開催。その後「世界劇場」という写真集(超レア!)に収録されているだけだった。それを今回は2016~2017年に撮影した新作を交えて再構成したものだ。のっけから目が釘付け。相変わらずの攻めの感じがたまらない。

川田さんの持ち味の一つは、シリーズを常にアップデートしていく姿勢だろう。懐古的にならず、シリーズを完結させることよりも、新たなシリーズを生み出すこと、かつてのシリーズも機会があれば新作を追加して進化させることができるのだ。それもこれも時代性や一つのイメージに執着せずに、常に社会や人に絡みつく危機的な予感や、カタルシスを柱にしながら、暗喩としての写真を提示し続けているからだと思う。だから写真に賞味期限が訪れない。きわめて根源的で普遍的なイメージを繰り出してくるのが川田喜久治という写真家なのだ。

川田さんの写真に込めるメタファーはとても鋭くて強い。非常に強い信念を持ち、写真との向き合い方に無駄がないというか、雑念を持ち込まないというか、そういう潔さがある。トークショーや文章でもとても端的に的確な言葉を選んでいる。これほど聡明で直観力に優れ、強度が高くて、しかもかっこいい写真を突きつけられる写真家が他に何人いるだろう。川田喜久治の写真を前にしたら、頭でっかちなコンセプトや、つまらない屁理屈、独りよがりな正論など木っ端みじんだ。年齢は関係ないとは思うが、今年の元日で85歳となった。写真の強さとは何なのか。それをじっくり考えるには、川田喜久治の新作ほどうってつけなものはないんじゃないだろうか。

Sylvia Bataille / AUTOROUTE @POST

Sylvia Bataille / substances toxiques © Sylvia BatailleSylvia Bataille / substances toxiques © Sylvia Bataille

恵比寿のPOSTでシルビア・バタイユの銅版画展。フランス生まれの作家で、銅版画のほか、写真やイラストレーションも手がけているようだ。見る前はぜんぜん予備知識はなかったけど、これがカッコいいのなんのって。完全にやられました。展示作品以外もシートで見せていただいて、時間の許す限り堪能してきた。

タイトル「AUTOROUTE」の通り、フランスの高速道路「オートルート」を走行しながら、車窓越しに並走する車を捉えたシリーズになる。まず写真を撮ってから、それをトレースして銅版画を製作している。メゾチントという凹版技法を用いた繊細な階調がとても美しいプリントだ。写真のようなグラデーションを表現するために、版を仕上げるだけで半年から一年もかけるそうだ。

ただ写実的とは言い難く、どこまでも「写真的」な描写だった。多色刷りのカラー作品と単色のモノクロ作品があり、どちらもとろけるような淡さがある。写真らしい要素は残してはいるが、自己の心象をより強調するように間引かれディフォルメされている。とても写真的でありながら、版画らしい線描写が際立つ。版画でこういう描写ができるものなのかと率直に思った。

高速道路の疾走感というより、パラレルワールドを覗いているような浮遊感がある。しかも視点が面白く、車全体ではなくて、テールランプの光跡や回転するタイヤに意識が向いている。特にホイールを注視しているようだ。ホイールが高速回転している様を写真を基に再現しながら、フェティッシュに「暴れ」させ「弾け」させている。スローな躍動感とでも言えるだろうか。見ていると時間軸やスピード感がずれてくるので、異なる次元を見せられている感覚になる。やはりパラレル。

プリントのイメージ部分に雁皮紙を貼り「紗」をかけたものもあった。膠か何かで貼り付けているのだろうか。ともかく雁皮の効果で写真のソフトフィルターをかけたような仕上がりになっていた。雁皮紙越しのイメージはより淡くより浮遊感を増す。それに雁皮の地の色が青みや赤みがあるものもあり、同じものでもまるで異なる印象になっていた。地の色は雁皮の種類によるものなのか、紙を薄く染めたのか、イメージに直接着色したのかはわからない。いろいろと効果を試しているのかもしれない。

