川田喜久治「百幻影 ─ 100 Illusions」@キヤノンギャラリーS

楽しみで仕方なかったのに、いろいろ週末に予定が詰まっていたり、体調を崩したりで、行けなくて、結局最終日になんとか見に行けた。

今回の「百幻影」は「ラスト・コスモロジー」と「ロス・カプリチョス」を巧みに再編した展示になっていた。いくつかのブロックに分かれた展示構成、PGI謹製のプレーンな額装、ハーネミューレが醸し出すほのかな光沢感。抑えめで、控えめな演出だからこそ、イメージの強度が純粋に伝わってくる。圧巻の個展だった。ほんと滑り込めてよかった。

写真にも言葉にも確固たるものを持ちながら、写真にも言葉にも縛られず翻弄されず、メタファーの世界を自由自在に闊歩し、変幻自在に飛びまわる様は、常に変化と挑戦を続けている川田さんならでは。畏敬を抱かずにはいられない。

そういえば最近、川田さんがInstagram(@kikuji_kawada)を始められた。これがまたすごくて、連日アグレッシブな投稿をされている。ほんとヤバイ(笑) 速攻でフォローしてしばらくしたら、自分の投稿にいいねをつけてくれたことがあった。うれしさと驚きで地に足がつかなくなってしまった。

広告

毎朝、「MASAHISA FUKAE」を一章ずつ読む

朝起きて、身支度をすませて、出勤前に一章ずつ読んでいる。また次の日に、朝起きて次の章を読んでいる。このペースがとても良いように思えて、一気読みしたり、空いた時間に読んだりしていない。そんなルーティンを数日繰り返しながら、深瀬昌久という写真家を少しずつ探求させてもらっている。

この分厚くて重たい書物を上梓するまでに、どれほど犠牲を払ってきたのだろうか。どれほど辛酸を舐めてきたのだろうか。どれほど煮え湯を飲まされてきたのだろうか。どれほど孤独と向き合ってきたのだろうか。私には想像を絶する。

トモ・コスガさんには感謝しかない。

9月28日の戸田昌子さんとのトークイベントが楽しみでならない。

津田洋甫展 – 初期作品 1950 – 60年代 @MEM

久しぶりにMEM。戦後の浪華写真倶楽部の復興に尽力したという津田洋甫の写真を初めて見ることができた。ほとんど世に紹介されていなかった50年代から60年代のヴィンテージプリント。日本の新興写真、主観主義写真として位置付けられる作風で、一枚一枚が力強く、実験的な写真ばかりだった。とにかくすっごくかっこよかった。

ギャラリーで少し話しを伺ったら、浪華写真倶楽部は1904年(明治37年)に結成し、現在もメンバーを変えながら活動が続いている国内最古のアマチュア写真クラブだとか。活動期間は結成から現在までで優に100年を超える。ピクトリアリスムからストレートフォトグラフィ、シュルレアリスムなどの文脈に影響を受けながらも日本独自の新興写真を追求した中心的なグループだった。

1904年は日露戦争が始まった年。ブレッソンが生まれる4年前、スティーグリッツが「ギャラリー291」を立ちあげる1年前。安井仲治はまだ1歳で、植田正治や桑原甲子雄が生まれるのはこの10年後。そう考えるだけでも、浪華写真倶楽部の歴史を実感できる。

関西のアマチュア写真クラブは独自の発展を遂げていて、長い歴史もあり、会員は高い矜恃を持って活動している。関東のアマチュアクラブとは文化も気質も違うところが多いので、そうと知らずに関西の写真クラブを迂闊に語ると痛い目にあうと聞いたことがある。何事にも敬意を持つことが大切だ。

津田洋甫は66年以降は作風を大きく変え、日本の自然をテーマに撮影をしており、今回の初期作品は戦後の新興写真の流れを色濃く残す貴重なプリントだと思う。MEMは埋もれてしまった作家や作品を掘り起こして、再評価をしてゆく取り組みも魅力で、未見の作家と出会える絶好の空間になっている。

星野寿一写真展「こうみょう《光明》~ NOVA 〜」 @ギャラリー冬青

ずっと待ち望んでいた星野さんの初個展に伺った。湿版写真に取り組み始めてからというもの、親子ほど年の離れた後輩である私が、顔を合わせるたびに「星野さん、そろそろ個展やりましょう!」とけしかけていた。半分本気で半分挨拶がわり。いや、日が経つにつれて8:2で本気になっていた。それくらい星野さんの湿版の石仏は圧倒的で、個展という形で早く見てみたいと熱望していた。それが貸ギャラリーではなく、コマーシャルの冬青で個展が決まったと知ったときは本当にうれしかった。私がけしかけたことなどまったく関係なく、星野さんの湿板を冬青の高橋社長が見初めたからに他ならない。

同期として参加させていただいたWSの卒展やOB展、はたまた歴戦の兵から意欲溢れる若手までがごった煮で集う「東京8×10」などで折にふれて石仏の写真は拝見してきた。とりわけ湿板写真になってからというもの、石仏の存在感がより一層際立つようになっていた。被写体と技法が見事に一致していると思えた。

