野村浩さんの個展、第二部を観る。

第二部のOcellusの初日。夕方に雨が上がり少し汗ばむくらいの梅雨の晴れ間がのぞいた。今日は仕事をいつもより早めに切り上げてポエティック・スケープへ。第二部は特大サイズから極小サイズまで号数違いの作品が壁面を巧みに使って構成されていた。ギャラリーの天井に届かんほどの一番大きいP100号の大作は見応え充分。ギャラリー内では美術館みたいに距離が取れない分、作品の前に立つと視界いっぱいに絵の世界が広がる。

一点ずつまじまじと観ると頭の中で「擬態」について考え始める。眼がさまざまなモチーフに擬態していて…眼が絵自体に擬態していて…擬態が擬態して擬態するみたいに、どんどん思考が錯綜して混乱してくる。うん、楽しい。ある意味、作品は至れり尽くせりなのに、種明かしをする訳ではない。実はこうしてるんですと打ち明けられても、別にそれは答えではなくて、あくまできっかけに過ぎない。作品を理解することが目的じゃなくて、作品を前にして延々と考え続けることが当面の目標にしておく。観ながら考えていくうちに知らぬ間にズブズブと作品世界にはまり込んでいく。絵画を通して観て考えてを繰り返す。とても新鮮な感覚。

絵画に興味がないわけではないけれど、積極的に見るかと言えばそうでもない。美術館で見ることはあるものの、あの絵が見たい!というのは正直少なかった。結果的にとても楽しめたものをひとつ挙げるとすれば、東京ステーションギャラリーで2016年に開催された『ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏』だ。モランディの油彩や版画を観ながらわくわくが止まらなくなったのを憶えている。あの時ほど能動的に絵画を楽しく観賞したことはなかったかもしれない。

奇しくもモランディ繋がりで、昨年の『Merandi』で絵画への興味が増幅して、今年の『101 EYES’ GLASSES Paintings』と『Ocellus』でさらに追い討ちをかけてもらえた。絵画をこんなに興味深く観ることができるのも野村さんのおかげ。興味が少しずつズレて広がっていく感じがとても心地よい。

今思うと自分の興味の移り変わりは、野村さんの作品と同心円上にある気がしなくもない。写真を始めてから銀塩に出会って、撮る・焼く・観るを続けるうちに、他の写真技法に興味が湧いていった。後か先かははっきり覚えていないけど、プラチナパラジウムプリントに興味を持ったタイミングで、吉祥寺のA-thingsで『Slash/Ghost』が開催された。さらにサイアノタイプに興味が出た頃合いに『Invisible Ink』が開催された。版画然り、油彩然りだ。

野村さんは表現方法が変わっていっても、表現し続けたいことは一貫していて、選ばれた技法には必然性がある。表現方法の変遷を含めて含意を楽しめるし、作品を前にしてあれこれ考え続けたくなる。要するに、野村浩は極めて推し甲斐があるマルチメディアな美術家なのだ。

[写真集]石川竜一 いのちのうちがわ

今まで石川竜一を積極的に見てこなかった。嫌っているわけでも興味がないわけでもないのだけど、写真展も写真集もあまり見てこなかった。記憶にあるのは2014年の「okinawa portraits 2010-2012」で、これを見に行ったというよりは、他の展示を見ていた流れでPlaceMに寄っただけだった。彼の強い撮影スタイルに凄みを感じながらも、インパクトが強すぎて思考停止になる感覚があり馴染めずにいた。

今回の原宿の写真展も見逃した。会期終了間際になって写真展があったことを知り、少し興味を持っていたけれど、結局見に行かなかった。それでも「いのちのうちがわ」というタイトルと、SNSにアップロードされたいくつかの写真が頭から離れなくなり、ずっと引きずっていた。ひょっとしてけっこう大切な写真展を見逃してしまったかもしれないと思った。

後日、赤々舎から同名の写真集が出るのを知ってWEBサイトを見てみた。今までの石川竜一とはスタイルが変わっているようだった。といっても彼のスタイルを語れるほど作品を見てきたわけではないので大したことは言えないけれど、どういう経緯で今回の写真になったのか知りたくなった。写真集を見てみたい、とにかく手に取ってみたい、という衝動に駆られた。

ポエティックスケープで予約注文してから3週間、ようやく写真集が自宅に届いた。すぐさま開梱してどっかと写真集を机に乗せてみる。とにかく大きくて重たい。判型はレーザーディスクのジャケットくらいあり、厚みも5cm近くある。分厚いクラフトボール紙の表紙に本紙の束が挟まれてゴムバンドで閉じられている。冊子ではなくポートフォリオ形式で、二つ折りのシートが重ねられていた。スクラム製本するなら二つ折りの折り目をノドにして束ねる作りになるはずだが、二つ折りのシートをそのままラザニアのように重ねてあるだけだった。

装丁と重さに驚いてなかなか本題に入れかかったが、ようやく中身を見てみることに。自動車のタイミングベルトみたいなゴツいゴムバンドを外して表紙のボール紙を除く。タイトルが印刷されたシートをめくり、写真を見ていく。二つ折りのシートを開くと見開きの右側に写真があった。順にめくっていく。

まずその凄まじい解像度と印刷の美しさに気圧される。言い方が変かもしれないが、肉眼を超えた解像度と言えばいいんだろうか。異常な立体感があり、写るものの生々しさを通り越してしまい、逆に冷静に見ていられるくらいだ。

