自宅以外でコレクションを飾る

2年前くらいから自宅以外のある場所で写真作品のコレクションを飾らせてもらっている。公的な場所じゃないので、詳しくは言えないけど、信頼が置けて気心もしれていて、個人宅ではないスペースとだけ。もちろん双方同意のもとで、貸与でも贈与でもなく、個人蔵の作品をただ場所を借りて飾らせてもらっている。ニュアンス的には、無償で飾る壁面を貸してもらっているという感じかもしれない。

先日、久しぶりに作品の掛け替えと掛け増しをしてきた。その場所に合うように考えて選ぶのは楽しくて、ちょっとしたキュレーション気分を味わえる。今回はこっそり自分の写真も混ぜてみた。作品についてあえて説明せず、もし興味を持ってくれて何か聞かれたら答えるようにしてる。

写真や版画などを購入するようになってしばらくして、やはり作品を家で飾りたいと思うようになった。賃貸だからと諦めずに工夫しながら壁面を確保して、ささやかな家庭内ギャラリーを楽しんでいる。限られたスペースなので、季節や気分で掛け替えるものの、すべての作品を満遍なくとはいかない。額装済みで飾りきれないもの、マットに入れただけのもの、シートのままのものもある。それはそれで観賞の仕方があるけど、壁に飾っているのに比べたら、見る機会はそう多くない。

ある時から自宅以外でも飾れたらいいかもと考えるようになった。どこでもいいわけではない。安心して預けられるところがいい。勤務先はどうだろう? いや、公私混同は否めないし、何かあっても会社側も責任を負えないだろう。友人宅はどうか? あり得るけど、ちょっと気を使わせてしまうかもしれない。友人とはいえ他人様の私物を預かってる感じが強まってしまっても申し訳ない。

たまにそんなことを考えつつも、特に具体的に動くわけでもなく、軽い妄想を膨らませているだけだった。それから何年か経って、ひょんなことから進展があった。昔からお世話になってる方の事務所が移転することになり、移転先に顔を出すことがあった。室内はとてもきれいにされていたが、やや簡素な印象で、ここに写真とか飾ったらいいだろうなと勝手に思っていた。雑談の中で「女性のトイレが殺風景でね、何か飾れたらって思ってるんだけど、何を飾ったらいいか分からなくて」という話になり、思わず「もしよかったら私の持っている写真を飾らせてもらえませんか?」と提案してしまった。

先方も好意的に受け取ってもらえて、手始めにサイアノタイプの小作品を選んで飾らせてもらった。当初は女性用トイレに飾る予定だったが、入口からすぐ見える場所がいいだろうとうことになり、入ってすぐの柱に掛けさせてもらった。たった一枚写真があるだけで、場の雰囲気ががらりと変わる。これは自宅でも実感していることだ。どんなに殺風景でも、どんなに生活感にあふれていても、一枚の写真が空気感を変えることがあるのだ。

で、今回ようやく女性用トイレにも一枚飾らせてもらった。こちらは六切サイズくらいのプラチナパラジウムプリントにした。主張しすぎず穏やかな雰囲気になるようにと選んだ。他にも自分の写真を含めて掛け増しをした。事務所内の動線を意識しながら、サイズ感も考えて配置してみた。事務所の方にもご満足いただけて、ひとまずミッションコンプリート。次回はカラープリントや版画作品なんかも良いだろう。頃合いを見計らって内容的に歯ごたえのある作品も試してみたい。もし作品に興味を持ってもらえて、作品の世界観をより楽しんでもらえたら嬉しいな。自分の家だけにとどまらないコレクションのあり方をいろいろ考えるきっかけになっている。

「歌う人」と兼子裕代さん

兼子裕代展「Apperance」がとっても気になっていた。なかなか見る機会が得られなかったが、ようやく観ることができた。歌う姿はとても無防備なのに、皆んな逞しく誇らしげでもある。写真なので実際の歌声は聞こえないけど、確かにそこには歌が存在している。

まず作品を見て、瞬間的にハロルド作石の「BECK」を思い浮かべてしまった。アニメや映画ではなく、あくまで原作の漫画の方。音声を聴けない漫画おいて、時間的、動的な補足表現を捨てて、コユキの静止画だけで勝負した描写に痺れたものだ。音が出ない世界で音を感じるあの高揚感を「Apperance」に感じた。

ポートレートは一対一で撮る撮られるの関係性があってこそ成立すると聞いたことがある。被写体がカメラ目線かどうかは別として、撮られることを意識しているのがポートレートなのだと。

そういう意味では、この「Apperance」は、被写体は撮られることを認識しながらも、歌うことに意識が向いていて、カメラへの意識はそれほど強くない。兼子さんに歌を聴かせている感じではなくて、歌っている姿を兼子さんが撮っているという印象だ。意識の等価交換になっていないというか、兼子さんの撮る意識を、被写体が受け取って、歌で増幅しベクトルを変えて解放しているような、そんな共同作業のようにも受け取れる。

最初に「とっても気になっていた」と書いたけれど、観る前からそう思っていたのは、作品が「歌う人」だったからだ。それも玄人ではなく一般の人の歌う姿だったから、なおのこと気になっていた。

実を言うと(というほどでもないけど)、私は三度の飯より歌うことが好きだ。たぶん誰にも打ち明けたことはないし、周りの人たちも、私が歌好きという認識はないだろう。言うなれば隠れ歌好きといったところ。別に声楽を習ったこともないし、下手の横好きと言われればそれまで。カラオケは苦手でヒトカラも行かない。楽器はからっきしだから、弾ける人、吹ける人、叩ける人は尊敬する。とりわけ楽器を演奏しながら歌える人なんて、自分からすれば奇跡的な存在だ。プロとアマチュアなどは関係なく、そういう人たちに、もっと言えば音楽に対しては憧憬の念がある。

