近美の無料観覧日

新年2日は、東京都国立近代美術館の無料観覧日で、ここ3年くらい、毎年この日に足を運んでいる。今年は平成最後の一般参賀ということもあり、お堀周りはいつも以上に賑わっていた。

最初のお目当は、北井一夫「村へ」。学生闘争や三里塚とは打って変わって、淡々とした写真が並んでいる。高度経済成長期に取り残された農村部へ眼差しを向けている。

それから、森山大道「にっぽん劇場」。このボリュームでドンと見られたのは良かった。テカテカのフェロ掛けプリントが良い。

新鮮だったのが、中平卓馬「夜」。1969年の第6回パリ青年ビエンナーレに出品したシリーズで、印画紙ではなく、グラビア印刷。

“写真家が手仕事で仕上げた一点ものの写真作品ではなく、印刷物として、日々社会に大量に流通する写真イメージこそが、同時代における写真のあり方として問題とされるべきだ。”

と、展示のキャプションには有るけど、グラビアのベタがなかなか味わい深くて、これはこれで成立しているし、むしろかっこいい。

下の手前のトラックの後部を写した写真が、恵比寿のPOSTで見た、Sylvia Bataille(シルビア・バタイユ)の「AUTOROUTE」のイメージに近く、興味深かった。

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変革の一年でした

今年は仕事でもプライベートでも変革の一年でした。別に転職したわけでも、家族構成が変わったわけでもありませんが、ひとつ節目と言える年でした。

公私ともに気力や体力と相談しながら、一日一日を何とかしのぎ切るだけで精一杯でした。ヘロヘロ、グタグタではありましたが、なんとか乗り切れたように思います。来年も少なからず変革が続いていきそうです。さらに忍耐の一年になるかもしれませんが、もう少し周りに相談しながら、気持ちを穏やかに向かっていければと思います。

その分、写真に関われる時間はとても少なくなりました。写真関係の人付き合いも自ずと減りました。もどかしくもありましたが、少ない時間だからこそ、密度と強度の高い写真に出会えると救われる想いでした。月に一度程度、写真展を見に行ったり、帰宅して夜中に写真集をパラパラとめくったり、壁に掛けた写真をまじまじと見たりするだけで、体の力が抜け、気持ちが楽になりました。

写真集が大好きな吉祥寺の古書店主さんとの「写真研究」「写真談義」ができるようになったのは大きかったです。店主さんによって新しい「問い」をもらえるたびに、心地よい思考が駆け巡り、情報やら知識やらを詰め込みすぎた脳がリセットされました。店主さんとの研究は、来年も楽しみにしています。

投稿のペースはだいぶん落ちてきましたが、 写真展の感想を細々と続けられているのも、相変わらず「写真はなんて面白いんだ!」という初期衝動が支えてくれているからです。それに加え、こんな楽しい写真の世界を、少しでも興味を持ってくれた誰かにさらに好きになってほしいという気持ちがあるからでもあります。誰に頼まれるでもなく、誰に読まれるでもないブログですが、たまたま検索して見つけてくれた人の何かの役に立てたらうれしいです。

今年もお世話になりました。来年もマイペースで続けたいと思います。

ポラロイドの写真集〈その4〉

ポラロイド熱は治ってきたと思いきや、いつのまにか増えてきて、収束どころかむしろ加速してしまっている。

来年、エグルストンのポラロイド写真集がシュタイデルから出るようなので、その辺を潮時にしたいんだけどね。

Manuel Alvarez Bravo: Polaroids

メキシコの巨匠マヌエル・アルバレス・ブラボのポラロイド写真集。世田谷美術館で見た回顧展も記憶に新しいが、カラーのポラとは驚いた。メキシコの出版社 EDITORIAL RM。


Misha Vallejo & Isadora Romero: Siete Punto Ocho

2016年4月16日にエクアドル沿岸を震源とする、マグニチュード7.8の地震が起きた。メキシコも大きな被害に見舞われた。作者のミーシャとイサドラは生存者をチェキやポラロイドで撮影して、それを写真集にまとめた。

この写真集を機に調べていたら、中米は海底に中央アメリカ海溝があり、複数のプレートの境界線が密集している地域で、日本とよく似ていて地震多発地域だとわかった。

こちらも EDITORIAL RM 。


Dennis Hopper: Colors, The Polaroids

俳優デニス・ホッパーが監督を務めた映画『Colors』の撮影の合間に撮っていたポラロイドの写真集。撮影現場のロサンゼルスでたまたま見つけたグラフィティに反応して、気が向くままに撮りためたもの。