先にも言ったけど、石川竜一を語れるほど彼の写真を見ていない。だから、ここに辿り着いた経緯も知らないし心境もわからない。でもこれは紛れもなくポートレートだと思った。石川竜一はポートレートを撮っていた。「いのちのうちがわ」というタイトルが表す通りだ。

生を知るために表層では飽き足らず、内側のそのまた内側を見ようとする貪欲な姿勢を感じた。目に見える世界の範囲で、かつポートレートととして成立するギリギリのライン。これが組織や細胞、分子までいくと、おそらくポートレートではなくなってしまう。あくまで肉眼で捉えられ、石川竜一が扱えるカメラで写せる範囲。目に見えない側の「生」ではなくて、目に見える側の「生」の極みだ。

だからこそ、これほどの印刷のクオリティが必要だった。過剰なまでの解像度が求められたのではと思う。メタファー任せにせずに、現物で生を訴えるためには、現物を有り有りと見せつけるしかない。極限までの現物感を示したかったのではと想像する。

きっと私は今後も石川竜一を追いかけることはしないかもしれないが、少なくともこの「いのちのうちがわ」は、手元に置いておいて、見るたびに圧倒され続けるんだと思う。

華雪さんの書展を観る

流浪堂で華雪さんの書展を拝見した。題は「みえないものたち」。一文字書の「心」を中心に「異」や「气」を集め展示してあった。小作品とは思えない力強さがあり、自然と目の前の一文字に凝集していく。ともすると意識をもっていかれそうになる。「心」は何通りもあり、同じ「心」でも筆致によって有り様が全く変わってくる。

最近、どうしようも無く心が乱れることがあった。他人も責めて、自分も責めてしまっていた。感情が掻き乱されて収拾がつかなくなった。しばしば体調も悪くした。仔細は省くけど、ここ数日いろいろな支えがあり、今は立ち直って心の乱れも治まってきた。

心は身体と密接に繋がっていて相互に作用する。体調が崩れれば心も崩れ、心が弱れば身体も弱る。心躍れば疲れも飛び、心休まれば身体も休まる。心はとても不安定でいろいろな物事に左右される。些細なことで、すぐにさざなみが立って、波を打ち、渦を巻いてしまう。

華雪さんの書を見ながらしばらく考えてみた。そもそも心は不安定なんだろうか? 華雪さんの「心」は静かに澄み渡るようではないし、かといって荒々しくもない。でも穏やかとも言えない。揺れ動きながらいかようにも形を変えていて、常に動的なのではないか。心は常に形を変え動いているもの。そう考えるだけでも受け止め方が変わってくる。

久しぶりに華雪さんの囚われのない書にふれて、なんだか心の弾力が回復した気がする。今の自分にとってとても有難いひと時だった。

[写真集]UNDERCOVER – Onnis Luque

写真家であり建築家でもあるオニス・ルケの写真集「Undercover」。今年の1月に独立系の写真集出版社The Velvet Cell(以降TVC)から予約販売されていたのをみつけて、プリント付きの特装版を予約していた。ちなみにデザイン編集は、写真集としては空前のヒットとなっている「Carpoolers」でおなじみのアレハンドロ・カタジーナも参加しているのも注目。

先日無事に届いたので開封してみると、思っていたよりしっかりした造本で驚いた。もう少しラフな冊子だと思っていたからうれしい誤算。判型もA4より一回り大きい22x33cmで存在感がある。そもそも買う時にサイトの情報を確認してなかっただけなんだけど。判型が大きいのと用紙の斤量も厚めで、本の厚み以上にずしっと重たい。しばらくして気づいたけど、奥付に用紙の種類と斤量まで記載があった。なんか親切。

海外の写真集では珍しくダストカバー付き。厚手のトレーシングペーパー製で、この写真集のモチーフになっている防音シートの写真が印刷されていてる。防音シートとは建設中もしくは解体中の建物を覆って現場の騒音を軽減するための幕のことだ。その防音シートが印刷されたカバー越しに、白地の表紙に印刷された「UNDERCOVER Onnis Luque」が透けて見える。シート越しに見える建物をイメージした仕掛けで、カバーも含めて作品の世界観を表現している。

中を見てみる。途中寄稿文を挟み、ひたすら防音シートで覆われた建物のモノクロ写真が続く。最初は寄りの写真で始まり、中盤からは建物全体が見える引きの写真が多くなる。1ページにひとつの建物と、見開き2ページでひとつの建物が混ざり合いながら多少のリズム感はありつつも、坦々と建物の写真が続いていく。

私はこの防音シートに覆われた建物が好きで、スマホでもつい撮ってしまう癖がある。だからTVCで見つけた時に、こういう写真集を待ってましたとばかりにジャケ買いをした。だから、サイトのテキストをろくに読んでいなくて、なぜオニス・ルケ氏がこれらの建物を撮っているのかを理解していなかった。

写真集を一読した後、サイトのテキストを改めて読んでみた。私はずいぶんと思い違いをしていたようだ。それでもジャケ買いがきっかけでオニス・ルケ氏がなぜ幕に覆われた建物を写真集にしたのかを知ることができた。きっかけは何でも良い。そこから何を知って何を考えるかが大事ということ。