もともと写真をやっていて、より自分の頭の中のイメージに合うものとしてメゾチント技法の銅版画に行き着いたらしい。心象風景なんて手垢がついた言葉かもしれないが、写真ではない何かを掴みたいという意思は伝わってくる。彼女の記憶の中の「オートルート」を再現した形なのだろう。写真の良さを残しつつ、版画として独自の描写を成立させている。写真と版画の狭間、もしくは二者の接点のような作品だ。これまで見てきたどれでもないものという感じ。

だだ、シルビア・バタイユと検索しても往年のフランス人女優がヒットするだけで、作家のそれらしい情報はあまり見つからない。ポートフォリオサイトもないようだ。近年、いくつかの受賞歴もあり、所属ギャラリーもあるようなので、フランスでは着実にキャリアを積んできているのだろう。

日本初個展で、まだまだ未知の作家ではあるが、このプリントは一見の価値がある。版画に興味がなくても、見ておいて損はない。ほんとにかっこいいから。

尾仲浩二「Slow Boat」@Poetic Scape

尾仲さんのモノクロプリントをじっくり味わえた。「街道」以外でまとまった展示は久しぶりだ。というか考えてみると、むしろ「街道」でしか尾仲さんの個展を見たことがなかったかもしれない。

今回は中国の出版社「imageless studio」による復刻版「Slow Boat」出版記念。同作のリプリント約40点を前期と後期に分けて展示している。カラーに移行して久しい尾仲さんのモノクロプリントを見られる貴重な機会だ。新作ではないとはいえ、あの「Slow Boat」を改めて焼き直しているので必見の展示だと思う。

それにしても尾仲浩二の旅写真は見れば見るほどアノニマスで時代性を超えた写真に見えてしまう。それはカラーでもモノクロでもそう。何でだろうか。どの時代、どの土地を撮っていても、それらに引きずられずに唯一無二の尾仲写真になっている。まあ、それでも看板や人や街並みを見れば否が応でも時代は写っているんだろうけど、それが問題ではないというか。だって、20年前の「Slow Boat」を今見ても、昔はこうだったよねっていうより、ああまだこんな場所あるよねって言いそうなんだよ。もちろんもう無い景色もある。そうなんだけど、どちらかというと、「時代と共に失われた風景」とかではなくて、なんだかんだで、「ずっとありそうな場所」「残ってそうな景色」っていうのが写ってる気がする。それが尾仲写真の魅力なのかなって。

それと今展の目玉と言えるイベントは、あの蒼穹舎の太田通貴さんとのトーク。公の場で話をすることがきわめて少ない太田さんの超貴重なトークとあって、プレスリリース前にほぼ満席。間に合わなかった方はそれこそ臍を嚙んだことだろう。恐縮ですが、私はなんとか予約して、ありがたくも拝聴できました。や、最高でしたよ、ほんと。太田さんだけでも貴重なのに、内容がまたスーパーレアだった。お互いの記憶違いのツッコミ合いも爆笑だったけど、当事者しか知らない写真史的な話も驚きの連続だった。太田さんと尾仲さんの写真集製作の秘話や、セレクト方法の違いとか。具体的にはここでは割愛しますが、酸いも甘いも嚙み分けた写真界にはなくてはならないお二人の濃密トークでした。音声の再放送だけでもお金取れるレベルだね。あと尾仲さん持参の街道の歴史を物語るDMアーカイブが素晴らしかった。これだけで飯三杯いける感じ。

かく言うわたくしはトーク後の歓談で「浦霞」をグラス3杯ひっかけてベロベロで帰りましたとさ。

亀山仁写真展「Myanmar 2005-2017」@ギャラリー冬青

前展「Thanaka II」は初個展の「Thanaka」よりも生理的な反応でシャッターを押している印象だった。フォトジェニックさよりも亀山さんがそこに佇んで見ているという感覚がそのまま残っている写真が多いように思えた。インレー湖を中心とした静謐な風景や寺院や集落など風土風習の臭いが色濃いロケーションはそれほど変わっていないが、旅行者からもう少し進んで滞在者の視点にシフトしていった展示だった。

