野村浩さんの個展、第二部を観る。

第二部のOcellusの初日。夕方に雨が上がり少し汗ばむくらいの梅雨の晴れ間がのぞいた。今日は仕事をいつもより早めに切り上げてポエティック・スケープへ。第二部は特大サイズから極小サイズまで号数違いの作品が壁面を巧みに使って構成されていた。ギャラリーの天井に届かんほどの一番大きいP100号の大作は見応え充分。ギャラリー内では美術館みたいに距離が取れない分、作品の前に立つと視界いっぱいに絵の世界が広がる。

一点ずつまじまじと観ると頭の中で「擬態」について考え始める。眼がさまざまなモチーフに擬態していて…眼が絵自体に擬態していて…擬態が擬態して擬態するみたいに、どんどん思考が錯綜して混乱してくる。うん、楽しい。ある意味、作品は至れり尽くせりなのに、種明かしをする訳ではない。実はこうしてるんですと打ち明けられても、別にそれは答えではなくて、あくまできっかけに過ぎない。作品を理解することが目的じゃなくて、作品を前にして延々と考え続けることが当面の目標にしておく。観ながら考えていくうちに知らぬ間にズブズブと作品世界にはまり込んでいく。絵画を通して観て考えてを繰り返す。とても新鮮な感覚。

絵画に興味がないわけではないけれど、積極的に見るかと言えばそうでもない。美術館で見ることはあるものの、あの絵が見たい!というのは正直少なかった。結果的にとても楽しめたものをひとつ挙げるとすれば、東京ステーションギャラリーで2016年に開催された『ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏』だ。モランディの油彩や版画を観ながらわくわくが止まらなくなったのを憶えている。あの時ほど能動的に絵画を楽しく観賞したことはなかったかもしれない。

奇しくもモランディ繋がりで、昨年の『Merandi』で絵画への興味が増幅して、今年の『101 EYES’ GLASSES Paintings』と『Ocellus』でさらに追い討ちをかけてもらえた。絵画をこんなに興味深く観ることができるのも野村さんのおかげ。興味が少しずつズレて広がっていく感じがとても心地よい。

今思うと自分の興味の移り変わりは、野村さんの作品と同心円上にある気がしなくもない。写真を始めてから銀塩に出会って、撮る・焼く・観るを続けるうちに、他の写真技法に興味が湧いていった。後か先かははっきり覚えていないけど、プラチナパラジウムプリントに興味を持ったタイミングで、吉祥寺のA-thingsで『Slash/Ghost』が開催された。さらにサイアノタイプに興味が出た頃合いに『Invisible Ink』が開催された。版画然り、油彩然りだ。

野村さんは表現方法が変わっていっても、表現し続けたいことは一貫していて、選ばれた技法には必然性がある。表現方法の変遷を含めて含意を楽しめるし、作品を前にしてあれこれ考え続けたくなる。要するに、野村浩は極めて推し甲斐があるマルチメディアな美術家なのだ。