さて、自分の解釈で感想を述べてもよかったのですが、やはりTVCとオニス・ルケ氏のテキストを読んでもらう方が良いと思い引用することにしました。DeepLで自動翻訳して「ですます調」に統一。単語、文章には手を加えていません。英語原文ままでないことはご了承ください。

2017年9月19日、メキシコシティ近郊でマグニチュード7.1の地震が発生しました。首都の多くの建物が破壊され、現在までに少なくとも200人の死亡者が報告されています。この地震は、1985年に発生したマグニチュード8.1のメキシコシティ地震からちょうど32年目の年に発生した。 ジャーナリストの調査によると、被害を受けた建物の多くが不適切な基準で建てられていたことが判明しました。国と不動産会社との間の汚職が、多くの不必要な死をもたらしたことが判明したのです。写真家であり建築家でもあるオニス・ルケは、これらの出来事を作品の中で取り上げたいと考えました。両方の地震を経験した彼は、これらの悲劇が生み出す不確実性について、視覚的なメタファーを作りたいと考えました。

「あの日、多くの人が亡くなりました。このことについて何か言いたいことがあったのですが、感情的に圧倒されてしまいました。そこで私は、黒く覆われた建物を無意識のうちに弔いのサインとして使えるのではないかと考えました。それらの多くは、地震によって損傷を受けたものであり、他方では怪しい契約によって開発された新しい建物でした。『Undercover』では、メキシコシティの組織的な腐敗という問題に光を当てようとしています」 – オニス・ルケ

(The Velvet Cellのサイト内のテキストをDeepLにて自動翻訳)

野村浩さんの個展、第一部を観る。

待ち侘びた野村浩さんの個展が始まった。まずは第一部「101 EYES’ GLASSES Paintings」を観に行ってきました。目玉のあるショットグラスが描かれたペインティング作品101点。ギャラリーに入ってすぐ、こっちが観に来たはずなんだけど、案の定めっちゃこっち見られてる気がするし。多勢に無勢で敵いっこない。でも、これこれこれなのよ。見る見られるの定位がひっくり返ったり崩れたりする感覚。これが楽しいわけ。野村浩の世界へようこそって感じ。個展に寄せたテキストに「絵の飼育」と表現されていて、確かにそうでしょう、そうでしょうとも。すくすく育ってますとも。何のこっちゃわからない方は、ぜひ足を運んで確認してください。

今回の作品は水平に横一文字で飾られていて、ギャラリーをぐるっと一周する構成になっている。上下左右に散らしたり壁一面を埋めたりする遊びのある構成ではない。しかも、いつもなら床面からの一定の高さを保って掛けらるのに、床面からの距離はお構いなしに絶対水平で掛けられている。ポエティックスケープは中央の細い廊下から一段小上がりになっている。いつもはその小上がりから作品も一段高く掛けられることが多い。その方が観賞者の目線が一定になり見やすいから。でも今回は絶対水平。観賞者よりも作品を優先したというか、優遇したというか、あまりない試み。

一点一点真剣に観る。多分皆さんが思っている以上に真剣に。本気と書いてマジと読むように、真剣と書いてガチと読むんです(?) 観れば観るほど、居れば居るほど、語れば語るほどに、深い深い底無しの沼へ引き摺り込まれる。もう楽し過ぎるでしょ。ギャラリーでは努めて穏やかにそして和やかに観ていましたけどね、心の中ではガッツポーズ決めながら、くるくる小躍りしてはしゃぎ回ってましたよ、ほんとに。下手くそな昇龍拳状態ですよ。

で、奥のスペースに入ったら、リアルなショットグラスが101個、整然と並んでるのを見てノックアウト。これは実際に行って見て聞いて語りあって見るべしです。このショットグラスについてはそんなに書かないでおきます。すっごい装置ですよこれ。

第一部、まずは一巡目を堪能しました。もう一回くらいは観たい。それから第二部もかなりの力作と聞いているのでこれまた楽しみです。とにかく鬱屈とした日々ですからね、いい意味で揺さぶりをかけてくれる作品に触れると、よしいろいろがんばろうってなります。ちなみにショットグラスも買うと、家でも個展の延長戦ができます。クリア後の世界の方が奥深いみたいなやつです。

野村浩さんの個展がはじまる!

野村浩さんの個展がはじまる! DM見てるだけでテンション上がる。底無しの沼だろうと果てしない大海原だろうと、作品世界に身を委ねるのみ。とにかく楽しみだ。

野村浩 展 101 EYES’ GLASSES Paintings & Ocellus
会場:POETIC SCAPE
会期:
(第一部)「101 EYES’ GLASSES Paintings」 2021年 4月10日〜 5月15日
(第二部)「Ocellus」 5月22日 7月10日
時間:水曜〜土曜 13:00-19:00
休廊:日曜〜火曜

熊谷聖司さんの写真集とプリント

「眼の歓びの為に 指の悦びの為に この大いなる歓喜の為に わたしは尽す」

涙ちょちょぎれそうなタイトルにグッときて、ひっさしぶりの熊谷さんの新たな写真集と新たな手焼きプリントを見にブックオブスキュラに。

多彩な冬の光。繊細な色。良すぎる。額も良い。熊谷さんオリジナルの手塗り額。写真、マット、額が最高にハマっていて、納得感ありすぎて、うんうん頷くばかり。

カラー写真でみるピクトリアリスムのようであり、すでにフォト・セセッションのようでもある。熊谷さんの暗室ワークが加わることで、ストレートフォトからさらに跳躍してる。さらにさらに写真を飛躍させてくれそうな。写真の妙味がたっぷり。

