インベカヲリ☆写真展「ふあふあの隙間」@ニコンプラザ新宿 THE GALLERY

数年前に神保町画廊で初めてインベカヲリ☆さんの写真を見たときに、皮肉や滑稽さを含んだセットアップに興味を持って、写真集『やっぱ月帰るわ、私』を買った。

後々になって自分の好みとは合わないと感じつつも、なぜか手放さずに持っていた。古本屋に買い取ってもらおうとしても、最後の最後で選外になり、今でも本棚に立ててある。ある種の呪いのように思えて時折怖くなる。

インベさんの写真には、好奇心なんて甘っちょろいものは通り越した強欲をはらんでいて、迂闊に「こういうの面白い」とか「こんな写真好きだなあ」とかなんとなく言いづらい。いや、別に本人からしたら、好き勝手言ってもらっても構わないのだろうけど。

今回、写真とテキストを並べて展示してあった。デジタル出力の彩度が強調された写真の脇に、各々の被写体のエピソードが綴られている。時間はかかったが、すべて流し読みせずに回ってみた。写真と文との関係を考えざるを得ないけど、これはこれでありだなと思えた。にしても、このポップさがかえってズシリとのしかかる。

自分にも潜在的にこういう部分がありそうだなと。共感というより戸惑いというか、ん、いや、どうだろう…。小学校の頃は、下校途中、「駄菓子屋行こうぜー」ってなって、「行こう!」って応えたのに、家と駄菓子屋の分かれ目に差し掛かったとたん、「じゃまた明日!」って帰っちゃう感じの子だったな。

そんなことはさておき、結局また写真集を買ってしまった。『ふあふあの隙間』と『理想の猫じゃない』。はたして、この2冊は手放せない写真集となるのか、手放したくても離れなくなる写真集になるのか、恐ろしくも楽しみで、どうにもむず痒い。

そんな感情を掻き立てられてしまうことこそ、まんまとインベカヲリ☆という写真家の術中というか呪術にはまってしまっているのかもしれない。

広告

村越としや「濡れた地面はやがて水たまりに変わる」@タカイシイギャラリー・フォトグラフィ/フィルム

室内の写真が気になった。それも2枚もある。村越としやの写真ではきわめて稀だと思う。展示でも写真集でも見たことがない。何か理由があるのか今度直接訊いてみたい。別になんとなく入れてみたくなったとかでもいいんだけど、室内を選ぶのはかなり珍しいから、やっぱ気になる。

他には、人や馬の写真はこれまでよりも距離感が近い。少し前から人物が入るようになった。その距離がさらに近くなっていた。室内もそうだけど何か心境の変化でもあったのかな。

ずっと同じことをやっているんだけど、変わらないようでいて何かしら微妙に変化してることがある。その微妙な変化を感じ取りたいので、これからも具に見ていきたい。

自分にとっては長く継続して見るべき写真家だから。

「CAMERAer」と、野村浩 展「“NOIR” and “Selfie MANBU”」@POETIC SCAPE

今回の展示は、コミック形式の著書「CAMERAer」の世界を3Dに置き換えた場合に、何が起こるのかを考察する装置になっていてる。それも二部構成。これがなかなか手ごわくも楽しいショーになっていた。

急いては事を仕損じる。野村作品を見るときは、まずこれ。安易な結論に落ち着かないように、見たままを感じつつ、ひとつひとつ自分なりに考えてみる。ヒントとなる仕掛けを紐解きながら、こういうことを言っているんじゃないか、ああいうことが言いたいんじゃないのかと、思索を深めていく。それから、作家の意図を尋ねてみる。その後に、拡大解釈を始めてみる。それが野村作品の醍醐味だと思う。

さて、入ってすぐの「Noir」は「CAMERAer」の終盤に登場するあの真っ黒なプリントの展示が再現されている。その中央部には、スライドプロジェクターでさまざまな画像が映写されている。カッシャン、カッシャンと映写機の作動音と共に、実際の展示と映像の二重像が、淡々と場をつないでいく。このシンプルなレイヤー構造が「とにかく見てみる」というシンプルな行為へ誘い、ついつい長居させられてしまう。

映写機は不思議なもので、とても没入感のあるメディアだと思う。壁面照射による反射光像を観てはいるのだけれど、どこか透過光の要素も含まれている気がする。透過光の受動的な作用と、反射光の能動的な作用が同時に働いて、まったりとリラックスした状態で観賞しつつも、積極的に何かを読み解こうとする意識も働く。

