福井守 作品展 @OUTBOUND(吉祥寺)

吉祥寺のOUTBOUNDで福井守さんの木工作品を見に行ってきた。間伐材や流木などの素材を活かしながら、作家の頭の中にある心地の良い形を削り出している。手つかずの素材をあるがままというよりも、自然界に存在する数学的な美しさをという感じだ。

一点ずつ手に取りながら見ていくと、艶やかに黒光りした作品のひとつに目がとまる。アサガオの種を両手一杯くらい膨らませたような楕円体をしていた。上部に稜線のような一筋のエッジが伸びていて、底には3、4本の亀裂が走っている。

片手で持つには不安だったので、そっと両手ですくい上げてみる。予想よりもずしりと重く、磨かれた曲面が手に心地よい。角度を変えるとまるで違う表情になる。自分の気持ちの良い角度を探してみたくなる。

キャプションには「樫/篠山にて間伐される/鉄染め」とあった。樫の間伐材か。「鉄染め」って何だろう? スタッフの方に話を伺うと、サビ釘などを酢に浸して作った酸化鉄溶液を材に塗布し、タンニンと反応させて木肌を黒く変色させる技法なのだとか。草木染めにも使われていて、あのお歯黒と同じメカニズムらしい。

そこに在るだけで、その場が居心地よくなる木工オブジェ。このお店でまた素晴らしい作家に出会うことができた。

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今夏はニット作品をひとつ飾る

img_2135.jpg《宮田明日鹿 / Femmes au chien / 「con/text/image」@POETIC SCAPE(2016)》

予定のないゴールデンウイーク。半年ほど続けていたアンサンブルな壁一面の額装品をすべて外し白壁に戻してみた。いったんリセットして、次は何を飾ろうかと考える。

ひと作品ずつ試しながら決めたのは、宮田明日鹿さんのニット作品。黄色と青色の補色のコントラストが初夏からのさわやかな季節にぴったりだ。今夏はこれで行こう。

これまでは申し訳ないと思いつつも、ストレージボックスから出しては眺めているだけだった。ようやく壁に掛けてあげられた。それも個人的には最高のタイミングで。

宮田さんは美術館巡りの際に展示品のキャプション部分をメモ代わりに撮影する習慣があった。その画像を改造した電子編み機に取り込んでニット作品に再構築してる。低解像でパースがついてしまった画像が、作家自身も想像だにしない編み物として生まれ変わる。

額装されたニット作品の脇にある小さなアクリル貼りのキャプションが親であり、ニットが子供。まさに目玉のおやじ的な親子関係。テキスト、画像、ニットの循環が目眩がしそうなほど楽しい。

他に類のない、唯一無二で、とてもユニークなユニークピースの作品。初めて見たときは戸惑いと驚きでどう受け止めてたら良いのか分からなかった。でも知れば知るほど宮田ワールドの可笑しさと懐の深さにはまっていく。

昨年、調布で開催された「クリエイティブリユースでアート!」では、招聘アーティストとして参加し、即興性を加えて、複雑にレイヤーが絡んだアメージングな作品を披露していた。これから期待の斜め上どころか、桂馬飛びに進化する姿をこれからも拝見できそうで、楽しみでならない。

《宮田明日鹿 / 「クリエイティブユース」@調布たづくり(2017)》

ポラロイドの写真集〈その3〉

またいつの間にかまた増えてきてしまったポラ系写真集やアーティストブック。ひと区切りの〈その3〉。そろそろ収束の感があるとかないとか。

DAVID HOCKNEYCAMERAWORKS

前から気になっていて、タイミングが合えば手に入れたいと思っていたデイヴィッド・ホックニーの写真集。アマゾンとかでもあるんだけど、じりじりと古本相場が高騰していて買いあぐねていた。先日、ようやく別口で程度の良い出物があったので、この機を逃すまいと購入した。

写真をつなぎ合わせるという意味で、ジョイナーフォトと呼ばれている。前半がポラロイドで、後半が35mmという構成。多視点とか立体的な配置とかを見ていると、割と緻密に組み合わせているみたい。初めはポラで撮っていて、途中からどうしても余白が気になって35mmフィルムに変えたらしい。