今展では新たな人との出会いが大きく影響している。ミャンマーのコミュニティとの関わり合いがきっかけとなり、滞在しているという立ち位置にとどまらない視点が加わっていた。それが色濃く出ているのはヤンゴンの写真だろう。亀山さんは今までヤンゴンにそれほど魅力を感じなかったそうだ。インレー湖行きの中継地にすぎず、出来るだけ滞在したくない場所だった。それがどうだろう。半数ほどヤンゴンの写真が占める展示になっていた。この変化は大きいように思う。シンガーソングライターのAh Moonさんの写真は、一見他の写真とは雰囲気が違い異質さを感じさせるが、ミャンマーとの関係性の変化を象徴するカットになっている。それと、あの傘を差した少女の写真。まるであの少女が、亀山さんのこれまでの写真とこれからの写真との境界線に存在するかのような不思議な1枚で、目が離せなくなる写真だ。

アウンサンスーチー氏の下、軍事政権から民主化の動きが進む中で、ヤンゴンは象徴的な都市になっている。再開発はもとよりスマホの普及やネットインフラも整いつつあるらしい。ただ都市化、近代化が進むヤンゴンが存在する一方で、130を超える少数民族で構成されるミャンマーは一括りの価値観で束ねるのは困難とも聞く。軍事政権下での「秩序」で成り立っていた地域もあるだろうし、軍事だろうが民主だろうが関係なく暮らしていた国境沿いの辺境部族もいるだろう。今もなお過渡期と見られなくもないが、この混沌さそのものがミャンマーのありようなのかもしれない。

それほどミャンマーの歴史に詳しくなく、複雑な事情が絡んでいる情勢を迂闊に言及できる立場にはないにしても、亀山さんの写真やお話を通してミャンマーに興味を持ち少しずつ理解を深めている。とは言え、亀山さんはミャンマーの現状を伝えるために写真を撮っているわけではない。あくまでも私的な視点でミャンマーを捉えている。縁のある人たちとの関係を大切にしながら、亀山さんならではのミャンマー像が立ち現われてきている。市井の人々と近い視線のミャンマーの変化が感じ取れる貴重なシリーズだと思う。

いち観光客として訪れてから12年になるそうだ。きっかけはどうであれ、この年月を経て3回の個展と2冊の写真集に結びつけている。月並みだけれど、継続は力なりを地で行く写真家だ。おそらくこれからもコツコツとライフワークとして続けていかれることだろう。何事も続けてこそ、なのだとつくづく実感する。

今年も「見る」を中心に

昨年も写真を中心にいろいろと学びの多い一年でした。写真展だけに止まらず版画への興味もさらに増してきました。それと工芸などにも目が向いてきました。

「撮る」ことよりも「見る」ことに大きくシフトした年でもあります。フイルム、デジタル問わずカメラはほとんど手放しました。今のメインはスマホとチェキ、潜在的に4×5です。また揺り戻しで何か手に入れるかもしれませんが、今年も「見る」を中心に写真に関わっていきたいと思っています。

いろいろ楽しみでなりません。

今年もよろしくお願いいたします。

コレクターの端くれとしての想い

ある作家が廃業宣言をされた。

正直ショックを受けた。「辞めます宣言」というのは、本人が思っている以上に、コレクターに衝撃を与える。それは喪失感とか失望感を伴う。写真家や美術家という呼称は職業である前にその作家の生き方を表すものだと思う。「~家」を辞めるというのは、生き方を変えるに等しい。だから始める時よりも辞める時のほうが重たい。同じ「家」でも愛煙家とか読書家とはわけが違うし、スポーツ選手の引退ともニュアンスが違う。私の身勝手な願望ではあるけれど、少なくとも写真家とか美術家というのは生涯にわたって続けると決意して使ってほしい呼び名だと思うからだ。