昨年丸亀で開催された志賀理江子「ブラインドデート」もそうだった。展示物と映写像を組み合わせた場の空気は、意識の収斂と拡散を繰り返すように、独特のリズムで観賞することができた。あの没入感は映写機によることころが大きいのかもしれない。

きっと展示物と映写機の組み合わせは劇薬的な手法ではないかと思う。作品との必然性がなければとてもチープな展示になりかねない。そういう意味では野村さんの「Noir」は見事にハマっていた。見る行為そのものと、見ているモノの意味や価値を問い、鑑賞という体験がいかにして生まれるのかを問う仕掛けではないかと解釈した。ひとまず今のところは。

次に、奥の「Selfie MANBU」のセクションでは、あたかも「マンブ君」自身がリアルに撮影したと思わせるスクエアチェキで撮られたセルフィやライフログ写真が並んでいる。もちろん野村浩自身が撮影したものではあるのだけれど、「マンブ君」の日常を追体験するような展示になっている。擬人化といえるのかわからないが、リアルとフェイクの間のような仕掛けで、気軽に楽しめる雰囲気でありながら、その手法はエキスドラの不可解さを彷彿とさせ、どこかキツネにつままれたというか、煙に巻かれたような気分にもさせられる。

70年代にポラロイドのSX-70が登場するや、こぞって美術家や写真家たちはポラロイドに飛びついた。当時は出力に時間を要するフイルムが全盛で、その場で見られるというポラロイドの即時性は相当なエポックメイキングな出来事だったと思う。それまでモノクロ作品しか発表していなかったウォーカー・エバンスが初めて撮ったカラー作品がポラロイドだったことからも窺いしれる。

今では、SNS ─ 特にインスタグラム ─ に慣れ親しんだ人たちが行きつくリアルは、今はチェキなのかもしれない。スマホの中だけでなく、実際に手にとってシェアできるチェキは、即時即効性という意味でもスマホと相性がいい。デジカメすら使ったことのないスマホネイティブ世代にすんなりと受け入れられたのではないだろうか。復活を遂げたポラロイドはいかんせん価格が高く、スクエアフォーマットの優位性も、スクエアチェキの登場で差を埋められた。

元祖ポラロイドを知る者としては、スクエアチェキのサイズは物足りなさもあり、鮮明な画像は郷愁に欠ける面もあるけれど、気軽に楽しめるインスタントフィルムがあるのはうれしい限りだ。近い将来、大判のスクエアチェキがでたら面白いかな。

フィルムとポラロイド、フィルムとデジカメ、デジカメとスマホ、スマホとチェキ。比較対象であったり、新たな関係性であったり、写真の変遷であったり、世代ごとの写真の捉え方であったりと、いろいろ考えが及んで行く「Selfie MANBU」だった。

野村浩ワールドに引き込まれてどれくらい経つだろう。毎回いくつもの気づきを与えてくれ、いくつもの悩みを与えてくれた。写真を媒体に見ることを問う作家姿勢、驚愕の着想、その着想に耐えうる過剰なまでのアプトプットは、鑑賞者に止めどない楽しみと悩ましさと、理解しがたさを投げ掛けてくる。実際に足を運び、生で展示空間に浸かり、答えなき答えを考える体験の面白味は、野村浩作品の真骨頂と言える。

「CAMERAer」発売記念イベントは、小林美香さんの「写真歌謡」と相まって神回だった。先日の美術家・豊嶋康子さんとのトークは風邪でダウンしてしまいあいにく聴くことができなかった。かなりの痛恨事ではあるものの、おいおい野村さんに伺えればと思う。

川田喜久治「百幻影 ─ 100 Illusions」@キヤノンギャラリーS

楽しみで仕方なかったのに、いろいろ週末に予定が詰まっていたり、体調を崩したりで、行けなくて、結局最終日になんとか見に行けた。

今回の「百幻影」は「ラスト・コスモロジー」と「ロス・カプリチョス」を巧みに再編した展示になっていた。いくつかのブロックに分かれた展示構成、PGI謹製のプレーンな額装、ハーネミューレが醸し出すほのかな光沢感。抑えめで、控えめな演出だからこそ、イメージの強度が純粋に伝わってくる。圧巻の個展だった。ほんと滑り込めてよかった。