美術史や絵画技法の独自研究でも有名で「秘密の知識」はもう新刊は完売していて古本がレア価格になってる。これは買えそうもないので、続編的な「絵画の歴史洞窟壁画からiPadまで」は読んでみたい。ので、早速注文してみたら、予想以上に判型が大きかった。

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Edward Fella: Letters on America

米国デザイナーのエドワード・フェラの作品集。デザイン業界では有名な方らしい。内容は、ショーウィンドウ、看板、サインボード、道路、シャッターなどの文字デザインをポラロイドで収集したもの。合間合間にドローイングも入っていて、色彩やグラフィカルな文字がぎっしり詰まっていて、とても楽しい作品集だ。SNSで見かけてジャケ買いしただけなんだけど、かなり気に入ってます。

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PETER STREHLE : LOST STORIES

メディアアーティストのピーター・ストレーレによるファウンドフォト作品。古いポラロイドを一般家庭、蚤の市、ebayなどを利用し全米中から買い集めて架空の物語をオムニバス形式で紡いでいる。かぶせ箱入りで、蛇腹折り製本の10冊セット。Steidlから出ているダヤニータ・シンの写真集「Museum Bhavanを思い出した。

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ILVA SUNDGREN : NO ONE CAN LOVE LIKE WE DO

スウェーデンのフォトグラファー、イルヴァ・サンドグレンの写真集。どことなく寂しげで孤独感をまとうイメージが並ぶ。ポラロイドの原寸大で、イメージ部分にニス加工が施されリアルな質感になっている。手のひらに隠れんばかりのコンパクトでかわいらしい一冊。

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MARKUS RAETZ POLAROIDS 1978-1993

スイスの現代美術家のマーカス・レェツの作品集。完成作品や製作工程をポラロイドで記録したもの。視差や錯覚を使った作品が多いようだ。一枚、特に気になったのがある、いろんな意味で。

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「植田正治写真展光と陰の世界―Part II」図録

ときの忘れもので開催されていた展覧会の図録。蔵出しのポラロイドを展示するとあって、ぜひ拝見したいと思っていたんだけど、予定が合わず会期を逃した。せめて図録だけでもと取り寄せる。これが良い。簡易な小冊子ながら、植田正治の世界観をポラロイドで楽しめる。

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RHIANNON ADAM : DREAMLANDS/WASTELANDS

〈その2〉で紹介した「Polaroid: The Complete Guide to Experimental Instant Photography (Missing Manual)」というポラ系のハウツー本と同じ写真家。一冊で両A面のような作りになっている。紙質はそこそこだけど、面白い造本。英国の2つのリゾート地を期限切れのポラロイドで撮影したもの。子供の頃の憧憬を交えるように、とろみのある夢物語のようなイメージが展開する。

週末のサイアノタイプ

骨休めにというわけではないけれど、アナログなことをやりたくなって、久しぶりに夜な夜なサイアノを焼く。思いつきなので特にめぼしいネガもなく、その辺にあったドライハーブとか道で拾ったタンポポをコンタクトプリンターに挟んでささっと露光する。

混合感光液の黄色が紫外線露光され青灰色になり、オキシドール溶液に漬けると瞬く間に青藍色に転じる。モノクロプリントで像がじわりと浮かんでくる感じとも違う一瞬の化学変化。シンプルで美しい。

サイアノタイプの写真集といえばAnna Atkinsの「Sun Gardens Victorian Photograms」がお馴染みだと思うけど、この古本はちょっと高くて手が出せていない。唯一持っているが、 Zeva Oelbaumの「BLUE PRINTS – THE NATURAL WORLD IN CYANOTYPE PHOTOGRAPHS。アトキンスのボタニカルな系譜を受け継ぎながら、より繊細なイメージが見ていてほれぼれする。こういうのもやってみたいなあ。

森山大道写真展「Ango」@POETIC SCAPE

森山大道「Ango」をやっと見に行けた。ぞくっとしてうっとりする絶品の展示だった。漆黒の桜、濡羽色の黒髪が目に飛び込み、ぐるぐると頭の中を駆けめぐる。坂口安吾の「桜の森の満開の下」と森山大道の「桜」が怪しく交配し、妖艶な新種の花を見事に咲かせていた。