Robby Muller: Polaroid

ヴィム・ヴェンダースの盟友である、撮影監督ロビー・ミューラーの写真集。今年の7月4日に78歳で亡くなられた。

「Interior」と「Exterior」の二冊組で、映像のキャプチャー画像をストーリー仕立てにまとめた小冊子も付属している。


Polaroids: Reihen, Serien, Sequenzen

ドイツの企画展の図録。それ以上全くなんだかわからないが、ボラの背面をグリットに並べた表紙がかっこよくてジャケ買いした。


森村泰昌 作品集「私」の年代記 1985〜2018 My Art, My Story, My Art History

六本木のシュウゴアーツで開催されている同タイトルの作品集。スタジオ撮影時のポラロイドを編集したもの。徹頭徹尾、どこまでも森村泰昌な一冊。


Andy Warhol Polaroid Prints Set 1, 2

アンディ・ウォーホルが「ビジュアルダイヤリー」としてポラロイドを撮り続けていたのは有名な話。

これは米国のKidrobotという雑貨メーカーが、アンディ・ウォーホル財団のライセンス許可を得て製作したもので、ポラロイドを再現した11枚セット。


Arno Fischer: Der Garten – The Garden

ドイツ人写真家のアルノ・フィッシャーによる写真集。妻であり、写真家のズィビレ・ベルゲマンと共に、古い農家に移り住み、住居兼アトリエとして生活する。その中でSX-70を手にとり撮影しているうちに、ポラロイドの偶発的な画に魅了され、撮りためたものを一冊の写真集にまとめた。メランコリックな色合いが美しい。


Sibylle Bergemann: The Polaroids

旧東ドイツ出身の写真家、ズィビレ・ベルゲマンの写真集。前述のアルノ・フィッシャーは、ご主人であり、彼女の写真の師匠でもある。公私にわたってのパートナーであった。

本書はズィビレがプライベートに撮影したとされるポラロイドをまとめたもの。一見、ポラロイドらしい耽美なイメージが並んでいるだけように感じるが、そうとも言い切れない。

風景や抽象的なイメージが多い中で、メイクを施した少女やサーカス団員(おそらくダウン症の人々)のポートレートも含まれており、何かしらの意図を感じる。


Philip-Lorca diCORCIA: THOUSAND

フィリップ=ロルカ・ディコルシアが1000枚ものポラロイドをまとめた写真集。薄いロール紙を用いてなお、ちょっとした辞書ほどの分厚さがある。一枚一枚じっくりというより、ペラペラとめくりながら流れで掴んでいく感覚が面白い。


Laura Letinsky: TIME’S ASSIGNATION, THE POLAROIDS

カナダ出身の写真家、ローラ・レティンスキーの写真集。今では生産中止になっている55タイプのフィルムを使い、1997年から2008年までにスタジオで撮られたものをまとめている。淡いセピア色のイメージがポラロイドの斜陽感を一層際立たせているように感じる。


Patti Smith: Land 250

2008年にカルティエ財団現代美術館で開催されたパティ・スミスの個展「Patti Smith, Land 250」の同タイトルの写真集。

題名は、夫と兄弟を亡くした1995年から使用しているポラロイド写真機に由来する。失意の中で表現をする意欲を失っていたパティが、アーティストとしての自信を取り戻すきっかけとなったのがポラロイドだった。

墓石や彫刻、曇り空などの風景の他に、ヴァージニア・ウルフのベッド、ヘルマン・ヘッセのタイプライター、ロバート・メイプルソープのスリッパなど、親交のあった人物の私物なども撮っている。


Paolo Gioli: Etruschi Polaroid 1984

映像作家で写真家でもあるパオロ・ジォーリの作品集。正直、名前もジョリなのか、ギオリなのかすらよくわからない。追い追い研究したいけど、手がかりが少ない。

本書は古代エトルリア美術の彫刻をモチーフにして、多重露光やコラージュ、エマルジョントランスファーなどを駆使した前衛的な作品になっている。ジョナス・メカスのような印象も受ける。


染谷學 写真展「ほうたれ」@蒼穹舎

待ってましたの染谷さんの写真を最終日に拝見してきた。今回は35mmのみでまとめられていていた。スクエアからの移行は進んでいるだろうなと予想はしていたけれど、予想以上に完成されている印象だった。シリーズとしてはまだ枚数が足りないとおっしゃってはいたが、35mmがしっくり来ているの間違いなさそうだ。