写真集は、今とこれからを予感させる、削ぎ落とされた一冊になってる。判型、装丁、タイトル、用紙、写真の並び、写真の色、奥付などなど、どれも必然性を感じる。熊谷さん、いつも感性を理性で理性を感性で表現してる。天才でありながら職人気質。努力を継続した先に辿り着ける達人の領域なのではと。

これ見たら写真が好きにならないわけない。少なくとも私はさらに写真が好きになりました。

[写真集]待ってました!モルテン・ランゲの新作「Ghost Witness」

スウェーデン出身のアーティスト、Mårten Lange(モルテン・ランゲ)の待望の新作写真集「Ghost Witness」が届きましたよ! 待ってました! 一昨年から「どうやらモルテン、中国で撮ってて新しい写真集出るらしいよ」と新作の噂はあって、かなり楽しみにしていたんで、うれしくてうれしくて。

SNSで予約開始したと知ってから国内販売が待ちきれなくなってしまい(おそらく普通に待っていても手に入れられるのはほぼ同じタイミングだったろうけど)、フランスのLoose Joints Publishingで特装版を予約した。通常版でも別にいいかなって思ってたんだけど、特装版の内容見たらもう即決。タトウ式のパッケージ入りで、プリントが2枚も付くセットなのに、£270はあまりにも魅力的だったわけで。

今回の新作「Ghost Witness」は、急速な発展を続ける中国の巨大都市を主題に、古来より伝承される怪談や超自然的なイメージを建築物に重ね合わせた写真集になっている。過去を振り返ることなくひたすら未来へ突き進む様と、経済が発展すればするほど取り残されていく亡霊のような何かを同時に提示している。

これまでの作品よりも批評的な内容とも取れるけど、中国の両面性を興味深く観察していて、むしろ肯定的に捉えている。モルテン・ランゲらしい好奇心旺盛なアプローチでとても楽しめる写真集。フラットな画作りなのに、あまりドライな印象は受けず、むしろ高い熱量を宿している不思議さ。逆に言えば、めちゃめちゃ興味津々のくせに、けっこう遠くから見ている距離感が面白いんだけど。

特装版の2枚のプリントは、今額装しようかどうか悩んでいる。額装するにしてもそれぞれ個別にするのか、思い切って2枚組にするのか、はたまた他にも手はあるのか? このままシートでも構わないのだけど、ひとまずプロに相談するだけしてみてもいいかなと考えてる。

川田喜久治「エンドレス マップ」を観て

写真集「地図」は月曜社版もナツラエリ版も見たことがなく、唯一Akio Nagasawa版のサンプルをめくったことがあるくらいだ。あのAN版は定価がプレ値のようなものだったので、さすがに手が出なかった。

プリントは2016年に平塚市美術館の企画展「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治」で84点を見ることができた。あれは圧巻の展覧会で本当に観に行けてよかった。川田喜久治の「地図」を初めて体験できた日だった。

久しぶりにPGIでプリントの「地図」を観れるとあってかなり楽しみにしていて、会期2日目に足を運んだ。今回の「エンドレスマップ」は、手漉き和紙にインクジェットで新たな「地図」を制作している。微かに光沢のある手漉き和紙に、モノトーンの「地図」がどっしりとプリントされていた。

もちろん見覚えのあるイメージがあるにはあるのだけれど、かつての「地図」というより、現在の「地図」と思わせる鮮度があり、新作を観ているような気さえした。もっと言えば、これからの「地図」を予感させた。

これまで何度か川田喜久治さんの凄さを、いちファンとして語ってきたけれど、これほどの創作意欲を長年にわたり維持しながらも、常にアップデートし続けて、圧倒的な速度と強度をもって発表し続けていることに、毎度ながら畏敬の念を抱いてしまう。

川田さんを年齢を条件に語るのはもはや無意味ではないだろうか。世代別ではなくてむしろ無差別級こそ主戦場であり、その強さを発揮すると思う。

川田さんのInstagramからセレクトされた新作写真集「20」も抜かりなく手に入れた。これはこれでまたヤバい。読む用、保管用、見せる用の3冊必蔵かな。また、新たな「地図」の写真集も発売予定らしい。これはまた楽しみ。川田さんらしく、再編というか新解釈というか、復刻版ではない「地図」を読んでみたい。もし復刻版だとしても、手に取りやすい、求めやすいものであったならきっと買うと思うけどね。

昨年は個人的なウイスキー元年、今年は2年目のオールドルーキー。

2020年、令和2年は、ひょんなことから個人的なウイスキー元年になりました。お酒は強くない、というか酒量はグラスビール2杯がせいぜいなのに、何故かウイスキーの美味しさに目覚めてしまった。しかもハイボールやロックではなくて、あろうことかストレートで飲んでいます。

といってもね、夜にハーフ以下をゆっくり一杯だけ嗜む程度。酔うためというより、味わうために飲んでいる感じ。加水しながら味変して、チェイサーは頻繁に飲んで口も胃袋もリセットして、決して調子に乗らないように気をつけてます。

蒸留酒は長期保存が効くので自分のスローペースに合っているし、複雑に絡み合う多層的な香りや味わいも好みが多い。またウイスキーの歴史や物語に少しずつ触れながら知識を蓄えていくのも楽しい。