写真にも言葉にも確固たるものを持ちながら、写真にも言葉にも縛られず翻弄されず、メタファーの世界を自由自在に闊歩し、変幻自在に飛びまわる様は、常に変化と挑戦を続けている川田さんならでは。畏敬を抱かずにはいられない。

そういえば最近、川田さんがInstagram(@kikuji_kawada)を始められた。これがまたすごくて、連日アグレッシブな投稿をされている。ほんとヤバイ(笑) 速攻でフォローしてしばらくしたら、自分の投稿にいいねをつけてくれたことがあった。うれしさと驚きで地に足がつかなくなってしまった。

毎朝、「MASAHISA FUKAE」を一章ずつ読む

朝起きて、身支度をすませて、出勤前に一章ずつ読んでいる。また次の日に、朝起きて次の章を読んでいる。このペースがとても良いように思えて、一気読みしたり、空いた時間に読んだりしていない。そんなルーティンを数日繰り返しながら、深瀬昌久という写真家を少しずつ探求させてもらっている。

この分厚くて重たい書物を上梓するまでに、どれほど犠牲を払ってきたのだろうか。どれほど辛酸を舐めてきたのだろうか。どれほど煮え湯を飲まされてきたのだろうか。どれほど孤独と向き合ってきたのだろうか。私には想像を絶する。

トモ・コスガさんには感謝しかない。

9月28日の戸田昌子さんとのトークイベントが楽しみでならない。

津田洋甫展 – 初期作品 1950 – 60年代 @MEM

久しぶりにMEM。戦後の浪華写真倶楽部の復興に尽力したという津田洋甫の写真を初めて見ることができた。ほとんど世に紹介されていなかった50年代から60年代のヴィンテージプリント。日本の新興写真、主観主義写真として位置付けられる作風で、一枚一枚が力強く、実験的な写真ばかりだった。とにかくすっごくかっこよかった。

ギャラリーで少し話しを伺ったら、浪華写真倶楽部は1904年(明治37年)に結成し、現在もメンバーを変えながら活動が続いている国内最古のアマチュア写真クラブだとか。活動期間は結成から現在までで優に100年を超える。ピクトリアリスムからストレートフォトグラフィ、シュルレアリスムなどの文脈に影響を受けながらも日本独自の新興写真を追求した中心的なグループだった。

1904年は日露戦争が始まった年。ブレッソンが生まれる4年前、スティーグリッツが「ギャラリー291」を立ちあげる1年前。安井仲治はまだ1歳で、植田正治や桑原甲子雄が生まれるのはこの10年後。そう考えるだけでも、浪華写真倶楽部の歴史を実感できる。

関西のアマチュア写真クラブは独自の発展を遂げていて、長い歴史もあり、会員は高い矜恃を持って活動している。関東のアマチュアクラブとは文化も気質も違うところが多いので、そうと知らずに関西の写真クラブを迂闊に語ると痛い目にあうと聞いたことがある。何事にも敬意を持つことが大切だ。

津田洋甫は66年以降は作風を大きく変え、日本の自然をテーマに撮影をしており、今回の初期作品は戦後の新興写真の流れを色濃く残す貴重なプリントだと思う。MEMは埋もれてしまった作家や作品を掘り起こして、再評価をしてゆく取り組みも魅力で、未見の作家と出会える絶好の空間になっている。

星野寿一写真展「こうみょう《光明》~ NOVA 〜」 @ギャラリー冬青

ずっと待ち望んでいた星野さんの初個展に伺った。湿版写真に取り組み始めてからというもの、親子ほど年の離れた後輩である私が、顔を合わせるたびに「星野さん、そろそろ個展やりましょう!」とけしかけていた。半分本気で半分挨拶がわり。いや、日が経つにつれて8:2で本気になっていた。それくらい星野さんの湿版の石仏は圧倒的で、個展という形で早く見てみたいと熱望していた。それが貸ギャラリーではなく、コマーシャルの冬青で個展が決まったと知ったときは本当にうれしかった。私がけしかけたことなどまったく関係なく、星野さんの湿板を冬青の高橋社長が見初めたからに他ならない。

同期として参加させていただいたWSの卒展やOB展、はたまた歴戦の兵から意欲溢れる若手までがごった煮で集う「東京8×10」などで折にふれて石仏の写真は拝見してきた。とりわけ湿板写真になってからというもの、石仏の存在感がより一層際立つようになっていた。被写体と技法が見事に一致していると思えた。