音楽の中で、唯一自分ひとりでできるのが歌うことだった。自分にとって歌はいつも身近にありながらも、とても私的な行為なので、公でお披露目することはまずない。それでいて、下手の横好きですませたくないので、技術的なことも表現力も日々向上させたいという思いもある。まったくもって何がしたいんだかわからないんだけど、とどのつまり歌うことが好きなのだ。

兼子さんの写した「歌う人」は、兼子さんに心を許し身を委ねているのが伝わってくる。その上で歌っている姿は、まさにその場に出現(Apperance)していて、得も言われぬ恍惚感に満ちている。隠れ歌好きな私は、どこにも出現したことなどなく、これからも積極的に出現するつもりもない。でも、兼子さんと被写体の人たちのような関係性が成し得たならば、ひと前で歌うことも悪くないだろうと思わせてくれる。

最後にもうひとつ。「Apperance」を観ていて思い出したのが、2019年に同ギャラリーで開催されたアンソフィー ・ギュエ「INNER SELF」。この作品同士の関連性も気になってきた。この直感を頼りにもうすこし時間をかけて考えてみたい。

APPEARANCE|兼子裕代(Hiroyo Kaneko)|POETIC SCAPE store

川田喜久治展 | 赤と黒 ─ Le Rouge et le Noir

私の「赤と黒」のシリーズはスタートもプロセスも以前発表した「ロス・カプリチョス」に似ている。取り組みはすこし違っているのだが、いつ、ファイナルバージョンとなるのかわからない。

川田喜久治展 赤と黒 ─ Le Rouge et le Noir パンフレットより

川田喜久治さんの途轍も無さが、この言葉に集約されている気がする。何十年にもわたって絶え間なく写真を撮り続け、鋭く思考して、ときには新作を発表し、ときには過去のシリーズを大胆にアップデートする。完結完成よりも、更新することを良しとする姿勢が、川田さんの写真家としての魅力を醸成し、作品の強度を高めている。

まぁ、平たく言うと、マジパねえ、ってことだ。

普段あんまりしないのだけど、芳名カードに、やたら思いの丈を綴ってしまった。最後に「大ファンです!」と書いちゃって、後から恥ずかしくなってしまった。なんでまた急にという感じなのだけど、以前、PGIでせっかくサシで話せる機会がありながら、面と向かって何も言い出せなかった苦い記憶がよみがえり、せめて言葉で感謝を伝えたいという衝動に駆られたからだ。

今度お話しする機会に恵まれたら、直接お礼を言いたいと思う。川田喜久治という偉大な写真家と同時代に居合すことができて、しかも圧倒的な新作も見ることができる。こんな幸せなことがあるだろうかと。

まあ、そんな感じの意味合いのことを二言三言、しどろもどろで、たどたどしく口にする程度だろうけども。

[写真集]山谷佑介『Doors』

写真集って普通の本に比べればかなり高価なものが多いから、他人に勧めるのが難しい。自分の中で、これ最高だな!って思っても、直接他人に勧めることはあまりしないし、する機会も少ない。

もちろん写真は、今まで巡り合ってきたものの中でも、ぶっちぎりで面白いものだから、写真集の面白さや、興味を持ちそうな時代やジャンルを勧めてみたり、この本屋に行けばいろいろ教えてくれるよって言える。東京なら、代々木八幡の「SO BOOKS」、代田橋の「flotsam books」、吉祥寺の「book obscura」とか、恵比寿の「POST」とか、もう間違いない感あるお店ね。

でも自分で「この写真集、めちゃいいから、ぜひ買ってみてよ!」っていうテンションで、特定のタイトルを勧めることはあまりないかも。好みってあるし、出せる金額も人それぞれだし。その辺は、自分が出会って、お財布と相談して、ある程度納得して買ってほしいから。

がしかし、山谷佑介さんの「Doors」。届きましたよ、クラウドファウンディングの限定版が。開封してめくったら、1ラウンド開始3秒でテンプルに一発いいのもらっちゃったの。井上尚弥的な衝撃。

これに関しては、他人に勧めたい衝動に駆られたんだよね、なぜだかわかんないけど。ねえねえ、これすごくいいから見てみてよ、で、よかったら買ってみてよ。で、しばらく手元に置いといてよ。で、たまに開いてみてよ。ま、だまされたと思ってさ、一万円出して買ってみてよ、って。胡散臭い儲け話みたいになっちゃうくらい手に取って見てほしい。

他にも新旧問わずたっくさん良い写真集あるし、もっと勧めやすいのだってあるし、むしろ「Doors」は万人に勧められる写真集ではないかもしれない。写真集好きですら好みがわかれそうな感じだし。

なんか、そういうの越えちゃってる気がするの、この「Doors」は。好みとかじゃなくてさ、これマストで見とけよって感じなわけ。だんだん、言葉使いが荒くなってきちゃってんだけど、勧めたい理由が理屈じゃないっていうか、これヤバいじゃん、最高じゃん、山谷さん知っている人も知らない人も、好きな人も嫌いな人も、もう黙ってこれ見てみなよって。

ちゃんと根拠を並べることはできるかもしれない。いろいろちゃんと話したくなることあるにはあるんだよ。一連のドラムパフォーマンスからの流れとか、装丁デザインとか印刷とか編集とか対談テキストとか。

何でこんなに言葉使いが荒いのは、「Doors」の凄まじさに興奮を隠せないからだけど、もう一つ理由があって、つまり悔しいんだよ。何が悔しいかってさ、クラウドファウンディングの限定版のエディションは181冊。そのうちの貴重な一冊を手することができて満足なんだけど、その後、通常版が発売されることになって、その通常版の表紙が異常にかっこいいのさ。やられた感がある。テンプルに一発もらって意識遠のいた後に、顎にきれいにアッパー入れられた感じ。後出しでこれかよ!って。ずるいじゃん、普通逆じゃん、めちゃくちゃ悩むじゃん。2冊買えっての?