コレクターはその作家がずっと活動を続けてくれるものだと勝手に思ってるし、継続してほしいと願っている。でも筆を折る的なことが起こらないとは限らない。健康面や経済面など様々な理由でいつのまにかフェードアウトすることもある。結婚とか出産とか介護とか家庭環境の変化で続けたくても続けられなくなることだってある。家族や周囲の理解も必要だ。表現者にとってお金の工面も重大事だ。製作費のかかる表現方法ならなおのこと。辞める理由としてお金が続かないというのは多いだろう。やむを得ない、のっぴきならない事情というのは察して余りあるし、理解はできる。

そんなこと言うなら、辞める前にもっと作品や作品集を買ってくれたらよかったのに、と突っ込まれるかもしれない。だから一点でも購入している立場として、コレクターの末席にいる身として、しごく我が儘な想いを述べている。

これはせめてものお願いだ。廃業宣言という方法ではなく、そっと活動を休止するにとどめてほしい。作品の発表は5年スパンでも10年スパンでもいいから継続状態であってほしい。仮に二度と作品を作らなかったとしても、辞めていなければ生き方を貫いているという希望は持てるから。

個人的な意見として、写真家などをつづけるにあたって、それが本業でなくても一向にかまわないと思っている。流行りに乗ってとか、なんちゃってとか、にわかとか、ついでに名乗っている人は論外だが、生涯をかけてやりたいことと、生涯の生業が違うことは往々にしてあるし、否定されることではない。本当にやりたいことするために、日々の食い扶持を稼ぐために他の仕事を持っていてもいいではないか。プロだとかアマチュアだとかの線引きもナンセンス。必死こいてカメラマンの仕事をこなしたっていいではないか。ワークショップの先生をしたっていいではないか。忸怩たる思いで続けたっていいではないか。むしろ生涯にわたって引退など考えずに継続できるならば、どんな手段を使っても資金面の問題をクリアしてほしいと願っている。それが一番難しいのは重々承知の上での、一コレクターとしての願いだ。

渡部敏哉 展「Somewhere not Here」@Poetic Scape

Somewhere not Here ― ここではない、どこか別の場所。まさにという展示だった。非日常を超えた非現実の世界。淡く美しいイメージの中に、不穏で不安定で、おぞましさすら感じる世界観が宿っている。「ここ」寄りなのか、「どこか」寄りなのか。何かがやってくるとか、あっち側へ誘われるとか。そんな気配を含んでいるのだ。

白と黒の配分が受ける印象を変える。個人的には黒の比率が多いのは「こちら」で、白の配分が多いのは「あちら」という印象を受けた。人によっては見立てが逆転するかもしれない。スクエアの中央にあるものが白か黒でもまた変わってくる。どちら寄りでもないイーブンな比率だと境界を彷徨うような感覚になる。

この世界観を築く上で額装も見逃せない。細身の黒フレームにマットなし、低反射アクリルのかぶせで仕上げており、「ここではない、どこか別の場所」を覗き込ませる装置になっている。

例えとして相応しいかわからないが、渡部さんの作り出すイメージは、どこか囲碁の棋譜を想起させた。高い実力を備えたプロ棋士同士が、緩着も悪手もなく互角に打ちまわし、半目差勝負を繰り広げたような美しい棋譜だ。

「Somewhere not Here」はまだはじめの一歩を踏み出したという感じ。セレクト、プリントサイズや展示方法などを変えることで大きく印象が変わる可能性がある。「Thereafter」と対極をなすシリーズとして育っていくのが楽しみな展示だった。

今井智己「Remains to be seen」@Taka Ishii Gallery Photography / Film

こんな写真をたったひとりで、毎日毎日、じーっと見ていられたら。こんな写真を前にして誰かと、あーでもない、こーでもないと語り合えたら。もう言うことはないんじゃないだろうか。漲るような力を持つ写真ではない。突き刺さるような写真でもない。ただそこにある何かを掬い取るように写している。受ける印象は静謐とは少し違う。見ることに集中していく内に、環境音が気にならなくなるという感覚に近い。だから観賞者はただただ黙って見ていたくなる。自然と見ることに集中してしまう。

