ポラロイドの写真集〈その4〉

ポラロイド熱は治ってきたと思いきや、いつのまにか増えてきて、収束どころかむしろ加速してしまっている。

来年、エグルストンのポラロイド写真集がシュタイデルから出るようなので、その辺を潮時にしたいんだけどね。

Manuel Alvarez Bravo: Polaroids

メキシコの巨匠マヌエル・アルバレス・ブラボのポラロイド写真集。世田谷美術館で見た回顧展も記憶に新しいが、カラーのポラとは驚いた。メキシコの出版社 EDITORIAL RM。


Misha Vallejo & Isadora Romero: Siete Punto Ocho

2016年4月16日にエクアドル沿岸を震源とする、マグニチュード7.8の地震が起きた。メキシコも大きな被害に見舞われた。作者のミーシャとイサドラは生存者をチェキやポラロイドで撮影して、それを写真集にまとめた。

この写真集を機に調べていたら、中米は海底に中央アメリカ海溝があり、複数のプレートの境界線が密集している地域で、日本とよく似ていて地震多発地域だとわかった。

こちらも EDITORIAL RM 。


Dennis Hopper: Colors, The Polaroids

俳優デニス・ホッパーが監督を務めた映画『Colors』の撮影の合間に撮っていたポラロイドの写真集。撮影現場のロサンゼルスでたまたま見つけたグラフィティに反応して、気が向くままに撮りためたもの。


Robby Muller: Polaroid

ヴィム・ヴェンダースの盟友である、撮影監督ロビー・ミューラーの写真集。今年の7月4日に78歳で亡くなられた。

「Interior」と「Exterior」の二冊組で、映像のキャプチャー画像をストーリー仕立てにまとめた小冊子も付属している。


Polaroids: Reihen, Serien, Sequenzen

ドイツの企画展の図録。それ以上全くなんだかわからないが、ボラの背面をグリットに並べた表紙がかっこよくてジャケ買いした。


森村泰昌 作品集「私」の年代記 1985〜2018 My Art, My Story, My Art History

六本木のシュウゴアーツで開催されている同タイトルの作品集。スタジオ撮影時のポラロイドを編集したもの。徹頭徹尾、どこまでも森村泰昌な一冊。


Andy Warhol Polaroid Prints Set 1, 2

アンディ・ウォーホルが「ビジュアルダイヤリー」としてポラロイドを撮り続けていたのは有名な話。

これは米国のKidrobotという雑貨メーカーが、アンディ・ウォーホル財団のライセンス許可を得て製作したもので、ポラロイドを再現した11枚セット。


Arno Fischer: Der Garten – The Garden

ドイツ人写真家のアルノ・フィッシャーによる写真集。妻であり、写真家のズィビレ・ベルゲマンと共に、古い農家に移り住み、住居兼アトリエとして生活する。その中でSX-70を手にとり撮影しているうちに、ポラロイドの偶発的な画に魅了され、撮りためたものを一冊の写真集にまとめた。メランコリックな色合いが美しい。


Sibylle Bergemann: The Polaroids

旧東ドイツ出身の写真家、ズィビレ・ベルゲマンの写真集。前述のアルノ・フィッシャーは、ご主人であり、彼女の写真の師匠でもある。公私にわたってのパートナーであった。

本書はズィビレがプライベートに撮影したとされるポラロイドをまとめたもの。一見、ポラロイドらしい耽美なイメージが並んでいるだけように感じるが、そうとも言い切れない。

風景や抽象的なイメージが多い中で、メイクを施した少女やサーカス団員(おそらくダウン症の人々)のポートレートも含まれており、何かしらの意図を感じる。


Philip-Lorca diCORCIA: THOUSAND

フィリップ=ロルカ・ディコルシアが1000枚ものポラロイドをまとめた写真集。薄いロール紙を用いてなお、ちょっとした辞書ほどの分厚さがある。一枚一枚じっくりというより、ペラペラとめくりながら流れで掴んでいく感覚が面白い。