湿版写真の魅力は滑らかな諧調と独特の立体感で、肉眼で捉える以上のリアリティが立ち現れる。湿板はかなりの労力と根気と財力が必要な技法でもあるので、実際に技術を学び習得しながら作品にまで昇華させるには途方もない時間と費用がかかったはずだ。意欲と熱意に溢れる姿は本当にすごい。奥様と共に本当に尊敬している。

久しぶりに訪れた冬青の室内で、一点ずつ時間をかけて観賞させていただいた。その中で何度も何度も観てしまう一枚があった。どこか仏様が手を合わせているようにも見える水芭蕉だった。エディションが進む前にと思い意を決して購入を決めた。

赤々舎で「MASAHISA FUKASE」を予約する

ほぼ「鴉」でしか知り得なかった深瀬昌久の40年間の集大成。「深瀬昌久アーカイブス」の創設者兼ディレクターであるトモ・コスガ氏の人生をかけ心血を注いだ仕事だと拝察する。おそらく今後の写真史で最も重要な書物のひとつになるだろう。そんな大げさな、と思う勿れ。それほどの期待感はあるし、価値があると思う。

全く個人的な話なのだけど、私がとてもお世話になったというか、救ってくれたというか、拾ってもらったというか、つまり返しきれない恩を受けた方が、深瀬氏と面影が似ていて、初めてセルフポートレートを見た時にとても驚いたことを覚えている。しかも生き様もどこか重なるところがあり、勝手に妙な因縁を感じている。

深瀬昌久という写真家と向き合うことが、私の恩人と向き合うことになりそうで、そこはかとない畏れを感じつつも、楽しみにしている自分がいる。

市川孝典 個展 「street cred by QUIET NOISE」と「Hello, stranger! by POST」

市川孝典さんの展示はナディフでの線香画以来だった。大きく手法を変えながらも、おぼろげな記憶の中のイメージを定着させるというのは一貫していた。

今回は「時間と記憶のズレ」をテーマにした美しくもユニークな展示で、恵比寿のPOSTと池ノ上の QUIET NOISE(以下QN)共に素晴らしい作品だった。

SNSというモチーフで流行性や時代性を持った作品でありながら、これほど見ても見ても見飽きない、これから先、ずっと見続けてもきっと飽きないだろうと確信めいたものを感じる作品は珍しい。

鑑賞距離の変化でもガラリと印象が変わる。特にQNの小作品では距離による変化が顕著で、2、3歩前後するだけでも発見の連続だった。

何気なく目で追っているSNSのタイムライン。画像の読込み中に現れる円形のローディングアイコン。その背後には読み込みが完了する前のぼやけた画もしくは白背景。パッと実像が現れるまでのちっとしたもどかしさ。

すでに読込み済の画像ならば、一瞥で流してしまったかもしれない画像も、読込み中だと期待値が少しだけ高くなる。ほとんどの画像は見えてしまった時に、期待したほどではなかった何でもなさが残る。

日常で何度となく目にする一瞬の不完全さへのささやかな期待感。そこには投稿者の意図や思惑が入り込むこと無く、見る側の記憶や想い出が重なって、脳内で自分寄りの画像に置き換わる。

そんなSNS上での一秒あるかないかの瞬間をとどめ、観る者の視覚と思考を心地よく揺さぶり解放してくれる。これはひとつ手元に置いて、じっくりと向き合いたいと思わせる作品だった。

「カメラを止めるな!」を観る

めずらしく映画鑑賞の話。

あんまり映画とか観ないんだけど、たまたま休日に予定がなくて、なんとなく映画でも観るかと、新宿のケイズシネマに朝イチで行ってみて、すでに20人くらいの行列が出来てて、とりあえず最後尾に並んでみて、15分後にチケット代払って、30分後から予告が始まって、10分後に本編が始まったので、ぼんやり観てみたら、すぐさま引き込まれて、前半が瞬く間に過ぎて、後半がさらにヤバいのなんのって、観終わったら拍手喝采したくなるテンションで、公衆の面前で、「もう、最高かよ!」って叫んじゃったよ、心の中で。

この映画はね、愛ですよ、愛。

この夏、これ観ないと絶対損するよ!!!