それは写真に不可欠ともいえる光の条件とプリントの質を大事にしているからだと感じた。当然かもしれないが、今井さんは何でもないものを何となくは撮っていない。大判カメラを使い、丁寧に手順を踏んで、技術で詰めて撮り、技術で詰めてプリントしている。手抜かりなく仕上げたプリントが額装され、空間に配された時に、想像を超えた深度で見る者を引き付ける写真になる。この最終段階までを考えながら、技術を伴って人に見せられるクオリティに持っていくのは難しい作業だ。それを今井さんは意識的に取り組んでいる。とても素晴らしいことだ。

今井さんの眼差しは、日常の中にある見逃しがちな何かに向けられている。はじめは感情で反応しつつも、その後は徹底して技術で詰める。今井さんの文章の中で「あとすこしでわかるという予感だけがある」という言葉を使っていた。その感覚を見事に写真にしていた。写真を見る。写真を考える。そんなことをもっともっと深めていきたい。そう思えた個展だった。

森山大道『何かへの旅』の一枚

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2013年に初めて実物を見て、その場から離れられなくなったプリントがあった。森山大道『何かへの旅』の一枚だ。自動車の中から捕えられたフロントウィンドウ越しの世界。ピントはウインドウに貼りつく雨粒あたりに。下がったワイパー、その奥にはボンネットらしきもの、その左側にフェンダーミラーが見える。雨粒は上方に流れるように歪んでいて、ワイパーの弧状の筋が薄っすらと残っている。手前のダッシュボードにあるエアコンの吹出口も判別できる。奥の景色に目をやると、雨雲が重く垂れこめ、地平線には枯れ木のような電柱が点在している。(※参照1) 続きを読む

須田二郎展「木の器」@OUTBOUND

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吉祥寺のOUTBOUNDで、須田二郎展「木の器」。穴あきの花器を拝見する。虫食いで朽ちた穴をそのまま生かして挽いている。サクラの杢と穴が蠢くように混ざり合う。とても力強い。見事に「機能と作用が共存」している。素晴らしい出会い。有難い。

写真の居場所

二年ほど前に賃貸住まいでもちゃんと部屋に写真を飾ってみたいと思い、一箇所だけ腰から上およそ150cm四方の壁をすっぽり空けて、ささやかな写真の居場所を作った。普段はその壁に1~3枚の額装した写真を飾っている。その下はDIYでこしらえた合板製の書棚を据えて、写真集とかを収納している。

購入した写真を掛けるのはもちろんのこと、自分でプリントした写真を飾ることもある。手元にあるプリントは、ある意味分け隔てなく扱う。プリントした写真は大事にした方がいい。個人的に開催したグループ展や個展用でも、終わるとそのまま保存箱に入れっぱなしになってしまいがち。日常的に飾ることで日の目を見せてあげることも大切だと思う。

これまでは少ない枚数に抑えて一枚一枚じっくり見ることを考えていたけど、最近ふと思い立って、複数枚を組み合わせて群れで飾ってみることにした。欧州風のアンサンブルスタイルの真似事だ。手前みそながらなかなか見ごたえがあるレイアウトになった気がする。集合、俯瞰で見ると、自分の趣味趣向が露になって恥ずかしさもあるが、モノクロやカラー、フィルムやデジタル、いろいろ混ざりながらも、やはり共通点が多いコレクションなんだなと再確認できる。

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腰の高さまでで収納を完結させると部屋が広く見えるというのは確かで、狭い賃貸住まいでも意外といけるもんだなと日々実感している。といっても、センスのいいインテリアコーディネートとか、おしゃれなライフスタイルとかを目指していないし、なまじっか目指してもうまくやれる自信がない。だから他の場所は思いっきり生活感丸出しのまま。これはこれでよいかなと思っている。なによりも自宅の中に写真の居場所があり、写真と向き合う場所がある。そこが大切なことなのだ。

book obscura@吉祥寺(井の頭)

吉祥寺の井の頭恩賜公園にほど近い、オープンしたての古書・新刊書店「book obscura」に行ってきた。写真集を中心にリトルプレスなどを扱っている。吉祥寺からも歩いて行けて、井の頭公園を抜けるようにして散策しながらゆったりとした気分で立ち寄れる。店内も落ち着いた雰囲気で、居心地が良い。それほど広いスペースではないものの、ほとんどの本を腰から下のスペースに収めているので、目線がすっきりしていて抜けのいい空間になっている。