Laura Letinsky: TIME’S ASSIGNATION, THE POLAROIDS

カナダ出身の写真家、ローラ・レティンスキーの写真集。今では生産中止になっている55タイプのフィルムを使い、1997年から2008年までにスタジオで撮られたものをまとめている。淡いセピア色のイメージがポラロイドの斜陽感を一層際立たせているように感じる。


Patti Smith: Land 250

2008年にカルティエ財団現代美術館で開催されたパティ・スミスの個展「Patti Smith, Land 250」の同タイトルの写真集。

題名は、夫と兄弟を亡くした1995年から使用しているポラロイド写真機に由来する。失意の中で表現をする意欲を失っていたパティが、アーティストとしての自信を取り戻すきっかけとなったのがポラロイドだった。

墓石や彫刻、曇り空などの風景の他に、ヴァージニア・ウルフのベッド、ヘルマン・ヘッセのタイプライター、ロバート・メイプルソープのスリッパなど、親交のあった人物の私物なども撮っている。


Paolo Gioli: Etruschi Polaroid 1984

映像作家で写真家でもあるパオロ・ジォーリの作品集。正直、名前もジョリなのか、ギオリなのかすらよくわからない。追い追い研究したいけど、手がかりが少ない。

本書は古代エトルリア美術の彫刻をモチーフにして、多重露光やコラージュ、エマルジョントランスファーなどを駆使した前衛的な作品になっている。ジョナス・メカスのような印象も受ける。


染谷學 写真展「ほうたれ」@蒼穹舎

待ってましたの染谷さんの写真を最終日に拝見してきた。今回は35mmのみでまとめられていていた。スクエアからの移行は進んでいるだろうなと予想はしていたけれど、予想以上に完成されている印象だった。シリーズとしてはまだ枚数が足りないとおっしゃってはいたが、35mmがしっくり来ているの間違いなさそうだ。

何度も言うようだけど、染谷さんの写真の魅力は「残滓感」にあると思っている。「灰汁」「渋み」と言い換えてもいいかもしれない。それでいて、ため息が出るほどプリントは美しく、銀塩の愉しみが凝縮されている。粒状感やブレなどに走らず、あくまでクリアなファインプリントでありながら、どこか引っ掛かりがある写真になる。とても稀な写真家ではないだろうか。

今回の展示では、さらに進んで、気負わず、奇を衒わず、狙わず、決めず、すうっとカメラを向けて、さっと撮っているようだった。以前はもう少し「エグ味」を感じる写真も多かった印象だったけど、そういう表向きな強弱は影を潜めていた。

染谷さん曰く、そういうあざとさのようなものから離れてみたくなったそうだ。年齢や身体的な条件が変化するにつれ、自然と「何でもない写真」へと向かわせているのかもしれない。何でもなさというのは写真の醍醐味であり、ゴールの見えない道なき道とも言える。

そもそも写真自体に答えを求める必要もないし、答えを求める意味もない。ただ目の前に在る光景。ただそれだけで十分ではないか。そう納得させてくれるような展示になっていた。

35mmに移行しても、気負いがなくなっても、距離感が変わっても、本質的な染谷さんの魅力が損なわれることはなく、むしろ研ぎ澄まされてきた感すらある。また新たな領域へ誘ってくれそうで、これからも楽しみでならない。

インベカヲリ☆写真展「ふあふあの隙間」@ニコンプラザ新宿 THE GALLERY

数年前に神保町画廊で初めてインベカヲリ☆さんの写真を見たときに、皮肉や滑稽さを含んだセットアップに興味を持って、写真集『やっぱ月帰るわ、私』を買った。

後々になって自分の好みとは合わないと感じつつも、なぜか手放さずに持っていた。古本屋に買い取ってもらおうとしても、最後の最後で選外になり、今でも本棚に立ててある。ある種の呪いのように思えて時折怖くなる。