あー、わかったよ、買わんでもないよ、でももう少し待ってね、お金貯めるからさ。

ササキエイコさんのコラージュ

中目黒のdessinでササキエイコさんの個展「Open the Window」がオンラインで開催された。実際に見ることは叶わなかったが、まさに「今この時」を表現した作品で、とても興味深く拝見した。

自粛生活が続いていた4月。停滞感や閉塞感が漂い先の見通しが立たない中、ササキさんが自主的に製作された作品で、もともと今回の個展は予定になかったとのこと。過去にも個展を開催していたdessinのスタッフの方が、この作品を偶然知る機会があり、発表の場を急遽設けることとなったそうだ。着想を得てからコラージュ作品に仕上げるまでに、わずか1ヶ月ということになる。

タイトルにもあるように「窓」をモチーフにした平面コラージュ作品で、サイズはA5縦くらい。ライトグレー地の真ん中に、窓枠を想起させる四角いの輪郭と、その枠内から覗く外の景色で構成されたイメージ。窓枠と景色の境目はやや曖昧で、全体的に穏やかで彩度が低めな色使いだ。

今の自粛生活で、換気のために窓を開け放つことが多くなり、次第に習慣となった。窓を開閉したり窓の外の景色を見たりする日常的な行為が、数ヶ月のうちに特別な意味を持つようになった。

窓から見える景色は以前と何ら変わらないのに、と思う一方で、こんな状況だからこそ、同じ窓の同じ景色がいつもと違って見えることもある。ポジティブともネガティブともつかない心の揺らぎが生じる。ササキさんの「Open the Window」は、今この時の心の揺らぎを拾い集めたような作品ではないだろうか。

サイトを見ながらしばらく検討する。サムネイルと短いテキスト、入ることができない展示風景を頼りに、ササキさんの作品を購入することにした。初めてコラージュ作品が、今の生活にどんな作用をもたらすのだろうか。

会期中、dessinはSNSで「入店不可」という表現を用いていた。休業中のオンライン展覧会なのでそれはそうなのだけど、「オンラインのみの開催」に「入店不可」と付記すると、この状況がより強調されるように思えた。

西山芳浩さんの角ぐい呑み

浅草橋にある「白日」という骨董や現代作品を扱うお店がある。と、さも行きつけのお店風に切り出したけど、実はまだ一度も行ったことがないお店で、Instagram のおすすめアカウントで見つけてフォローしているだけだ。

白日さんはウエブサイトすらなくて、発信源はInstagramだけ。あくまで手に取って見てもらえる実店舗を大切にしているのだろう。いつかお店に行きたいなと思うものの、COVID-19の影響で休店中。インスタの画像を見ながら楽しみは後に取っていた。

ある日、タイムラインを眺めていたら、Instagram上で作品販売が始まったのをみつけた。白日の「お弟子」さんことスタッフの山本さんが、バナナのたたき売りよろしくハリセンを携え、テンポよく作品を紹介する。気に入った商品はDMで注文を受け付けるというスタイルで、さながらインスタの実演販売だ。この動画がとても愛嬌たっぷりで面白い。すっかり山本さんのファンになってしまった(笑)

そんな和ませてもらえるインスタ実演販売で、西山芳浩さんのガラス作品が紹介されるや、食い入るように作品の画像に目を凝らした。中でも、一目惚れしてしまったのが、角ぐい呑みのショートサイズ。

歪な八角形をしていて、飲口も水平じゃない。極端に背が低く、底は分厚い。不細工といえば不細工なのだが、その不細工さ歪さが絶妙なバランスを生んでいる。表面は、金属細工の槌目のような、ゆらゆらと水面に小波がたったような模様をしていてる。その不揃いな模様が光を透かして乱反射する様がなんとも美しかった。もう即決。すぐにDMを送ってしまった。

届いて手に取って見ると、思ったよりもずしりと重く、小ぶりながら堂々たる存在感で、かなり気に入った。約25mlとワンショットより少ないサイズで自分の酒量にぴったりだ。これを機に、なかなか減らない小瓶の山崎を引っ張り出して、久しぶりにちびりちびりと飲んでみたくなった。

[写真集]鈴木敦子『Imitation Bijou』

たまたまサンエムカラーのブログで鈴木敦子さんの写真集『Imitation Bijou』を見てから、なんとなく気になっていた。しばらくたって、flotsam books のSNSで紹介されると、「あ、これあのブログのだ」と気づいてすぐさま注文した。

届いてから手にするなり、「なんて素敵な写真集!」と歓喜する。まだ本を開いてもいないのに、その掌におさまるサイズ感と美しい装丁に見惚れてしまった。

シンプルな赤い表紙に白文字のタイトル。文字は地の赤が透けているからか、うっすらとピンク色に見える。装丁はコデックス装とスイス装を組み合わせたような凝った作りで、とても開きやすい。淡い水色の見返しに飯沢耕太郎さんの序文が載っている。厚みのある硬質な表紙で、しっかりした手触りで、高級和菓子の化粧箱のような本になっている。

ページをめくると、日々の営みの中で、ハッとした瞬間、静かにときめいていた瞬間を、丁寧に丁寧に拾い集めたような写真が続いていた。けっして派手でもなく華やかでもないかもしれないけれど、他の誰かではなくて自分だけが気づいてあげられる瞬間。「ハレ」ではなく「ケ」の愛おしさが詰まった写真集だった。

今までにない幸福感をこの写真集で感じることができ、机にそっと置くだけでも、手に取るだけでも、静かな喜びに満たされる感覚になる。製本技術の使いどころのバランス感覚が優れていて、作品としての完成度の高さも素晴らしい。サンエムカラーのブログでの予感が的中し、注文してからの期待値を軽く超えてきた一冊だった。