店主の主観を交えた本の紹介の仕方がうれしい。「1ページ、1ページ、ゆっくり見てください」とさりげなく促したり、ページを開いて平置きしたりとか、ちょっとしたことだけど、気が利いている。まずは開いて中を見てもらう。そこから写真集の魅力を伝えようとしている。ここの店主、写真集がほんと好きなんだろうなあってすぐわかる。

展示スペースもあり、竹之内祐幸「The Forth Wall」が開催されていた。フォトアクリル額装の瑞々しいイメージが、店内に差し込む自然光と相まって美しさが際立っていた。第四の壁というタイトルも写真の印象と合っている。同時開催のPGIも見てみたくなった。

私がお店に入って間もなく、通りかかった親子が入ってきた。お母さんと幼稚園の年長さんくらいの男の子。きっと井の頭公園の帰りだろう。タタッ、タタッと男の子が店内を二、三周する。きょろきょろ見わたすうち、竹之内さんの展示に興味を持ったようだ。お母さんも付いて行き、一緒にあれこれ見ている。やがてDMと写真集を見比べながら、男の子が「あっ、同じ!」と写真を交互に指差す。お母さんも「ほんと同じだね」と続けた。

実は自宅から自転車で行ける距離にある。写真を楽しめる新たな場所。ちょくちょくのぞきに行くことになりそうだ。

[記録集]はな子のいる風景 イメージを(ひっ)くりかえす

今年のベストかもしれない。写真研究者の小林美香さんがおすすめしていた一冊だ。あれよあれよという間に完売しそうになっていたので、先日、閉館間際のミュージアムショップに駆け込んで購入してきた。

本書は武蔵野市吉祥寺美術館の企画展『コンサベーション_ピース:ここからむこうへ』に併せて発刊された記録集となる。あいにく展示は見ていないのだけれど、この記録集を手にしただけでも、企画展の力の入れようが窺える。

私は、はな子を直接見に行ったかとがない。テレビ越しにたまに見かけた程度だった。だからあまり大したことは言えないんだけども、はな子の存在した69年間といえば、ほぼ自分の親世代に等しい。旅行や行楽地へ行けば当たり前のようにフィルムカメラで記念写真を撮り、同時プリントに出しては、できあがった写真は次から次へとアルバムに貼り付けた。紙の写真を残す記念写真の全盛期を含む時代だ。

『[記録集]はな子のいる風景 イメージを(ひっ)くりかえす』は、記録としての写真、記念としての写真、記憶としての写真、それぞれの意味を巧みに引き出しながら構成されている。言葉で説明するより実際に見てもらうのが一番なんだろうけど、おそらく完売間近でこれから購入するのは難しいかもしれない。それでも機会があればぜひ見てもらいたい一冊だ。

見る人

三人展、本日無事に終わりました。皆さまありがとうございました。

会期を通じて実感したのは、私はどこまでも「見る人」なんだなあということです。でも、ただ観賞するだけの視点では気づかないことも多い。他の立場として展示を経験したいというのが大きな動機になっています。「見る」ために他のこともするということです。

もし、「あなたにとって、写真で最後に残るものは?」と問われたら? メンバーのひとりが最後に残るのは「撮る」ことだと言っていました。私は迷わず「見る」ことだと答えます。この違いが面白いんです。

プロ・アマにかかわらず、写真家と名乗る名乗らないにかかわらず、立場にかかわらず、写真が好きな人たちにとって、最後に残るものがなんなのか、考えてみるのも面白いかもしれません。

誰かは「プリントする」ことだったり、「笑う」ことだったり、「買う」ことだったり、「売る」ことだったりするかもしれません。それが感情だったり、「こと」だったり、「もの」だったりするかもしれません。すべてはそれから始まる、そういう原点を持つことは、とても豊かなことだと思います。

これからまた「見る人」に戻ります。改めまして、ご来場いただき本当にありがとうございました。