版画作品の額装を依頼する

昨年購入した濱野絵美さんの版画作品を額装してもらった。依頼はいつものポエティック・スケープの柿島さん。額装コーディネーターとしても凄腕で、そのうえ版画も得意分野。版画の魅力を知り尽くしているので、安心しておまかせした。

まずは「耳付き」を活かすため、プリントにはオーバーマットを被せずにフローティング仕様に。版画の用紙は四辺を裁断していない耳付きの紙が好まれる。イメージサイズに合わせてカットする場合も、手でちぎるなどしてムラを作ることが多い。版画は紙の厚みや繊維質など、微細な物質感も作品の魅力の一部になっているので、耳を活かすのも大切なポイント。

そしてフレームは木製の白磨きにしてもらった。薄っすらと木目が浮き出て、アルシュ紙の紙肌や地色に馴染んでいる。白ラッカーだとフレームだけが主張してしまうし、無垢のままだと木目がうるさくなる。今回は白磨きが正解だった。

すべてのバランスのとれた清々しい額装で、期待以上の仕上がり。ほぼおまかせで預けっぱなしだったけど、大満足の額装になった。既成のインチフレームもいいけれど、一度はプロの仕事を体験するとその凄さがわかるはず。

ちなみに、もうひとつ銅版画の見所にプレートマークがある。銅版画を刷る際は高圧のプレス機にかける。ローラーを通る時に、版のエッジが当たり紙が破れたり、下敷きのフェルトを傷めたりしないように、予め版のエッジを削って傾斜をつけて慣らしておく。

傾斜がついた版をプレスすると、緩く角度が付いた四角い凹み跡がつく。写真でいうとマットの窓のような形になる。これをプレートマークと呼んでいる。刷り工程で必然的に凹むものだが、美しいプレートマークはイメージサイズの輪郭を際立たせ作品の完成度も高める効果がある。

だから、考え方の一つとして、できれば先ず版画はシートで観賞すると面白いと思う。インクが乗ったプリント面、耳、プレートマークなど、薄いけれど確かな物質感を手にとって楽しめる。それから額装しても遅くないというか。

この感覚はバライタのモノクロプリントに近いものがあるけど、さらにミクロな視点かもしれない。ついマニアックな見方になりがちだけど、写真に負けず劣らず版画も魅力的なメディアだと思っている。

写真集で話せる場所@book obscura

ひとり黙々と写真集に向き合うのも変えがたい時間だけど、写真集が好きな人と一冊の写真集をめくりながら、あれこれ読み解いていくのも楽しい。たまたま居合わせた人が興味を持って話の輪に加わるのも面白い。

写真一枚一枚に注目して、何が写っているのかを観察したり、撮影された時代、季節や時間帯について考察したりしてもいい。写真のシークエンスに目を向けて、どうしてこの組み方なんだろう、どうしてこの流れにしたのかと意見をかわすのもいい。造本、装丁について話すのもいい。感材や機材について触れてみてもいい。

また、同時代の写真集を俯瞰的に見比べたり、時系列に紐解いたりするのも楽しい。同じモチーフ ─ 例えはフリードランダーと森山大道の車窓とか ─ を見比べてみるのもいい。ロバート・フランクの「The Americans」のように、同じタイトルでも出版社が変われば編集が変わり、並びや画面サイズ、トリミングも変わることがある。「版」や「刷」が異なれば、同じ写真でも違いがあるかもしれない。

作家による製作意図やヒントが散りばめられていることもあれば、並びの妙だけで投げかけてくるものもある。深読みも厭わず、自ら問いを探して、用意されていない答えを見出す。これが楽しい。

その時その時、その人その人の経験や習熟度で答えは変わるだろうし、写真史や美術史を踏まえればまた読み方は変わり、さらに理解は深まって行く。

それができる場所のひとつに、古書店《book obscura》がある。店主の造詣の深さ、熱意、行動力、どれを取っても眼を見張る。誰よりも店主が最高に写真集が好きで、最高に楽しんでいる。こんな素敵な場所が近くにあるなんて、とても有難いことだよね。

柿崎真子 展「アオノニマス 廻」@POETIC SCAPE

楽しみにしていた柿崎さんの個展に足を運んだ。馬車道の展示以来だから約3年振り。

アオモリとアノニマスを組み合わせた造語 ── アオノニマス。とても響きのいい美しい語感で、素晴らしいタイトルだと思う。そこに毎回、漢字一文字が続く。今回は「廻」。どの写真も渾々として尽きることなく、沸々とたぎる根源的な廻りを捉えているようで、ひたすら見ていたくなる。

じっと見つめていると、青森の何処かだと知りながら、ここは一体どこなのだろうと考えつつ、やがてここがどこかは気にならなくなっていく。柿崎さんの写真の不思議な匿名性だ。

柿崎さんの写真はとても深度は深い。目の前にある土地 ─ 土壌、淡水、海水、鉱物、大気、草木 、微生物 ─ と対峙することで、青森が青森になる前の、さらにまだ地名らしい地名が付く前の、さらに人の営みが始まるずっと前の太古の生態系を想像させる。

同タイトルの写真集も良い。柿崎さんにとって初の綴じ製本。既刊の2冊はいずれもスクラム製本で綴じられていなかった。これはこれで良かったけど、やはり造本のしっかりした写真集は美しい。サイズ感といい装丁といい、写真の並びといい、どれを取っても秀逸。

裏表紙にも貼られている写真がなんとも不思議で、何かに見えて何にも見えない。まさにアノニマスな存在。さらに20〜24頁の流れは凄みがあり、この一冊の肝になるシークエンスだと思う。