まだバーに行く勇気は出ないので、宅飲みでマイペースにやってます。フルボトルだとお金もかかるし量的にも持て余しそうだったから、今年も量り売りやミニボトルを駆使して、なるべく色んな種類を飲んでみたい。

昨年からまずはスコッチでしょと、味のバランスが良いものが多いスペイサイドやハイランドのシングルモルトやブレンデッドを試しているところ。アイラをいろいろ飲むのはもう少し先かな。何にしてもお酒は弱いので、無理なく続けられる範囲で楽しんでいこうと思っています。

写真に対して少しわがままに

なんだかもう今となっては、写真を小難しくも容易くも考えたくなくなってきている。文脈やコンセプトありきの写真も時と場合によるし、極上のファインプリントというだけでも物足りなさを感じることもある。写真の見方が小慣れてきたというより、むしろもっとわがままになってきている。以前のように好奇心にまかせて何でもかんでもという感じではない。

個人的には、いちいち写真を評したいわけじゃなくて、正面切って興じたいだけ。さらに奥、核心や本質を掴みたいという思いが募っている。初見で衝撃を受けてしまうような強度の高い写真、何千何万と繰り返し見ても飽きることがない写真、いつ見ても新発見のある写真をこれからも見てみたい。

写真に対してわがままに。良いんじゃないだろうか。

東屋の醤油差し

先日久しぶりに吉祥寺のOUTBOUNDさんを覗いてみたら、ある小さな磁器に目が止まる。コロンとした丸みのある形をしていて、まるで柄のない急須みたいだつた。尋ねると卓上の醤油差しとのことだった。

制作は「東屋」さん。全国の熟練の職人の腕を活かして毎日使える生活の道具を手がけているとのこと。この醤油差しは、天草の天然陶石を使い、波佐見の白岳窯で1280度という高温で還元焼成して作られる。艶のある白がとても美しい。蓋の裏や本体の口まで満遍なく釉薬が回っていて、匂い移りの心配がない。

(もしかしたらこれ、ストレートの加水用に使えないかな?)と思いつき、その場で買って帰る。早速使ってみると、これがちょうど良すぎるくらいちょうど良かった。液垂れせず、実に切れが良い。安定して適量の水が注げる。加水用には持ってこいだった。我ながらいい買い物をしたな。

  • 制作:東屋
  • デザイン:猿山修
  • 型:金子哲郎(佐賀県有田)
  • 製造:白岳窯(長崎県波佐見)
  • 材質:磁器(天草の天然陶石)

泉大吾さんのモノクローム

東急田園都市線「池尻大橋駅」から徒歩3分の古典技法を主に取り扱うギャラリー「Monochrome Gallery RAIN」にお邪魔して、泉大吾さんの写真展を観てきた。5月の予定がコロナの影響で10月に順延になっていた。何はともあれ開催されて良かった。

泉さんの写真はモノクロというよりモノクロームって言い方がしっくりくる。略さず長音がちゃんとついて滑らかな感じ。あくまでイメージの話。

今回もギャラリーオーナーさんのセレクトとのこと。特にオフシーズンのビーチの写真が、あまり泉さんが撮らなそうで、選ばなそうな被写体で、とても新鮮だった。プリントも素晴らしい。

リヒターにインスピレーションを得たというベンチの写真も興味深かった。泉さんの写真は、ことさら美術史の文脈を意識するような作品でも、プロジェクトでもなく、強いて言えばライフワークのようなものだろう。

泉さんの作品が面白いのは、意識的にアートの文脈を踏むわけではないが、ファインプリントとしての銀塩を突き詰めながらも、大好きな旅を楽しむ中で出会った絵画や写真に影響を受けて、派性的に美術に興味を持ち、寄り添っていることだ。

リヒター然り、ヴァナキュラー写真然りで、その影響が作品の前面に出るのではなく、写真に染み込み混ざり合い、ひっそり裏に隠れ、時に垣間見える。

一枚の写真を前に、語るに尽くせない状況というのを、泉さんらしいアプローチで作りだしている。それも「好きだから」というシンプルな動機からくるものだ。これはとても豊かで素敵なことだと思う。写真は極めて言語化しにくいけど、抽象的でも良いから絞り出してみて言葉にしてゆくのは相当面白い。

尾仲浩二さんのモノクロの世界

尾仲浩二さんの写真集「Faraway Boat」は昨年10月にすぐさま予約購入した。そのモノクロが見られる待望の個展だったので、矢も盾もたまらず初日に観に行った。写真集も傑作だけど、プリントも最高。とにかく、尾仲さんの写真は、いったん5W1Hを脇においてじっくり観るのが良いな。

いろいろ書きたいことあったけど、天野太郎さんとの対談動画を見たら、もう自分の文章なんて別に良いかなって思っちゃった。だってコレ凄いよ。写真の面白さが濃縮されてて、頷くことしきりだから。珠玉の対談。

前編は身悶えする面白さだし、後編はのたうち回る面白さだからね。(語彙力)