マスミツケンタロウさんの銅版画 @OUTBOUND(吉祥寺)

吉祥寺のOUTBOUNDで、山梨県北杜市にアトリエを構えるHouse.のマスミツケンタロウさんの展覧会『House. Online Exhibition』を覗いてみた。といっても、COVID-19の影響を受けて店舗は休業中で、展覧会名の通りオンラインでの開催だった。

マスミツさんは、革や金属、石などを用いて実用品から造形物まで幅広い作品を作られている。今回初めて作品を拝見したが、画像だけでも十二分に作品の趣は伝わってきた。なおのこと実際に手に取ってみたくもあったがこればかりは仕方がない。

作品のサムネイルをつらつらと追っていく。革製品も気になるところだけど、特に惹かれたのが版画作品。石をモチーフにしていて、モノクロの楕円や多角形の石のイメージを刷った作品だった。画面で見ただけで、これは!と思い、躊躇なく注文してしまった。

注文から2日ほどで作品が届く。早速開梱して実物を見てみる。良い、想像以上に。まず、石のイメージが素晴らしい。そのザラザラとしたリアルな石肌は、風雨にさらされ、水流で削られた自然石と見紛うばかりの表情を湛えている。

次にエンボスの深さ。普通、版画は四角い版を使うことが多いと思うが、マスミツさんの版画は、版自体が刷りたい石の形そのものになっている。石型の版でプレスすることで石の輪郭にくっきりとしたエンボスが表れる。平面作品でありながら立体的な表情を楽しめる。

おそらく銅版画だ。でも今まで見てきた描写とは違って線描ではない。石肌の質感をどうやって出しているのかが気になった。OUTBOUNDのスタッフの方やマスミツさんに直接お話を伺えたら良かったが、そうもいかないので、メールで質問してみることにした。

早くも翌日に返信がくる。なんと、実際に銅版を石で叩いてつけたテクスチャーとのこと。リアルな石肌だと思ったけど、本当に石で叩いているとは驚いた。ドライポイントやメゾチントなどの直接技法の部類になると思うが、手で彫ったり削ったりするのと違い、意図しない無作為な模様を生み出せる。石をモチーフにした版画としては、大胆でありながらも理にかなった方法だ。

他にもマスミツさんの創作の姿勢や、石のシリーズへの思い入れなども知ることができた。スタッフの方にはとても丁寧にご回答いただけて感謝しかない。

もうこれは、ちゃんと額装をして飾りたくなってきた。達川清さんの「QUAU in Photo」のプリントと並べて飾ったら面白いかも。石というテーマや製作アプローチも通ずるものがある。久しぶりにプロに額装をお願いしてみようかな。

ポラロイドの写真集〈その5〉

William Egglston『Polaroid SX-70』(Steidl)

Steidlからでたウィリアム・エグルストンの「Polaroid SX-70」。けっこう前から出るぞ出るぞとほのめかされながらも、Steidlのサイトでは、ずう~っと「Not yet published」が続いていて、なかなかでなかったんだけど、ようやっとリリースされた。かつてエグルストン自らポラロイドを貼り付けて作った手製のアルバムを再現したものらしい。

まずシボが入った黒革張り風のツヤのある表紙がかっこいい。それに黒い厚紙の台紙に1ページ1枚ずつポラロイドを貼り付けたようにしていて、写っているものも、エグルストンの素直な反応が見て取れ、まさにプライベートなアルバムといった感じ。

印刷も手が込んでいて、黒い用紙に、ポラロイドのベースとなる白ベタを刷ってから、イメージ部分を刷り重ね、さらにポラの部分だけニス引きしているみたい。まさに黒台紙にポラを貼り付けた感じが品よく再現されている。

さらに黒い用紙を使っているのに、あえて小口を黒く染めていて、開くときにバリバリと音がする感じがまた良い。銀箔押しのタイトルや、見返しの銀色の紙、SX-70のイラスト図版など、細部にも手抜かりなく、期待を裏切らない仕上がりで、ポラロイド写真集好きとしては大満足の一冊。待った甲斐があったというもの。


森山大道『bye bye polaroid』(タカイシイギャラリー)

ポラロイドの生産打ち切り発表を機に、2008年にタカイシイギャラリーが企画した「bye bye polaroid」展に際して500部限定で販売された写真集。

薄いグレーの布張りの表紙に「bye-bye polaroid DAIDO MORIYAMA」と空押しされている。エグルストンと同じく、1ページ1カットずつのシンプルな構成で、定番のスクエアではなくて、少し横長比率のスペクトラフィルムを使用している。

国内では古本市場にまったくと言っていいくらい出てこない希少本で、行き渡った後は手放さない人が多いのか、海外に流れてしまって散逸してしまったのか、どこぞの古書店で意図的に寝かせているのかわからないが、とにかく見かけない。昨年たまたまタイミングよく出物があり運よく入手できた。

先日NHKプレミアムカフェで再放送された「その路地を右へ~森山大道・東京を撮る~」に、この写真展(写真集)に向けた撮影やプリントの確認作業と思しきシーンが流れていた。

野村浩 展 Merandi @POETIC SCAPE

この日は季節外れの寒波で、雨がみぞれに変わるほどの寒さだった。手を擦りながらポエティックスケープの自動ドアを抜けると、野村浩さんの油彩がほっこりと迎えてくれた。壁面の小さな作品たちが気になりつつも、まずは暖を取るべく、いつものアラジンに駆け寄る。じんわりと伝わってくる暖気が冷えた体を緩めてくれた。

かねてから野村さんの油彩画を心待ちにしていた。東京藝術大学で油彩を専攻し、自他ともに認める実力がありながら、作品として油彩を選んでこなかった。ある意味、野村浩の本領を発揮する個展となるわけだから、期待しないわけがない。