何度も言うようだけど、染谷さんの写真の魅力は「残滓感」にあると思っている。「灰汁」「渋み」と言い換えてもいいかもしれない。それでいて、ため息が出るほどプリントは美しく、銀塩の愉しみが凝縮されている。粒状感やブレなどに走らず、あくまでクリアなファインプリントでありながら、どこか引っ掛かりがある写真になる。とても稀な写真家ではないだろうか。

今回の展示では、さらに進んで、気負わず、奇を衒わず、狙わず、決めず、すうっとカメラを向けて、さっと撮っているようだった。以前はもう少し「エグ味」を感じる写真も多かった印象だったけど、そういう表向きな強弱は影を潜めていた。

染谷さん曰く、そういうあざとさのようなものから離れてみたくなったそうだ。年齢や身体的な条件が変化するにつれ、自然と「何でもない写真」へと向かわせているのかもしれない。何でもなさというのは写真の醍醐味であり、ゴールの見えない道なき道とも言える。

そもそも写真自体に答えを求める必要もないし、答えを求める意味もない。ただ目の前に在る光景。ただそれだけで十分ではないか。そう納得させてくれるような展示になっていた。

35mmに移行しても、気負いがなくなっても、距離感が変わっても、本質的な染谷さんの魅力が損なわれることはなく、むしろ研ぎ澄まされてきた感すらある。また新たな領域へ誘ってくれそうで、これからも楽しみでならない。

インベカヲリ☆写真展「ふあふあの隙間」@ニコンプラザ新宿 THE GALLERY

数年前に神保町画廊で初めてインベカヲリ☆さんの写真を見たときに、皮肉や滑稽さを含んだセットアップに興味を持って、写真集『やっぱ月帰るわ、私』を買った。

後々になって自分の好みとは合わないと感じつつも、なぜか手放さずに持っていた。古本屋に買い取ってもらおうとしても、最後の最後で選外になり、今でも本棚に立ててある。ある種の呪いのように思えて時折怖くなる。

インベさんの写真には、好奇心なんて甘っちょろいものは通り越した強欲をはらんでいて、迂闊に「こういうの面白い」とか「こんな写真好きだなあ」とかなんとなく言いづらい。いや、別に本人からしたら、好き勝手言ってもらっても構わないのだろうけど。

今回、写真とテキストを並べて展示してあった。デジタル出力の彩度が強調された写真の脇に、各々の被写体のエピソードが綴られている。時間はかかったが、すべて流し読みせずに回ってみた。写真と文との関係を考えざるを得ないけど、これはこれでありだなと思えた。にしても、このポップさがかえってズシリとのしかかる。

自分にも潜在的にこういう部分がありそうだなと。共感というより戸惑いというか、ん、いや、どうだろう…。小学校の頃は、下校途中、「駄菓子屋行こうぜー」ってなって、「行こう!」って応えたのに、家と駄菓子屋の分かれ目に差し掛かったとたん、「じゃまた明日!」って帰っちゃう感じの子だったな。

そんなことはさておき、結局また写真集を買ってしまった。『ふあふあの隙間』と『理想の猫じゃない』。はたして、この2冊は手放せない写真集となるのか、手放したくても離れなくなる写真集になるのか、恐ろしくも楽しみで、どうにもむず痒い。

そんな感情を掻き立てられてしまうことこそ、まんまとインベカヲリ☆という写真家の術中というか呪術にはまってしまっているのかもしれない。

村越としや「濡れた地面はやがて水たまりに変わる」@タカイシイギャラリー・フォトグラフィ/フィルム

室内の写真が気になった。それも2枚もある。村越としやの写真ではきわめて稀だと思う。展示でも写真集でも見たことがない。何か理由があるのか今度直接訊いてみたい。別になんとなく入れてみたくなったとかでもいいんだけど、室内を選ぶのはかなり珍しいから、やっぱ気になる。

他には、人や馬の写真はこれまでよりも距離感が近い。少し前から人物が入るようになった。その距離がさらに近くなっていた。室内もそうだけど何か心境の変化でもあったのかな。

ずっと同じことをやっているんだけど、変わらないようでいて何かしら微妙に変化してることがある。その微妙な変化を感じ取りたいので、これからも具に見ていきたい。

自分にとっては長く継続して見るべき写真家だから。

「CAMERAer」と、野村浩 展「“NOIR” and “Selfie MANBU”」@POETIC SCAPE

今回の展示は、コミック形式の著書「CAMERAer」の世界を3Dに置き換えた場合に、何が起こるのかを考察する装置になっていてる。それも二部構成。これがなかなか手ごわくも楽しいショーになっていた。