四の五の言わずに視聴すべし。

Talk|尾仲浩二 × 天野太郎(前編)|2020/10/3
Talk|尾仲浩二 × 天野太郎(後編)|2020/10/3

亀山仁写真展「Tedim Road」を観て

少し前になるが、亀山仁さんの写真展「Tedim Road」を拝見してきた。第二次世界大戦中のインパール作戦の地、テディムロードが舞台になっている。かの地は「白骨街道」とも呼ばれていて、その名が戦時中の凄惨さを今に伝えている。

亀山さんの写真は、いわゆるジャーナリズム的な写真ではない。出会った人たちが負う歴史的な背景をしっかりと踏まえて、本人から語られる言葉に真摯に耳を傾けながら、人々や村、街を写真に収めている。それでいて恣意的にもならず、ひとつの結論に誘導するでもない。

ある種のドキュメンタリーと言えるかもしれないが、そういう既存のカテゴリーに捉われない、亀山さんならではの視座、佇まいがあり、独自のスタイルを確立している。補足資料に載っていた作品一枚一枚にまつわるエピソードはとても読み応えがあった。当時を知る人だからこそ語り得る内容ばかりで、今回の作品にさらに奥行きをもたらしている。

個展も回を重ねて、時間が経てば経つほどに、撮る意味、発表する意味がさらに増してきている気がする。亀山さんとミャンマーは、ライフワークとしてこれからも長いお付き合いになるであろうし、亀山さんが撮るミャンマーと私も長いお付き合いになるのだと思う。

私事だけれど、母方の祖父はビルマで戦死していて、私は一度も会ったことがない。母も父親でありながら思い出はおろか記憶すらないと言っていた。小学校の夏休みに帰省した時に、古びたアルバムの中のセピアに褪せた祖父の写真を見せてもらったことがある。当時としては珍しくすらりとした長身で彫りが深く、少し首を傾げて優しげな表情を浮かべていた。母にとっても私にとっても、父(祖父)の面影を知る唯一の手がかかりは、このアルバムの写真だけだった。

亀山さんのミャンマーの写真を見ていて、そんなことを思い出した。

作品購入についての覚書

  • コレクションは自分の所有物(煮るなり焼くなり好きにして良いという意味で)ではなく、生きている間、作品を預かっているという考えに共感している。
  • 自分が亡くなっても、作品は受け継がれてほしいと思っている。
  • コレクターと呼ばれると面映いが、最近は慣れてきた。
  • 作品を買うには、肚を決められるかが鍵。
  • お金があるから買うわけではない。
  • お金が無いから買わないわけでも無い。
  • 今は基本的にギャラリーを通して買いたい。
  • ギャラリーと作家との信頼関係を大切にしたい。
  • 買うギャラリーはだいたい決まってきた。
  • 初めてもしくは1,2回しか行ったことがないギャラリーではあまり買わなくなった。
  • そもそも行くギャラリーが絞られてきた。
  • 無所属の作家から直接買うことがあるとすれば、作家や作品への信頼が高いときに限る。
  • 買うとなったらあまり躊躇わない。
  • 決めかねたり悩むときは買わないことが多い。
  • たまに行く前から買うことを決めいていることがある。
  • ごく稀にどれを買うかも当たりがついていることがある。
  • 買うとなったらシビアに選ぶ。
  • ノリや勢いや見栄で買わない。
  • 身の丈を知り、少しの無理、ちょっとの背伸びはしてみる。
  • 部屋に飾ることを前提に考えている。
  • でも、シートのままとかブックマットのみの作品も見るのが好き。
  • 基礎知識として美術史、海外アート市場について知っておいて損はないと思っている。
  • でもアートの文脈で作品を買うことはない。
  • ギャラリーでエディションや価格、作品証明書などの作品管理がしっかりしている方が好ましいがマストではない。
  • でも結果的に作品管理がちゃんとしているギャラリーで買っていることが多い。
  • 作品に見合った整合性や必然性のある品質や仕上げを突き詰めている作家やギャラリーほど惹かれる。
  • 作品の現実的な保存方法(アーカイブ)の知識は大切たが、美術館レベルの保管方法(コンサベーション)ほどの厳格さは求めない。
  • 保存には気を配りつつ、ある程度の経年劣化は受け入れる。
  • グループ展より個展の方が買いやすい。
  • 特にこれらは固定化された流儀とかルール、信条ではないので変化していくし、増えたり減ったりする。

自宅以外でコレクションを飾る

2年前くらいから自宅以外のある場所で写真作品のコレクションを飾らせてもらっている。公的な場所じゃないので、詳しくは言えないけど、信頼が置けて気心もしれていて、個人宅ではないスペースとだけ。もちろん双方同意のもとで、貸与でも贈与でもなく、個人蔵の作品をただ場所を借りて飾らせてもらっている。ニュアンス的には、無償で飾る壁面を貸してもらっているという感じかもしれない。

先日、久しぶりに作品の掛け替えと掛け増しをしてきた。その場所に合うように考えて選ぶのは楽しくて、ちょっとしたキュレーション気分を味わえる。今回はこっそり自分の写真も混ぜてみた。作品についてあえて説明せず、もし興味を持ってくれて何か聞かれたら答えるようにしてる。

写真や版画などを購入するようになってしばらくして、やはり作品を家で飾りたいと思うようになった。賃貸だからと諦めずに工夫しながら壁面を確保して、ささやかな家庭内ギャラリーを楽しんでいる。限られたスペースなので、季節や気分で掛け替えるものの、すべての作品を満遍なくとはいかない。額装済みで飾りきれないもの、マットに入れただけのもの、シートのままのものもある。それはそれで観賞の仕方があるけど、壁に飾っているのに比べたら、見る機会はそう多くない。