2014年に、集中豪雨で被害にあった古書店「SO BOOKS」の応援イベントがあり、その時に集まった作品の中に、野村さんの油彩があった。初見ながら、画家としての実力は、推して知るべしで、いつかまとまった作品を見てみたいなと密かに願っていた。

四肢の体温を取り戻した頃合いに、壁の作品を見て回る。どれも小さな作品で、サイズは2号前後だろうか(後日、野村さんご本人にF0サイズと教えていただきました)。額装なしでキャンバスのまま飾られている。モランディに倣った、箱や瓶のようなオプジェを並べた静物画で、色使いもまさに巨匠のそれだった。

一点一点、矯めつ眇めつ見ていると、否応なしにオブジェのひとつに描かれた「アレ」と目が合ってしまう。無感情な何を考えているかわからない、あの両目。ともかくかわいい。キョトンとこちらを見ているようでもあり、気取られまいと息を潜めているようでもある。

「気取られまいと息を潜める」という印象から、「擬態」に行き着く。オブジェのキャラ化という側面もありながらも、モランディの絵の一部となるべく、油彩化した目が貼り付いているという感覚にもなる。野村さんもこの「擬態」について言及していて、改めてハッとさせられた。

「擬態」する目に、こちらとしても黙ってはいられない。やり過ごそうとしてもそうはいかないぞとばかりにガン見してみたり、あえて気づかないフリをして空かしてみたりと、目との無言の対話が始まる。

モランディを思わせる静物画に、目が一対描き足されるだけで、モランディの色調や筆致を想いつつも、意味性や認識のズレが生じて、パロディとかオマージュとは明らかに異なる観賞体験が得られる。

野村浩さんの作品を口伝えするのは至難の技で、基本的に一人で観賞こそすれども、独りで抱え込めるものでもない。できることならば、実際に見て体感した者同士で、核になる部分を共有したいのだ。

そういう意味で、今回の作品集『Merandi』に寄せられた美術批評家の土屋誠一さんのテキストは、野村さんの作品世界をものの見事に指摘している。もともと間口を広く奥が深い野村作品ではあるけれど、土屋さんの文章はさらなる奥行きを与えてくれ、楽しみを膨らませてくれている。

野村さんの作品は見て終わりじゃなくて、見てからが始まり、いや、「EYES」シリーズは、自分が作品に見られているという感覚を得てから始まるのだ。

会期半ばの訪廊。すでに、かなりの点数が売約済みになっていたが、ガチで悩み抜いた末に、お気に入りの一枚を購入した。初めての油彩画作品が野村さんの作品であったことに、すこし誇らしい気分にもなったりした。

Old Tjikko – Nicolai Howalt

最近の中で特にお気に入りなのがこれ。デンマーク人のヴィジュアルアーティスト、ニコライ・ホワルトの『Old Tjikko』。スウェーデンで発見された世界最古の木と謳われている「Old Tjikko」を題材にしたもので、その樹齢なんと、約9600年とのこと!

その古木を、ホワイトは一枚のネガにおさめ、97種類もの印画紙に焼き付け、ひとつの作品集にまとめている。ほぼすべてが期限切れの印画紙で、1930年代の印画紙も含まれている。唯一期限前なのが、最初の0番として載っている2020年期限のRollei Vintage 111で、2019年にプリントされている。

すべてのイメージは同じ一枚のネガで焼いたものではあるものの、本当に同じネガなのかと疑うほどに一枚一枚が表情豊かで、めくってもめくっても見飽きない。世界最古の木を、年月が経過し期限切れになった印画紙に定着するという行為にも納得感がある。

世界最古の木「Old Tjikko」。その古木を収めた一枚のネガ。そのネガをポジ像に定着した期限切れの印画紙。3つの極限の素材を掛け合わせ、シンプルなフォーマットで壮大な叙事詩を吟じているようだ。あらゆる「時間」を思い巡らせつつ、夜な夜なページをめくるのが楽しくて仕方がない。

何年か前まで巷をにぎわせた「フィルムかデジタルか論争」は落ち着いた感もあり、いまでは意味をなさなくなってきているし、できるうちは好きな方か、その両方やればいい。

ストレートフォトもファウンドフォトも、コラージュも、暗室ワークも、デジタル加工も、古典技法も、インクジェットも、何であろうが、目指す作品の完成度を高めるための手段ならば、どれを選んでも構わないと思うし、もちろん好き嫌いで選んでも別にいいんじゃないだろうか。

写真というメディウムが現代アートへの傾倒していく、もしくは吸収されていくことことが論点になることもあるけれど、ホワイトは、そういう流れを軽くいなしている。「その論点、自分には関係ないし」と言い放ち、「その作品に相応しいものを使うだけじゃない?」と投げかけているかのようで、愉快でならない。

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

大晦日の朝にアレ?ってなって、ん、喉痛い? ってなって、あれよあれよという間に発熱して、ふらついてきたので、とりあえず横になろって布団に潜って、気がついたら年が明けてて、なんかよくわかんない明け方でした。まあ、元日の夕方には少し落ち着いてきて、動けるようになったので、まあ一安心です。

昨年は時間的な制約の中で、見られる限りの写真を見られたので、いくらか充実した写真生活でした。その代わりに、めっきり撮ることが少なくなってしまいましたが、暗室が恋しいのは相変わらずで、古いネガでもいいから、今年は焼くこともできたらなと思っています。ほったらかしのシノゴなんかも頭の片隅にあります。

ここ数年いろいろのっぴきならない事情もあり、 以前のように毎週末にどこかに見に行くことはできなくなりました。どうしても写真展はその場所に行く必要があり、 時間のやりくりが難しい状況だと、厳選しなくてはなりません。ひとつの手段として行くギャラリーをはじめから絞ってしまうこともありました。これは苦渋の決断でした。今自分が何を見たいのかを見定めて、ピンポイントで観賞する必要がありました。