インベさんの写真には、好奇心なんて甘っちょろいものは通り越した強欲をはらんでいて、迂闊に「こういうの面白い」とか「こんな写真好きだなあ」とかなんとなく言いづらい。いや、別に本人からしたら、好き勝手言ってもらっても構わないのだろうけど。

今回、写真とテキストを並べて展示してあった。デジタル出力の彩度が強調された写真の脇に、各々の被写体のエピソードが綴られている。時間はかかったが、すべて流し読みせずに回ってみた。写真と文との関係を考えざるを得ないけど、これはこれでありだなと思えた。にしても、このポップさがかえってズシリとのしかかる。

自分にも潜在的にこういう部分がありそうだなと。共感というより戸惑いというか、ん、いや、どうだろう…。小学校の頃は、下校途中、「駄菓子屋行こうぜー」ってなって、「行こう!」って応えたのに、家と駄菓子屋の分かれ目に差し掛かったとたん、「じゃまた明日!」って帰っちゃう感じの子だったな。

そんなことはさておき、結局また写真集を買ってしまった。『ふあふあの隙間』と『理想の猫じゃない』。はたして、この2冊は手放せない写真集となるのか、手放したくても離れなくなる写真集になるのか、恐ろしくも楽しみで、どうにもむず痒い。

そんな感情を掻き立てられてしまうことこそ、まんまとインベカヲリ☆という写真家の術中というか呪術にはまってしまっているのかもしれない。

村越としや「濡れた地面はやがて水たまりに変わる」@タカイシイギャラリー・フォトグラフィ/フィルム

室内の写真が気になった。それも2枚もある。村越としやの写真ではきわめて稀だと思う。展示でも写真集でも見たことがない。何か理由があるのか今度直接訊いてみたい。別になんとなく入れてみたくなったとかでもいいんだけど、室内を選ぶのはかなり珍しいから、やっぱ気になる。

他には、人や馬の写真はこれまでよりも距離感が近い。少し前から人物が入るようになった。その距離がさらに近くなっていた。室内もそうだけど何か心境の変化でもあったのかな。

ずっと同じことをやっているんだけど、変わらないようでいて何かしら微妙に変化してることがある。その微妙な変化を感じ取りたいので、これからも具に見ていきたい。

自分にとっては長く継続して見るべき写真家だから。

「CAMERAer」と、野村浩 展「“NOIR” and “Selfie MANBU”」@POETIC SCAPE

今回の展示は、コミック形式の著書「CAMERAer」の世界を3Dに置き換えた場合に、何が起こるのかを考察する装置になっていてる。それも二部構成。これがなかなか手ごわくも楽しいショーになっていた。

急いては事を仕損じる。野村作品を見るときは、まずこれ。安易な結論に落ち着かないように、見たままを感じつつ、ひとつひとつ自分なりに考えてみる。ヒントとなる仕掛けを紐解きながら、こういうことを言っているんじゃないか、ああいうことが言いたいんじゃないのかと、思索を深めていく。それから、作家の意図を尋ねてみる。その後に、拡大解釈を始めてみる。それが野村作品の醍醐味だと思う。

さて、入ってすぐの「Noir」は「CAMERAer」の終盤に登場するあの真っ黒なプリントの展示が再現されている。その中央部には、スライドプロジェクターでさまざまな画像が映写されている。カッシャン、カッシャンと映写機の作動音と共に、実際の展示と映像の二重像が、淡々と場をつないでいく。このシンプルなレイヤー構造が「とにかく見てみる」というシンプルな行為へ誘い、ついつい長居させられてしまう。

映写機は不思議なもので、とても没入感のあるメディアだと思う。壁面照射による反射光像を観てはいるのだけれど、どこか透過光の要素も含まれている気がする。透過光の受動的な作用と、反射光の能動的な作用が同時に働いて、まったりとリラックスした状態で観賞しつつも、積極的に何かを読み解こうとする意識も働く。

昨年丸亀で開催された志賀理江子「ブラインドデート」もそうだった。展示物と映写像を組み合わせた場の空気は、意識の収斂と拡散を繰り返すように、独特のリズムで観賞することができた。あの没入感は映写機によることころが大きいのかもしれない。

