金川晋吾「長い間」@ 横浜市民ギャラリーあざみ野・展示室1

最終日。初めて金川晋吾さんの写真を見ることができた。とにかく見に行けてよかった。写真にもテキストにも映像にも吸い寄せられた。父と、その父の姉である伯母の失踪。どう向き合い、どう受け入れ、どう取り組み、どう写真で表そうと、露にしようとしているのか。生まれてきた境遇、社会的な立場、親子や親類という関係など、生きていく中での役割が破綻した時に、人は何を思い、何を考え、どう行動するのか。息子である写真家も、被写体である父も、そして伯母も、何ら答えを持っていない。身内の稀有な状況を晒し、人と人の関係性を問い続ける金川さんの写真家としての姿勢は興味深い。

継続中の二つのシリーズは、道半ばで、未知なまま。理解するための導線も用意されているようで用意されていない。自分の中ではまだはっきりとした言葉が浮かんでこないけれど、しばらく写真集をめくりながら、写真とテキストを頭ん中で反芻させてみようと思う。

あと今回の展示構成が秀逸。前半の父のシリーズは、縦3列に互い違いに壁が設置され、ひとつの壁に大きな写真が1枚ずつ。ゆらゆらと木の葉を落とすように右に左に視線を誘導して、とても滑らかに観覧できる。壁と壁の間から他の写真が何気なく見切れるのもおもしろい。会場の中間地には、父の自撮り写真のスライドショーを挟みテンポを変える。それから後半の伯母のシリーズは、打って変わって広い部屋に小さな写真が広い間隔で並んでいて、時計回りに自然な導線になっている。大きめのスペースでこれほど滑らかで無理のない導線はあまり体験したことがない。この構成力、唸りました。

版画の景色 現代版画センターの軌跡(前期) @埼玉県立近代美術館

昨年末から楽しみにしていた企画展。期待に違わぬ質と量で見応え十分だった。

「現代版画センター」は1974年の創立から1985年に倒産するまで、版画芸術の普及とコレクター育成という明確な構想で活動していた。版画作品の「版元」として奔走し振興に努めたという。10年余りという活動期間を短いと取るか長いと取るかは人それぞれかもしれないが、国内における現代版画の黎明期を支えていたことは間違いない。今その活動は画廊「ときの忘れもの」に引き継がれている。

版画というメディアに興味を持ってから、写真界の周辺で版画が見え隠れするようになった。興味を持てばアンテナが張られて、今まで目に留まらなかったものが目に入るようになり、自ずと情報が集まってくるのは道理ではある。でもこれほどの巡り合せは、版画との不思議な縁を感じてしまう。まあ、勝手にだけどね。

版画初心者にとっては、ほぼ未知の作家ばかり。知っているなという名前は、アンディ・ウォーホル、安藤忠雄、磯崎新、一原有徳、瑛九、草間彌生、駒井哲郎、関根伸夫、舟越保武くらい。それもまともに作品を見たことがないものが多くて、どれもこれも新鮮。それに一点一点がユニークな主題で飽きることがなく、大満足の企画展だった。気づけば1時間半ほどかけて鑑賞していた。

木版、銅版画、シルクスクリーンなど技法による描写の違いや、コットンペーパー、和紙、布地、金属などの支持体の違いも楽しめる。版画は写真よりも支持体のテクスチャーを楽しむメディアかもしれない。ミクロな視点も版画の醍醐味と言える。写真も版画も「プリント」という括りでは共通点が多く、写真好きも意外なほど楽しめると思う。

また図録がかっこよくて即買いした。タトウ箱入りの分冊という凝った作りだ。それと『版画、「あいだ」の美術』という本もゲット。これも楽しみだ。

一部展示の入れ替えがあり、トークイベントがあるようなので、時間を作って後期も足を運びたい。

川田喜久治 ロス・カプリチョス –インスタグラフィ– 2017 @PGI(赤羽橋)

VIVOメンバーの中でも個人的に特別な存在になっているのが、川田喜久治さんだ。東京国立近代美術館のプリントスタディでラストコスモロジーの収蔵品45点を閲覧してからというもの、すっかり川田ワールドに魅せられてしまった。素人がたった一人でプリントスタディを申し込むなんていう研究員が呆れる暴挙はもうできないかもしれないけれど、怖いもの知らずで臨めたことは後悔していない。とても貴重な時間であり財産になっている。

今回の個展はゴヤの「ロス・カプリチョス」という風刺の効いた銅版画集にインスピレーションを得て撮影したシリーズになる。1972年から雑誌で散発に発表され、1986年にフォト・ギャラリー・インターナショナル(現PGI)で個展開催。その後「世界劇場」という写真集(超レア!)に収録されているだけだった。それを今回は2016~2017年に撮影した新作を交えて再構成したものだ。のっけから目が釘付け。相変わらずの攻めの感じがたまらない。

川田さんの持ち味の一つは、シリーズを常にアップデートしていく姿勢だろう。懐古的にならず、シリーズを完結させることよりも、新たなシリーズを生み出すこと、かつてのシリーズも機会があれば新作を追加して進化させることができるのだ。それもこれも時代性や一つのイメージに執着せずに、常に社会や人に絡みつく危機的な予感や、カタルシスを柱にしながら、暗喩としての写真を提示し続けているからだと思う。だから写真に賞味期限が訪れない。きわめて根源的で普遍的なイメージを繰り出してくるのが川田喜久治という写真家なのだ。

川田さんの写真に込めるメタファーはとても鋭くて強い。非常に強い信念を持ち、写真との向き合い方に無駄がないというか、雑念を持ち込まないというか、そういう潔さがある。トークショーや文章でもとても端的に的確な言葉を選んでいる。これほど聡明で直観力に優れ、強度が高くて、しかもかっこいい写真を突きつけられる写真家が他に何人いるだろう。川田喜久治の写真を前にしたら、頭でっかちなコンセプトや、つまらない屁理屈、独りよがりな正論など木っ端みじんだ。年齢は関係ないとは思うが、今年の元日で85歳となった。写真の強さとは何なのか。それをじっくり考えるには、川田喜久治の新作ほどうってつけなものはないんじゃないだろうか。