ネガティブな発想から場所を絞ることになりましたが、ある再発見がありました。ひとつのギャラリーの企画展を一年(もしくはそれ以上)を通して追っていく面白さです。 これは常々感じていたことですが、 昨年はよりリアルに感じました。ある意味、オーナー目線を追体験することでもあります。

とりわけコマーシャルギャラリーはシビアな選択が付きまといます。自分がやりたいことと、商売として成立するかのせめぎ合いです。そんなシビアな状況下で、オーナーがどんな出会いや意図で作家を選び、どんな戦略で作品を選んで価格を決め、最適な額装して、どのように壁に掛けて空間を作り上げるか。他にも開催時期、会期設定、客層の想定、トークショーなどのイベントの有無などなど、膨大な業務をこなしながら、ひとつの展覧会を作り上げていきます。

一年以上のスパンで同じギャラリーの企画展を複数回観賞して、総体としてギャラリーの運営姿勢を皮膚感覚で知り、できれば五臓六腑に染み渡らせることで、そのギャラリーの面白さが倍増していきます。言い換えれば、場所に惚れるということです。

これは作品を実際に買うことで発生る感覚だと言えます。ただ観賞するだけでは凡そそんな気持ちになれません。かといってプリントを買うことは誰にも勧められません。本人が買いたいと思ったらそうすればよいだけの話です。こればかりは誰かに勧められてする行為ではないからです。

確かな矜持を持って運営しているギャラリーは、圧倒的な作品強度を維持します。ソロバンを弾くだけの運営ではなく、シビアな選択を迫られた時に、あえて厳しい道を選択ができるかどうかです。一筋縄ではいかない選択だと思います。

私がどのギャラリーに惚れこんでいるかは、今までの私の投稿をご覧いただければお分かりかと思います。まだ行ったことのないギャラリーは無数にありますし、足が遠のいたギャラリーもありますので、ごく狭い範囲の経験で言っているにすぎません。大きなことは言えませんが、これほど矜持を持ったギャラリーは数えるほどではないかと推察します。

資本や経営がしっかりしていても、プライドがない場所も少なからず知っています。逆にしっかりとした考えをもって運営していても、採算が厳しい場所もあるはずです。どちらかというと後者が多いのではないでしょうか。あと、どちらもバランスが取れているけれど、自分の求める強度に達していないと自ずと足が遠のきます。これは仕方のないことです。

だからこそ、縁あって自分が惚れ込んだギャラリーくらいは、足しげく通って応援していきたいと思うのです。しっかりと展覧会ごとに観賞しに行って、たまにですがお金も落としていく。そういう向きあい方もあるのだと実感した一年でした。

今年も写真と狭くても深い付き合い方ができればと考えています。

本年もよろしくお願いいたします。

渡部敏哉 Somewhere not Here @POETIC SCAPE(2019)

この多幸感は何だろう?

渡部敏哉さんの写真は、黙々と見ていられる。しばらくすると、ぽっと言葉が浮かんでくる。でも浮かんだ言葉は泡のように消えて、また見ることに意識がいく。またふと、何かの拍子に別の言葉が浮かんではまた消えていく。じーっと見るための、その時必要な言葉、もしくは気づきのようなもの。

前回は「ここではないどこか」の入り口、もしくはこちら側からあちら側を見ているような距離感のある写真だった。今回はぐっと距離感が近くなり、「ここではないどこか」に入り込んでいる。初めて足を踏み入れた世界に畏れながらも喜びを持って探索しているような写真になっていた。

「ここではないどこか」を見つめていると、見る人の記憶をかすめたり、的を射たり、そっと触れてきたりする。この感触が絶妙であり、本来の意味である「微妙」な美しさではないかと思える。

見るほどにうっとりとして、いつのまにか多幸感に包まれる。渡部敏哉さんの目指す写真のあり方そのものに、心惹かれてしまう。平安時代の美観である「物の哀れ」に通ずる感覚なのではないだろうか。

さらに額装も素晴らしい。微に入り細に渡って気遣いのある仕上げで、作品の世界観を一層高めている。空間、額装、プリントが渾然一体となった個展だった。

小平 雅尋「顕れ」 -Emergence-@空蓮房(長慶院)

初めて蔵前にある空蓮房を拝観しました。長応院というお寺の境内にある瞑想ギャラリーです。

予約時間の10分前に着き、案内されるまま潜り戸をぬけた途端に、ぴんと空気が張り詰めていました。房内は安易には形容し難く、束の間五感を奪われたような感覚になりました。特に視覚が慣れるのに暫しの時間を要しました。

ゆっくりと房内を歩きながら1点ずつ写真を見つめます。時折めまいがしそうになります。心を落ち着けながら、時間をかけて写真を見ます。

写真以外に存在するのは円座のみです。自ずと坐して写真と向き合うことになります。およそ1時間、己を省みて、己を正す時間となりました。

会期中の拝観は、水・木・金曜日、10:00から16:00まで。1人ずつ1時間ごとの完全予約制です。この敷居の高さが示すものを慮りながら、心して拝観されることをお勧めします。

A-CHAN「Y-31」─ 懐かしい景色

中2の2学期から8年間、茨城の谷井田に住んでいた。名古屋から引っ越してきたら、転校先の校則に愕然とした。男子は有無を言わさず全員坊主だった。半ベソかきながらその日のうちに床屋で五分刈りになった。偏差値というのがあるのを知る。中3の夏に、生まれて初めて場所と時間を決めたケンカをした。運動神経抜群のちょっとヤンチャな同級生だった。こっちはやり方もわからずほぼ一方的に殴られた。2週間ぐらい顔がごわついた。

globeがミリオンを連発していた頃、外環の谷田部インター近くにあったガソリンスタンドでバイトに明け暮れた。朝、スタンドのイートインでインスタントコーヒーを飲んで、初めてブラックが美味いと思った。その日を境に紅茶派からコーヒー派に変わった。隠居後の暇つぶしにバイトをしてた金持ちのジイさんは、毎週テレ東のファッション通信を欠かさず見ていた。遅番あがりに、社員の兄貴とダイハツのミラターボに乗り込み、地元で人気の味噌ラーメン屋で定番をすすった。