きっと展示物と映写機の組み合わせは劇薬的な手法ではないかと思う。作品との必然性がなければとてもチープな展示になりかねない。そういう意味では野村さんの「Noir」は見事にハマっていた。見る行為そのものと、見ているモノの意味や価値を問い、鑑賞という体験がいかにして生まれるのかを問う仕掛けではないかと解釈した。ひとまず今のところは。

次に、奥の「Selfie MANBU」のセクションでは、あたかも「マンブ君」自身がリアルに撮影したと思わせるスクエアチェキで撮られたセルフィやライフログ写真が並んでいる。もちろん野村浩自身が撮影したものではあるのだけれど、「マンブ君」の日常を追体験するような展示になっている。擬人化といえるのかわからないが、リアルとフェイクの間のような仕掛けで、気軽に楽しめる雰囲気でありながら、その手法はエキスドラの不可解さを彷彿とさせ、どこかキツネにつままれたというか、煙に巻かれたような気分にもさせられる。

70年代にポラロイドのSX-70が登場するや、こぞって美術家や写真家たちはポラロイドに飛びついた。当時は出力に時間を要するフイルムが全盛で、その場で見られるというポラロイドの即時性は相当なエポックメイキングな出来事だったと思う。それまでモノクロ作品しか発表していなかったウォーカー・エバンスが初めて撮ったカラー作品がポラロイドだったことからも窺いしれる。

今では、SNS ─ 特にインスタグラム ─ に慣れ親しんだ人たちが行きつくリアルは、今はチェキなのかもしれない。スマホの中だけでなく、実際に手にとってシェアできるチェキは、即時即効性という意味でもスマホと相性がいい。デジカメすら使ったことのないスマホネイティブ世代にすんなりと受け入れられたのではないだろうか。復活を遂げたポラロイドはいかんせん価格が高く、スクエアフォーマットの優位性も、スクエアチェキの登場で差を埋められた。

元祖ポラロイドを知る者としては、スクエアチェキのサイズは物足りなさもあり、鮮明な画像は郷愁に欠ける面もあるけれど、気軽に楽しめるインスタントフィルムがあるのはうれしい限りだ。近い将来、大判のスクエアチェキがでたら面白いかな。

フィルムとポラロイド、フィルムとデジカメ、デジカメとスマホ、スマホとチェキ。比較対象であったり、新たな関係性であったり、写真の変遷であったり、世代ごとの写真の捉え方であったりと、いろいろ考えが及んで行く「Selfie MANBU」だった。

野村浩ワールドに引き込まれてどれくらい経つだろう。毎回いくつもの気づきを与えてくれ、いくつもの悩みを与えてくれた。写真を媒体に見ることを問う作家姿勢、驚愕の着想、その着想に耐えうる過剰なまでのアプトプットは、鑑賞者に止めどない楽しみと悩ましさと、理解しがたさを投げ掛けてくる。実際に足を運び、生で展示空間に浸かり、答えなき答えを考える体験の面白味は、野村浩作品の真骨頂と言える。

「CAMERAer」発売記念イベントは、小林美香さんの「写真歌謡」と相まって神回だった。先日の美術家・豊嶋康子さんとのトークは風邪でダウンしてしまいあいにく聴くことができなかった。かなりの痛恨事ではあるものの、おいおい野村さんに伺えればと思う。

川田喜久治「百幻影 ─ 100 Illusions」@キヤノンギャラリーS

楽しみで仕方なかったのに、いろいろ週末に予定が詰まっていたり、体調を崩したりで、行けなくて、結局最終日になんとか見に行けた。

今回の「百幻影」は「ラスト・コスモロジー」と「ロス・カプリチョス」を巧みに再編した展示になっていた。いくつかのブロックに分かれた展示構成、PGI謹製のプレーンな額装、ハーネミューレが醸し出すほのかな光沢感。抑えめで、控えめな演出だからこそ、イメージの強度が純粋に伝わってくる。圧巻の個展だった。ほんと滑り込めてよかった。