「桜の森の満開の下」は坂口安吾の代表作であり傑作とされている怪奇短編小説。読んだでみたら、これがなかなか残虐で寒気のする話だった。それでもやめられずあやかしの物語の中へずぶずぶと引き摺り込まれてしまった。

「桜の森の満開の下」は冒頭の一部にこんな件がある。

近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが 、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので 、能にも 、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう (このところ小生の蛇足 )という話もあり 、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです 。

《青空文庫より抜粋》

桜が怖ろしいという感覚は自分にはなかった。言われてみれば誰もいない夜桜を見ると、儚さや切なさを感じることはある。でも、怖ろしいとまでは思ったことがない。桜は春の訪れを告げる季節の風物詩で、愛でるものであり楽しむものとして刷り込まれているのは確か。そもそもの江戸期以前の花見文化、桜の捉え方が気になる。手がかりになる本でも探してみようかな。

町口さんの新作本がまた凄い。きらきらと虹色輝く黒い本。はじめ表紙は黒地に箔押しかなと思ってたら、「これ、ホログラム箔に黒インクを重ねてるんですよ。箔が透けなくなるまで何回か刷ってるんです」と説明を聞いて腰を抜かす。ホログラムの上からスミ重ねるって凄い発想。丸背も滑らかで美しい。本文の白文字は黒紙に白インクじゃなくて、白い紙にスミベタの地で白抜き文字だろうか、小口が白いから。いつもの筑紫オールドが効いてて、さすがの◯態的造本。森山大道と町口覚。このコンビは最高だ。

コヨーテ最新号の「森山大道 写真のすべて」もゲット。こらからじっくり読むつもり。古本で買った1号の「特集 森山大道 ── その路地を右へ」との読み比べも面白そうだ。

泉大悟写真展「UNDERCURRENT(2018)」@銀座月光荘・画室3

毎度楽しみな泉さんの写真展。月光荘の画室3のスペースはほど良い狭さで、泉さんの写真のサイズによく合っている。回を重ねるごとに、多重層の画面構成が堂に入ってきている。繊細なモノクロの階調と相まって、泉さんならではの写真へと醸成されているのがわかる。

写真を一目見ただけで、誰々の写真だと分かるというのは、写真家にとってスタイルを持っているという意味で大切な要素ではないだろうか。泉さんも継続することでスタイルを獲得しつつある。

写真はロバート・アダムスのようにじわじわくる系かなとも思ったけど、どちらかといえばクーデルカとかケルテスとか、きりっとした画面構成に近い気がする。加えておぼろげなレイヤーを含んでいるので、力みがなく穏やか。コンパクト画面に、ユニークな構図が面白い。

気になったのは壁を写したシンプルな構図の写真。見ているとクーデルカのジプシーズを彷彿とさせた。もっともっと引きで撮影していたら、あの下を向く白い馬が現れてきそうだ。え、何? どこ? ここ? っていう距離感も泉さんらしい。コツコツ丹念に継続されている泉さんの写真は、ずっと見ていきたい写真の一つだ。

[写真集]奥山淳志「弁造 Benzo」

北海道で自給自足の生活を送った井上弁造さんの20年の記録。身内ではない他者と向き合うというのは、写真家としてのひとつのアプローチだとは思うんだけど、それが20年となるとね、半端ではない。その集大成がこの一冊だ。

2012年に弁造さんは他界されたが、その後も奥山さんは撮影を続けている。かつて弁造さんの家があった庭や無数に描かれたエスキースなどの遺品を折に触れて撮りためている。

銀座ニコンサロンで開催されていた個展「庭とエスキース」では、弁造さん亡き後の写真も多く展示されていた。展示構成はタイトルの通り「庭」と「エスキース」を2枚1組で並べられていた。奥山さん自身が、今までにない選び方と組み方をしたら、どのような弁造さんが立ち現れるのか模索しているようだった。1時間ほどかけて何度も見た。素晴らしい展示だった。