6号線沿いの日清の工場、谷中辺りも馴染みの風景だ。釣りはやらなかったが、小貝川は恰好の遊び場だった。年に一回、取手の花火大会を河川敷で見るのがささやかな家族行事だった。フィナーレのナイアガラはいつも煙が立ち込めてちっとも見えなかった。

A-CHANの見てきた景色は、自分にも懐かしい景色だった。

[写真集]尾仲浩二『Faraway Boat』Kaido Books刊

新作の『Faraway Boat』が届く。表紙を見てすぐにもう傑作の予感が漂っている。最近の写真集ではめずらしいクリアPP加工の表紙。表紙の下から3分の2に雨に滲む傘さす女性の写真が配置され、上部の白地に銀箔押しで縦組みの題字が控えめに浮かんでいる。

パラっとめくるとインクの匂いが立ち昇り反射的に鼻腔が広がる。1枚目の写真は表紙にも使われている傘をさす女性。表紙の写真はクリアPPでウエットな質感だったのに対して、本紙は抑えめでマットな印刷。同じ写真でも随分と印象が変わる。

本紙の写真はインクがしっかり乗っていて中間調がすこぶる良い。低コントラストでありながらカリッと芯のある尾仲さんのモノクロだ。

ページをめくるほどに、写真の並びが良さが際立つ。一枚一枚が、並びが、流れが的を射ている。淀みなく、でも通り過ぎず、確かな見応えがある。滑らかに引っ掛かりながら見ることができる。

尾仲さんはこれまで30冊もの写真集を世に出してきた。凄まじい冊数だ。すべてを見たことはないから、はっきりとしたことは言えないけど、この『Faraway Boat』は尾仲さんのモノクロの写真集の中で、傑作中の傑作になり得ると思う。

例えば、この写真集は、印刷が良いんだよね、構成が良いんだよね、この写真が強いよね、並びが良いよね、装丁が良いよね、とか、1つや2つの要素が目立つことはあっても、すべての要素が強くて、かつバランスが良いものはなかなか出会えない。新作『Faraway Boat』はすべての要素がバランス良くまとめあげられている。

ここまでで、まだ第一印象に過ぎない。これから時間をかけて、また違った印象になるかもしれないけど、それはそれで楽しみでもある。来年は各所で展示も予定されているようだし、楽しみが増える一方だ。

西野壮平 水のかたち @rin art association(高崎市)

国内では4年ぶりとなる西野壮平さんの個展「水のかたち」を見に行ってきた。最近は海外での活動が多くて、なかなか見る機会がなかったのでうれしい。初めての高崎。かつて住んでいた茨城を思わせる北関東の空気が懐かしい。

今回は、2017年に1ヶ月間イタリアのポー川沿いを歩いた「lL Po」シリーズを中心に200点もの作品が展示されていた。

なんと言っても、目玉はDMにもなっているあの8枚組のポー川のコラージュ。ポー川の源流から河口までを、1ヶ月かけてフィールドワークして撮りためた記録が、8枚のプリントに凝縮され、圧倒的な情報量を持って再構築されていた。

この巨大なべた焼きのコラージュ作品は、いわゆる多視点要素と、衛星写真のズームイン・ズームアウトのような要素がある。ポー川全体のマクロ視点と、ひとコマもしくは複数コマのミクロ視点が一度に体験できる。マクロからミクロ、ミクロからマクロを繰り返して無限ループになる。

川周辺の生態系や産業、さまざまな人の営みが見てとれ、細部を見ては引いて見て、引いて見ては細部を見てと、見ても見ても見足りない。このプリントを前にして、誰かとテーブルを囲めたら、何時間でもしゃべっていられそうだった。

コラージュだけでなく、ストレートフォトも数多く展示されていた。ポー川の巨大コラージュから還元されたようなプリントで、さらなるミクロ視点を楽しめる。額装されていない大小さまざまなプリントが、平面の天地左右を巧みに使って空間全体で物語が形成されている。

見ていて思い出したのが、小学校の時の社会科見学。グループを組んで、町歩きをしながら、商店街や工場なんかで話を聴いて、絵や写真を切り貼りして地図を作るってのがあった。その感覚に近いなって思った。

西野さんの写真は、コラージュという加工手段を使いながらも、写真が写真である魅力に溢れている。高崎まで行ってよかった。

深瀬昌久「家族」

トモ・コスガさんの話の中で、深瀬昌久は一貫して「遊戯」としての写真をやり続けた人だったのではないかと言っていた。確かに「遊び」を軸に見てみると、深瀬昌久像がくっきりしてくる。悲喜交交、一切合切を写真で遊び倒す。きわめて筋の良くて、ひどくタチの悪い遊び。

ディーゼルで「救いようのないエゴイスト」を見てからというもの、あまりに衝撃的すぎて、無性に見なきゃ見なきゃと強迫観念のような感情が湧き立っていた。でも、少し肩の力を抜いて、見ている自分も深瀬昌久の写真で遊べるようになったらもっともっと面白くなるだろうなって思えた日だった。

山上新平 展|The Disintegration Loops @POETIC SCAPE

8月の末に山上新平さんの個展が告知された。DMに使われているメインヴィジュアルを見た瞬間に既視感を覚えた。名前にも見覚えがあった。山上…山上、…新平、Shimpei Yamagami…、あ、そうだ…。