ある時から自宅以外でも飾れたらいいかもと考えるようになった。どこでもいいわけではない。安心して預けられるところがいい。勤務先はどうだろう? いや、公私混同は否めないし、何かあっても会社側も責任を負えないだろう。友人宅はどうか? あり得るけど、ちょっと気を使わせてしまうかもしれない。友人とはいえ他人様の私物を預かってる感じが強まってしまっても申し訳ない。

たまにそんなことを考えつつも、特に具体的に動くわけでもなく、軽い妄想を膨らませているだけだった。それから何年か経って、ひょんなことから進展があった。昔からお世話になってる方の事務所が移転することになり、移転先に顔を出すことがあった。室内はとてもきれいにされていたが、やや簡素な印象で、ここに写真とか飾ったらいいだろうなと勝手に思っていた。雑談の中で「女性のトイレが殺風景でね、何か飾れたらって思ってるんだけど、何を飾ったらいいか分からなくて」という話になり、思わず「もしよかったら私の持っている写真を飾らせてもらえませんか?」と提案してしまった。

先方も好意的に受け取ってもらえて、手始めにサイアノタイプの小作品を選んで飾らせてもらった。当初は女性用トイレに飾る予定だったが、入口からすぐ見える場所がいいだろうとうことになり、入ってすぐの柱に掛けさせてもらった。たった一枚写真があるだけで、場の雰囲気ががらりと変わる。これは自宅でも実感していることだ。どんなに殺風景でも、どんなに生活感にあふれていても、一枚の写真が空気感を変えることがあるのだ。

で、今回ようやく女性用トイレにも一枚飾らせてもらった。こちらは六切サイズくらいのプラチナパラジウムプリントにした。主張しすぎず穏やかな雰囲気になるようにと選んだ。他にも自分の写真を含めて掛け増しをした。事務所内の動線を意識しながら、サイズ感も考えて配置してみた。事務所の方にもご満足いただけて、ひとまずミッションコンプリート。次回はカラープリントや版画作品なんかも良いだろう。頃合いを見計らって内容的に歯ごたえのある作品も試してみたい。もし作品に興味を持ってもらえて、作品の世界観をより楽しんでもらえたら嬉しいな。自分の家だけにとどまらないコレクションのあり方をいろいろ考えるきっかけになっている。

「歌う人」と兼子裕代さん

兼子裕代展「Apperance」がとっても気になっていた。なかなか見る機会が得られなかったが、ようやく観ることができた。歌う姿はとても無防備なのに、皆んな逞しく誇らしげでもある。写真なので実際の歌声は聞こえないけど、確かにそこには歌が存在している。

まず作品を見て、瞬間的にハロルド作石の「BECK」を思い浮かべてしまった。アニメや映画ではなく、あくまで原作の漫画の方。音声を聴けない漫画おいて、時間的、動的な補足表現を捨てて、コユキの静止画だけで勝負した描写に痺れたものだ。音が出ない世界で音を感じるあの高揚感を「Apperance」に感じた。

ポートレートは一対一で撮る撮られるの関係性があってこそ成立すると聞いたことがある。被写体がカメラ目線かどうかは別として、撮られることを意識しているのがポートレートなのだと。

そういう意味では、この「Apperance」は、被写体は撮られることを認識しながらも、歌うことに意識が向いていて、カメラへの意識はそれほど強くない。兼子さんに歌を聴かせている感じではなくて、歌っている姿を兼子さんが撮っているという印象だ。意識の等価交換になっていないというか、兼子さんの撮る意識を、被写体が受け取って、歌で増幅しベクトルを変えて解放しているような、そんな共同作業のようにも受け取れる。

最初に「とっても気になっていた」と書いたけれど、観る前からそう思っていたのは、作品が「歌う人」だったからだ。それも玄人ではなく一般の人の歌う姿だったから、なおのこと気になっていた。

実を言うと(というほどでもないけど)、私は三度の飯より歌うことが好きだ。たぶん誰にも打ち明けたことはないし、周りの人たちも、私が歌好きという認識はないだろう。言うなれば隠れ歌好きといったところ。別に声楽を習ったこともないし、下手の横好きと言われればそれまで。カラオケは苦手でヒトカラも行かない。楽器はからっきしだから、弾ける人、吹ける人、叩ける人は尊敬する。とりわけ楽器を演奏しながら歌える人なんて、自分からすれば奇跡的な存在だ。プロとアマチュアなどは関係なく、そういう人たちに、もっと言えば音楽に対しては憧憬の念がある。

音楽の中で、唯一自分ひとりでできるのが歌うことだった。自分にとって歌はいつも身近にありながらも、とても私的な行為なので、公でお披露目することはまずない。それでいて、下手の横好きですませたくないので、技術的なことも表現力も日々向上させたいという思いもある。まったくもって何がしたいんだかわからないんだけど、とどのつまり歌うことが好きなのだ。

兼子さんの写した「歌う人」は、兼子さんに心を許し身を委ねているのが伝わってくる。その上で歌っている姿は、まさにその場に出現(Apperance)していて、得も言われぬ恍惚感に満ちている。隠れ歌好きな私は、どこにも出現したことなどなく、これからも積極的に出現するつもりもない。でも、兼子さんと被写体の人たちのような関係性が成し得たならば、ひと前で歌うことも悪くないだろうと思わせてくれる。