写真集にはCプリントが付いてくる。いわゆるスペシャルエディションになっていて、通常版の設定がない。かなり珍しい試みだ。購入者が好きなカットを選べるようになっていて、選んだ一枚を奥山さんにお伝えすれば自ら焼いてくれる。はじめは直感的にすぐ選べる気がしていた。それが甘い考えだったとすぐにわかる。写真集が届いてから2ヶ月ほど経っても、まだ1枚を選び出せずにいる。

シンプルに絵的な好みとかで選べば良いものを、弁造さんと奥山さんのことをを考えているうちに、ついつい深読みしてしまうのだ。写真集を買ってすぐなのに、弁造さんに会ったこともないのに、奥山さんとは銀座ニコンサロンで初めましてだったのに、あれこれ想像してしまって、写真を選ぶところまで気持ちが行かない。

奥山さんは常日頃から弁造さんのことを考え、写真を撮り、また考え、また写真を撮る、を繰り返してきた。それが今なお継続している。奥山さんは、弁造さんを通して、写真を通して、人の在り方をずっと考えている。私も倣うように考えてみたくなる。それだけの力、魅力がこの写真集には備わっていると思う。

「期限はありませんから」という一言に甘えて、もう少しだけ考えてから1枚を選びたい。

参考リンク:奥山淳志写真集「弁造 Benzo」について

鴻池朋子「Little fur anger」@ Gallery KIDO Press(3331 Arts Chiyoda)

3331アーツ千代田内にある「ギャラリーキドプレス」で鴻池朋子さんの版画を拝見した。鴻池さんの作品を見るのは初めてだった。キドプレスは半分が工房で、半分が展示スペースになってる。とてもコンパクトなギャラリーだ。今年で15周年ということらしい。以前は清澄白河にあって、2015年に末広町に移転している。

今展ではカービングという版木作品とドライポイント技法の銅版画の二種類を展示していた。版画を発表するのは初めてとのこと。木版用の版木をそのまま作品にしているダイナミックなカービング作品も素敵だったけど、気になったのはドライポイントの方だった。朝日新聞朝刊の朝日歌壇俳壇という連載の挿絵「どうぶつのことば」の中からご本人が選出したもの。連載を引き受けた時は鉛筆のドローイングにするつもりだったが、新聞の挿絵としてあまりにもつまらなく見えて、同じ「刷る」ものの方がしっくりきそうだと銅版画にしたそうだ。

モチーフは蜂やウサギ、毛虫などの昆虫や動物だ。ドライポイントならではの滲んだ線描写と、黒と青のインクを用いた2回刷りによるわずかなズレを活かすことで、ふわりとした産毛の質感を表現している。じーっと見つめていると本当に毛が揺らいでくるようだ。薄っすらと青味がかったトーンも美しい。

中でも「横たわる獣」はお気に入り。何かの幼獣と思しき姿は、毛むくじゃらで、ちょろりと尻尾を生やし、仰向けに身体を縮こませ、やや上目づかいでこちらを見ている。野生の険しさを漂わせながらどこか愛嬌がある。他が実在の動物や昆虫をモチーフにしてるのに、これだけ「獣」って、ざっくりしてるのも面白い。挿絵の中には、他にも不特定な生き物は登場してたのかちょっと気になる。

別件が終わった後に寄っただけだったけれど、良いギャラリー、良い展示が見られた。これを機に今後の企画展も見てみたいし、鴻池さんの作品についてももっと知りたくなった。

野村恵子 展|OKINAWA @POETIC SCAPE

楽しみにしていた野村恵子さんの個展を見てきた。同ギャラリーでは5年ぶりだそうで、そんなに間が空いていたんだと改めて思う。前回の展示は思い出深く、思い入れも強い。というのも、コレクションしているプリントの中でも最初期の1枚が、前回の『野村恵子 展【Soul Blue -蒼の彼方へ-】(2013年)』のプリントだからだ。私のルーツの一つである五島列島の写真で、初見でとても気になり、2度目に訪れた際に意を決して購入した。とても大切なプリントとなっている。