何年か前の「IMA」に掲載されていた人だ。改めて調べてみると「EQUAL」というモノクロ作品が新人枠に載っていた。そうそう、これだ、この人。

たった一枚のモノクロ写真を見た瞬間に、ドッと心拍数が上がるような強烈な印象を受けたのを思い出した。他にもモノクロで森林を撮る人はいるし、何人かイメージが重なる写真家も思い浮かんだ。でも、他とは比べようも無いくらい彼の写真は異質で、眼に喰い込んでくるような圧力があった。

雑誌を閉じて間髪入れず山上さんのサイトを検索した。貪るようにポートフォリオを見た。写真集は? …まだなさそうだ。展示は? …特に載ってない。情報が少ない、というかほぼ存在してない。手詰まり…。それ以上追うことができずに、山上さんの写真を見る機会はなく、いつの間にか、頭の片隅に追いやられていた。

あれから何年かして、ポエティック・スケープの告知をきっかけに記憶が雪崩れ込んできた。うろ覚えとか、おぼろげにとか、そう言えばとか、なんとなくとか、曖昧なものではなくて、はっきりと鮮明な像が呼び覚まされた。

例えが変かもしれないが、『Death Note』の主人公―夜神月がデスノートの所有権をいったん放棄してノートに関する記憶を失った後、再びノートを手にした瞬間に、失った記憶が蘇るシーンがある。あの描写に近い感覚だった。

とにかくプリントを早く見たくて、初日に駆けつけた。まず驚いたのは想像よりもかなりサイズが小さかったこと。SNSの画像やDMから受けた印象は大四ツくらいの大きさはあるか、もっと大きめかなと思っていた。本当になんの疑いもなく。ところが、外寸はA4サイズでイメージサイズはハガキ大ほどと、たっぷりと余白がとられている。サイズ感を勘違いさせる写真というのは初めての経験かもしれない。

小さな写真に近寄って一枚ずつ見ていく。写っているのは森林で、特別なものではない。ただ、対象物は木ではないような感じがする。その場所をただ見ている、その場所にただ佇んでいる、という感じ。ディテールにも目をやる。分離の良い像で枝葉がよくわかる。高解像度というよりも、高密度な写真。モノクロの「EQUAL」ほど圧力は感じないが、解放というほど抜け出ていない。解放の一歩手前。

ギャラリーを一周して気になったのは、暗部の青緑色。ほぼすべての写真に共通する暗部に浮かび上がる不思議な色。微妙な青とも緑ともつかない色彩のせいで、シャドウに目が引きつけられる。山上さん自身は自覚していないようだが、この青緑色によって、まず闇の部分に目が止まり、それから光に目が移る。

一枚の写真の滞空時間が長い上に、いつの間にか何周もしていて、際限なく空間に居続けたくなる。だからと言って、居心地が良いのとは違う。どちらかというと、居心地悪くなる写真。胸がざわつく。だけど、これは何なんだろうと思わせる。ずっと見ていたくなる。一枚一枚に強さがあり、その集合体の展示空間も増幅されて強度が増す。

山上さんのノートがまた興味深い。長年書きためている日記のようなノートがある。ここ1年間に綴った一冊がギャラリーに置いてあり、閲覧することができる。文字そのものの造形が美しくて見入ってしまう。神経質ともとれる細い線。斜画のストロークが長い独特の筆跡。混在する縦書きと横書き。どれもが息苦しくなるほど強くて、いかに山上さんが写真と向き合って、考え続けてきたかが伺い知れるものだった。

一週間後の幅允孝とのトークイベントも聴きごたえがあった。山上さんからの一通の手紙から始まった関係は、まるで親子のようでもあった。幅さんの耳に染み込むあったかい声と、山上さんのマイク越しに増幅された繊細な小声を一言一句聴き逃すまいと固唾をのんで耳を傾けた。至福の時間だった。

山上さんは、写真と言葉の強さが拮抗していて併存できている。強度・濃度・密度・純度がどれをとっても高い写真家なのではないだろうか。会期終了前にもう一度、あの小さな写真を見に行きたくなった。

田中大輔 写真展「ひとりの子どもに」 @金柑画廊

初めての金柑画廊は、コンパクトながらとても居心地の良いギャラリーだった。どの駅からもそこそこの距離があるけど、そんな距離感がむしろいいのかも。

マキイマサルファインアーツの3人のグループ展の時に、田中くんは「子ども」の写真に立ち返って、再び向き合いはじめていると言っていた。ゆっくりだけど、先に進んではいるなと思った。

今展では「子ども」以外のイメージも多く加わっている。3人展時にもその傾向があって、限られたスペースながら、見られることを意識した構成になっていた。でもそれは、小さくまとまるとか、角が取れるとかじゃなくて、むしろ、ずぅーんと深くなっている。

田中くんの写真を初めて見た時の違和感がちゃんと残ってくれてる。彼の写真のぎこちなさ、拙さ、抜けの悪さ、不確かさは、ここまでくると強さの支えになっている。

正面を向いた「子ども」の写真は、いわゆるポートレートとかスナップとも違う印象を持つ。彼が声をかけて撮っているのはわかるけれど、関係性が噛み合っていない。まるでハーフミラー越しに対面しているような写真に見える。刑事ドラマの取調室にあるようなアレだ。暗い側から明るい側は見えるが、反対側からは見えない。はたして、どちらが見えていて、どちらが見えていないのか。そんなことを想像してしまう。

それと、進捗が気になっていた写真集。クリップ留めされたマケットが置いてあったので、手に取ってパラパラめくってみる。ほぼ写真のセレクトと順番は決まっていて、ページネーションも予想以上に完成に近づいていた。本当に亀の歩みだけれど、確実に進んでる。期待したい。