最後にもうひとつ。「Apperance」を観ていて思い出したのが、2019年に同ギャラリーで開催されたアンソフィー ・ギュエ「INNER SELF」。この作品同士の関連性も気になってきた。この直感を頼りにもうすこし時間をかけて考えてみたい。

APPEARANCE|兼子裕代(Hiroyo Kaneko)|POETIC SCAPE store

川田喜久治展 | 赤と黒 ─ Le Rouge et le Noir

私の「赤と黒」のシリーズはスタートもプロセスも以前発表した「ロス・カプリチョス」に似ている。取り組みはすこし違っているのだが、いつ、ファイナルバージョンとなるのかわからない。

川田喜久治展 赤と黒 ─ Le Rouge et le Noir パンフレットより

川田喜久治さんの途轍も無さが、この言葉に集約されている気がする。何十年にもわたって絶え間なく写真を撮り続け、鋭く思考して、ときには新作を発表し、ときには過去のシリーズを大胆にアップデートする。完結完成よりも、更新することを良しとする姿勢が、川田さんの写真家としての魅力を醸成し、作品の強度を高めている。

まぁ、平たく言うと、マジパねえ、ってことだ。

普段あんまりしないのだけど、芳名カードに、やたら思いの丈を綴ってしまった。最後に「大ファンです!」と書いちゃって、後から恥ずかしくなってしまった。なんでまた急にという感じなのだけど、以前、PGIでせっかくサシで話せる機会がありながら、面と向かって何も言い出せなかった苦い記憶がよみがえり、せめて言葉で感謝を伝えたいという衝動に駆られたからだ。

今度お話しする機会に恵まれたら、直接お礼を言いたいと思う。川田喜久治という偉大な写真家と同時代に居合すことができて、しかも圧倒的な新作も見ることができる。こんな幸せなことがあるだろうかと。

まあ、そんな感じの意味合いのことを二言三言、しどろもどろで、たどたどしく口にする程度だろうけども。

[写真集]山谷佑介『Doors』

写真集って普通の本に比べればかなり高価なものが多いから、他人に勧めるのが難しい。自分の中で、これ最高だな!って思っても、直接他人に勧めることはあまりしないし、する機会も少ない。

もちろん写真は、今まで巡り合ってきたものの中でも、ぶっちぎりで面白いものだから、写真集の面白さや、興味を持ちそうな時代やジャンルを勧めてみたり、この本屋に行けばいろいろ教えてくれるよって言える。東京なら、代々木八幡の「SO BOOKS」、代田橋の「flotsam books」、吉祥寺の「book obscura」とか、恵比寿の「POST」とか、もう間違いない感あるお店ね。

でも自分で「この写真集、めちゃいいから、ぜひ買ってみてよ!」っていうテンションで、特定のタイトルを勧めることはあまりないかも。好みってあるし、出せる金額も人それぞれだし。その辺は、自分が出会って、お財布と相談して、ある程度納得して買ってほしいから。

がしかし、山谷佑介さんの「Doors」。届きましたよ、クラウドファウンディングの限定版が。開封してめくったら、1ラウンド開始3秒でテンプルに一発いいのもらっちゃったの。井上尚弥的な衝撃。

これに関しては、他人に勧めたい衝動に駆られたんだよね、なぜだかわかんないけど。ねえねえ、これすごくいいから見てみてよ、で、よかったら買ってみてよ。で、しばらく手元に置いといてよ。で、たまに開いてみてよ。ま、だまされたと思ってさ、一万円出して買ってみてよ、って。胡散臭い儲け話みたいになっちゃうくらい手に取って見てほしい。

他にも新旧問わずたっくさん良い写真集あるし、もっと勧めやすいのだってあるし、むしろ「Doors」は万人に勧められる写真集ではないかもしれない。写真集好きですら好みがわかれそうな感じだし。

なんか、そういうの越えちゃってる気がするの、この「Doors」は。好みとかじゃなくてさ、これマストで見とけよって感じなわけ。だんだん、言葉使いが荒くなってきちゃってんだけど、勧めたい理由が理屈じゃないっていうか、これヤバいじゃん、最高じゃん、山谷さん知っている人も知らない人も、好きな人も嫌いな人も、もう黙ってこれ見てみなよって。

ちゃんと根拠を並べることはできるかもしれない。いろいろちゃんと話したくなることあるにはあるんだよ。一連のドラムパフォーマンスからの流れとか、装丁デザインとか印刷とか編集とか対談テキストとか。

何でこんなに言葉使いが荒いのは、「Doors」の凄まじさに興奮を隠せないからだけど、もう一つ理由があって、つまり悔しいんだよ。何が悔しいかってさ、クラウドファウンディングの限定版のエディションは181冊。そのうちの貴重な一冊を手することができて満足なんだけど、その後、通常版が発売されることになって、その通常版の表紙が異常にかっこいいのさ。やられた感がある。テンプルに一発もらって意識遠のいた後に、顎にきれいにアッパー入れられた感じ。後出しでこれかよ!って。ずるいじゃん、普通逆じゃん、めちゃくちゃ悩むじゃん。2冊買えっての?

あー、わかったよ、買わんでもないよ、でももう少し待ってね、お金貯めるからさ。