急いては事を仕損じる。野村作品を見るときは、まずこれ。安易な結論に落ち着かないように、見たままを感じつつ、ひとつひとつ自分なりに考えてみる。ヒントとなる仕掛けを紐解きながら、こういうことを言っているんじゃないか、ああいうことが言いたいんじゃないのかと、思索を深めていく。それから、作家の意図を尋ねてみる。その後に、拡大解釈を始めてみる。それが野村作品の醍醐味だと思う。

さて、入ってすぐの「Noir」は「CAMERAer」の終盤に登場するあの真っ黒なプリントの展示が再現されている。その中央部には、スライドプロジェクターでさまざまな画像が映写されている。カッシャン、カッシャンと映写機の作動音と共に、実際の展示と映像の二重像が、淡々と場をつないでいく。このシンプルなレイヤー構造が「とにかく見てみる」というシンプルな行為へ誘い、ついつい長居させられてしまう。

映写機は不思議なもので、とても没入感のあるメディアだと思う。壁面照射による反射光像を観てはいるのだけれど、どこか透過光の要素も含まれている気がする。透過光の受動的な作用と、反射光の能動的な作用が同時に働いて、まったりとリラックスした状態で観賞しつつも、積極的に何かを読み解こうとする意識も働く。

昨年丸亀で開催された志賀理江子「ブラインドデート」もそうだった。展示物と映写像を組み合わせた場の空気は、意識の収斂と拡散を繰り返すように、独特のリズムで観賞することができた。あの没入感は映写機によることころが大きいのかもしれない。

きっと展示物と映写機の組み合わせは劇薬的な手法ではないかと思う。作品との必然性がなければとてもチープな展示になりかねない。そういう意味では野村さんの「Noir」は見事にハマっていた。見る行為そのものと、見ているモノの意味や価値を問い、鑑賞という体験がいかにして生まれるのかを問う仕掛けではないかと解釈した。ひとまず今のところは。

次に、奥の「Selfie MANBU」のセクションでは、あたかも「マンブ君」自身がリアルに撮影したと思わせるスクエアチェキで撮られたセルフィやライフログ写真が並んでいる。もちろん野村浩自身が撮影したものではあるのだけれど、「マンブ君」の日常を追体験するような展示になっている。擬人化といえるのかわからないが、リアルとフェイクの間のような仕掛けで、気軽に楽しめる雰囲気でありながら、その手法はエキスドラの不可解さを彷彿とさせ、どこかキツネにつままれたというか、煙に巻かれたような気分にもさせられる。

70年代にポラロイドのSX-70が登場するや、こぞって美術家や写真家たちはポラロイドに飛びついた。当時は出力に時間を要するフイルムが全盛で、その場で見られるというポラロイドの即時性は相当なエポックメイキングな出来事だったと思う。それまでモノクロ作品しか発表していなかったウォーカー・エバンスが初めて撮ったカラー作品がポラロイドだったことからも窺いしれる。

今では、SNS ─ 特にインスタグラム ─ に慣れ親しんだ人たちが行きつくリアルは、今はチェキなのかもしれない。スマホの中だけでなく、実際に手にとってシェアできるチェキは、即時即効性という意味でもスマホと相性がいい。デジカメすら使ったことのないスマホネイティブ世代にすんなりと受け入れられたのではないだろうか。復活を遂げたポラロイドはいかんせん価格が高く、スクエアフォーマットの優位性も、スクエアチェキの登場で差を埋められた。

元祖ポラロイドを知る者としては、スクエアチェキのサイズは物足りなさもあり、鮮明な画像は郷愁に欠ける面もあるけれど、気軽に楽しめるインスタントフィルムがあるのはうれしい限りだ。近い将来、大判のスクエアチェキがでたら面白いかな。

フィルムとポラロイド、フィルムとデジカメ、デジカメとスマホ、スマホとチェキ。比較対象であったり、新たな関係性であったり、写真の変遷であったり、世代ごとの写真の捉え方であったりと、いろいろ考えが及んで行く「Selfie MANBU」だった。

野村浩ワールドに引き込まれてどれくらい経つだろう。毎回いくつもの気づきを与えてくれ、いくつもの悩みを与えてくれた。写真を媒体に見ることを問う作家姿勢、驚愕の着想、その着想に耐えうる過剰なまでのアプトプットは、鑑賞者に止めどない楽しみと悩ましさと、理解しがたさを投げ掛けてくる。実際に足を運び、生で展示空間に浸かり、答えなき答えを考える体験の面白味は、野村浩作品の真骨頂と言える。