湿版写真の魅力は滑らかな諧調と独特の立体感で、肉眼で捉える以上のリアリティが立ち現れる。湿板はかなりの労力と根気と財力が必要な技法でもあるので、実際に技術を学び習得しながら作品にまで昇華させるには途方もない時間と費用がかかったはずだ。意欲と熱意に溢れる姿は本当にすごい。奥様と共に本当に尊敬している。

久しぶりに訪れた冬青の室内で、一点ずつ時間をかけて観賞させていただいた。その中で何度も何度も観てしまう一枚があった。どこか仏様が手を合わせているようにも見える水芭蕉だった。エディションが進む前にと思い意を決して購入を決めた。

赤々舎で「MASAHISA FUKASE」を予約する

ほぼ「鴉」でしか知り得なかった深瀬昌久の40年間の集大成。「深瀬昌久アーカイブス」の創設者兼ディレクターであるトモ・コスガ氏の人生をかけ心血を注いだ仕事だと拝察する。おそらく今後の写真史で最も重要な書物のひとつになるだろう。そんな大げさな、と思う勿れ。それほどの期待感はあるし、価値があると思う。

全く個人的な話なのだけど、私がとてもお世話になったというか、救ってくれたというか、拾ってもらったというか、つまり返しきれない恩を受けた方が、深瀬氏と面影が似ていて、初めてセルフポートレートを見た時にとても驚いたことを覚えている。しかも生き様もどこか重なるところがあり、勝手に妙な因縁を感じている。

深瀬昌久という写真家と向き合うことが、私の恩人と向き合うことになりそうで、そこはかとない畏れを感じつつも、楽しみにしている自分がいる。

市川孝典 個展 「street cred by QUIET NOISE」と「Hello, stranger! by POST」

市川孝典さんの展示はナディフでの線香画以来だった。大きく手法を変えながらも、おぼろげな記憶の中のイメージを定着させるというのは一貫していた。

今回は「時間と記憶のズレ」をテーマにした美しくもユニークな展示で、恵比寿のPOSTと池ノ上の QUIET NOISE(以下QN)共に素晴らしい作品だった。

SNSというモチーフで流行性や時代性を持った作品でありながら、これほど見ても見ても見飽きない、これから先、ずっと見続けてもきっと飽きないだろうと確信めいたものを感じる作品は珍しい。

鑑賞距離の変化でもガラリと印象が変わる。特にQNの小作品では距離による変化が顕著で、2、3歩前後するだけでも発見の連続だった。

何気なく目で追っているSNSのタイムライン。画像の読込み中に現れる円形のローディングアイコン。その背後には読み込みが完了する前のぼやけた画もしくは白背景。パッと実像が現れるまでのちっとしたもどかしさ。

すでに読込み済の画像ならば、一瞥で流してしまったかもしれない画像も、読込み中だと期待値が少しだけ高くなる。ほとんどの画像は見えてしまった時に、期待したほどではなかった何でもなさが残る。

日常で何度となく目にする一瞬の不完全さへのささやかな期待感。そこには投稿者の意図や思惑が入り込むこと無く、見る側の記憶や想い出が重なって、脳内で自分寄りの画像に置き換わる。

そんなSNS上での一秒あるかないかの瞬間をとどめ、観る者の視覚と思考を心地よく揺さぶり解放してくれる。これはひとつ手元に置いて、じっくりと向き合いたいと思わせる作品だった。

「カメラを止めるな!」を観る

めずらしく映画鑑賞の話。

あんまり映画とか観ないんだけど、たまたま休日に予定がなくて、なんとなく映画でも観るかと、新宿のケイズシネマに朝イチで行ってみて、すでに20人くらいの行列が出来てて、とりあえず最後尾に並んでみて、15分後にチケット代払って、30分後から予告が始まって、10分後に本編が始まったので、ぼんやり観てみたら、すぐさま引き込まれて、前半が瞬く間に過ぎて、後半がさらにヤバいのなんのって、観終わったら拍手喝采したくなるテンションで、公衆の面前で、「もう、最高かよ!」って叫んじゃったよ、心の中で。

この映画はね、愛ですよ、愛。

この夏、これ観ないと絶対損するよ!!!