今回の個展は、ポルトガルの出版社『Pierre von Kleist editions』から昨年に出版された写真集「OKINAWA」から、新作を加えて展示をしている。2014年の銀座ニコンサロンの『赤い水』で見たイメージもあった。やはりこの濃密で濃厚な写真はクセになる。野村さんの写真には、自分の中にはない「濃さ」があり「強さ」がある。だからこそ無性に気になり魅せられてしまう。

どれをとっても野村恵子さんらしい濃さと強さを持った写真ばかりなのだが、その中でも「水面に浮かぶ女性」「焼かれる山羊」「腕にタトゥを刻んだ女性」「屋上の洗濯物」が気になった。特に「屋上の洗濯物」は銀座ニコンサロンでも見ていて、強烈に印象に残っている。たしか野村さん本人に、「どれか気になるのある?」みたいことを聞かれて、真っ先に選んだのがこの写真だった。またこれが壁にかかっていてとてもうれしかった。

それに加えて、今回は天野太郎さんとのクロストークがあり、とても楽しみにしていた。つい先日まで横浜市民ギャラリーあざみ野で開催されていた写真展『金川晋吾「長い間」』のキュレーションを手掛けられ、見事な展示構成を目の当たりにしていたこともあり、お名前は聞き及んでいたが、実際にはどんな方なのだろうと興味津々だったのだ。

さてそのトークはもう抱腹絶倒、爆笑必至の無双トークだった。詳細はいろんな意味で割愛せざるを得ないが、あえて一言で表現するならば「愛ある叱咤激励」とでもいうべき内容だった。天野さんも野村さんも関西弁全開でもはや漫談。天野さんの確かな経験と知識に裏打ちされたお話は、核心を突きまくり頷くことしきり。いつまででも聴いていられる面白さで、「ああ、写真と出会っててよかった」と思えるひと時だった。

野村さんが母方のルーツである沖縄を撮って20年。特有の時代背景を引き受けつつも、あくまで私的な目線で沖縄を追い続け、粘り強く、力強く、濃密にとらえ続けている。他のどの沖縄写真とも違う、野村恵子さんならではの沖縄写真は着実に強度を高めている。また長野のシリーズが継続中で、期待は膨らみ楽しみは尽きない。

なんにせよ、この人なら何があっても写真は続けるだろうと確信を持てる写真家の一人だ。だからこそ、写真家の野村恵子のコレクター、その末席にいられるだけでも、とても誇らしい気持ちにさせてくれるのだ。

金川晋吾「長い間」@ 横浜市民ギャラリーあざみ野・展示室1

最終日。初めて金川晋吾さんの写真を見ることができた。とにかく見に行けてよかった。写真にもテキストにも映像にも吸い寄せられた。父と、その父の姉である伯母の失踪。どう向き合い、どう受け入れ、どう取り組み、どう写真で表そうと、露にしようとしているのか。生まれてきた境遇、社会的な立場、親子や親類という関係など、生きていく中での役割が破綻した時に、人は何を思い、何を考え、どう行動するのか。息子である写真家も、被写体である父も、そして伯母も、何ら答えを持っていない。身内の稀有な状況を晒し、人と人の関係性を問い続ける金川さんの写真家としての姿勢は興味深い。

継続中の二つのシリーズは、道半ばで、未知なまま。理解するための導線も用意されているようで用意されていない。自分の中ではまだはっきりとした言葉が浮かんでこないけれど、しばらく写真集をめくりながら、写真とテキストを頭ん中で反芻させてみようと思う。

あと今回の展示構成が秀逸。前半の父のシリーズは、縦3列に互い違いに壁が設置され、ひとつの壁に大きな写真が1枚ずつ。ゆらゆらと木の葉を落とすように右に左に視線を誘導して、とても滑らかに観覧できる。壁と壁の間から他の写真が何気なく見切れるのもおもしろい。会場の中間地には、父の自撮り写真のスライドショーを挟みテンポを変える。それから後半の伯母のシリーズは、打って変わって広い部屋に小さな写真が広い間隔で並んでいて、時計回りに自然な導線になっている。大きめのスペースでこれほど滑らかで無理のない導線はあまり体験したことがない。この構成力、唸りました。