「CAMERAer」発売記念イベントは、小林美香さんの「写真歌謡」と相まって神回だった。先日の美術家・豊嶋康子さんとのトークは風邪でダウンしてしまいあいにく聴くことができなかった。かなりの痛恨事ではあるものの、おいおい野村さんに伺えればと思う。

川田喜久治「百幻影 ─ 100 Illusions」@キヤノンギャラリーS

楽しみで仕方なかったのに、いろいろ週末に予定が詰まっていたり、体調を崩したりで、行けなくて、結局最終日になんとか見に行けた。

今回の「百幻影」は「ラスト・コスモロジー」と「ロス・カプリチョス」を巧みに再編した展示になっていた。いくつかのブロックに分かれた展示構成、PGI謹製のプレーンな額装、ハーネミューレが醸し出すほのかな光沢感。抑えめで、控えめな演出だからこそ、イメージの強度が純粋に伝わってくる。圧巻の個展だった。ほんと滑り込めてよかった。

写真にも言葉にも確固たるものを持ちながら、写真にも言葉にも縛られず翻弄されず、メタファーの世界を自由自在に闊歩し、変幻自在に飛びまわる様は、常に変化と挑戦を続けている川田さんならでは。畏敬を抱かずにはいられない。

そういえば最近、川田さんがInstagram(@kikuji_kawada)を始められた。これがまたすごくて、連日アグレッシブな投稿をされている。ほんとヤバイ(笑) 速攻でフォローしてしばらくしたら、自分の投稿にいいねをつけてくれたことがあった。うれしさと驚きで地に足がつかなくなってしまった。

毎朝、「MASAHISA FUKAE」を一章ずつ読む

朝起きて、身支度をすませて、出勤前に一章ずつ読んでいる。また次の日に、朝起きて次の章を読んでいる。このペースがとても良いように思えて、一気読みしたり、空いた時間に読んだりしていない。そんなルーティンを数日繰り返しながら、深瀬昌久という写真家を少しずつ探求させてもらっている。

この分厚くて重たい書物を上梓するまでに、どれほど犠牲を払ってきたのだろうか。どれほど辛酸を舐めてきたのだろうか。どれほど煮え湯を飲まされてきたのだろうか。どれほど孤独と向き合ってきたのだろうか。私には想像を絶する。

トモ・コスガさんには感謝しかない。

9月28日の戸田昌子さんとのトークイベントが楽しみでならない。

津田洋甫展 – 初期作品 1950 – 60年代 @MEM

久しぶりにMEM。戦後の浪華写真倶楽部の復興に尽力したという津田洋甫の写真を初めて見ることができた。ほとんど世に紹介されていなかった50年代から60年代のヴィンテージプリント。日本の新興写真、主観主義写真として位置付けられる作風で、一枚一枚が力強く、実験的な写真ばかりだった。とにかくすっごくかっこよかった。

ギャラリーで少し話しを伺ったら、浪華写真倶楽部は1904年(明治37年)に結成し、現在もメンバーを変えながら活動が続いている国内最古のアマチュア写真クラブだとか。活動期間は結成から現在までで優に100年を超える。ピクトリアリスムからストレートフォトグラフィ、シュルレアリスムなどの文脈に影響を受けながらも日本独自の新興写真を追求した中心的なグループだった。

1904年は日露戦争が始まった年。ブレッソンが生まれる4年前、スティーグリッツが「ギャラリー291」を立ちあげる1年前。安井仲治はまだ1歳で、植田正治や桑原甲子雄が生まれるのはこの10年後。そう考えるだけでも、浪華写真倶楽部の歴史を実感できる。

関西のアマチュア写真クラブは独自の発展を遂げていて、長い歴史もあり、会員は高い矜恃を持って活動している。関東のアマチュアクラブとは文化も気質も違うところが多いので、そうと知らずに関西の写真クラブを迂闊に語ると痛い目にあうと聞いたことがある。何事にも敬意を持つことが大切だ。

津田洋甫は66年以降は作風を大きく変え、日本の自然をテーマに撮影をしており、今回の初期作品は戦後の新興写真の流れを色濃く残す貴重なプリントだと思う。MEMは埋もれてしまった作家や作品を掘り起こして、再評価をしてゆく取り組みも魅力で、未見の作家と出会える絶好の空間になっている。