写真にも言葉にも確固たるものを持ちながら、写真にも言葉にも縛られず翻弄されず、メタファーの世界を自由自在に闊歩し、変幻自在に飛びまわる様は、常に変化と挑戦を続けている川田さんならでは。畏敬を抱かずにはいられない。

そういえば最近、川田さんがInstagram(@kikuji_kawada)を始められた。これがまたすごくて、連日アグレッシブな投稿をされている。ほんとヤバイ(笑) 速攻でフォローしてしばらくしたら、自分の投稿にいいねをつけてくれたことがあった。うれしさと驚きで地に足がつかなくなってしまった。

毎朝、「MASAHISA FUKAE」を一章ずつ読む

朝起きて、身支度をすませて、出勤前に一章ずつ読んでいる。また次の日に、朝起きて次の章を読んでいる。このペースがとても良いように思えて、一気読みしたり、空いた時間に読んだりしていない。そんなルーティンを数日繰り返しながら、深瀬昌久という写真家を少しずつ探求させてもらっている。

この分厚くて重たい書物を上梓するまでに、どれほど犠牲を払ってきたのだろうか。どれほど辛酸を舐めてきたのだろうか。どれほど煮え湯を飲まされてきたのだろうか。どれほど孤独と向き合ってきたのだろうか。私には想像を絶する。

トモ・コスガさんには感謝しかない。

9月28日の戸田昌子さんとのトークイベントが楽しみでならない。

津田洋甫展 – 初期作品 1950 – 60年代 @MEM

久しぶりにMEM。戦後の浪華写真倶楽部の復興に尽力したという津田洋甫の写真を初めて見ることができた。ほとんど世に紹介されていなかった50年代から60年代のヴィンテージプリント。日本の新興写真、主観主義写真として位置付けられる作風で、一枚一枚が力強く、実験的な写真ばかりだった。とにかくすっごくかっこよかった。

ギャラリーで少し話しを伺ったら、浪華写真倶楽部は1904年(明治37年)に結成し、現在もメンバーを変えながら活動が続いている国内最古のアマチュア写真クラブだとか。活動期間は結成から現在までで優に100年を超える。ピクトリアリスムからストレートフォトグラフィ、シュルレアリスムなどの文脈に影響を受けながらも日本独自の新興写真を追求した中心的なグループだった。

1904年は日露戦争が始まった年。ブレッソンが生まれる4年前、スティーグリッツが「ギャラリー291」を立ちあげる1年前。安井仲治はまだ1歳で、植田正治や桑原甲子雄が生まれるのはこの10年後。そう考えるだけでも、浪華写真倶楽部の歴史を実感できる。

関西のアマチュア写真クラブは独自の発展を遂げていて、長い歴史もあり、会員は高い矜恃を持って活動している。関東のアマチュアクラブとは文化も気質も違うところが多いので、そうと知らずに関西の写真クラブを迂闊に語ると痛い目にあうと聞いたことがある。何事にも敬意を持つことが大切だ。

津田洋甫は66年以降は作風を大きく変え、日本の自然をテーマに撮影をしており、今回の初期作品は戦後の新興写真の流れを色濃く残す貴重なプリントだと思う。MEMは埋もれてしまった作家や作品を掘り起こして、再評価をしてゆく取り組みも魅力で、未見の作家と出会える絶好の空間になっている。

星野寿一写真展「こうみょう《光明》~ NOVA 〜」 @ギャラリー冬青

ずっと待ち望んでいた星野さんの初個展に伺った。湿版写真に取り組み始めてからというもの、親子ほど年の離れた後輩である私が、顔を合わせるたびに「星野さん、そろそろ個展やりましょう!」とけしかけていた。半分本気で半分挨拶がわり。いや、日が経つにつれて8:2で本気になっていた。それくらい星野さんの湿版の石仏は圧倒的で、個展という形で早く見てみたいと熱望していた。それが貸ギャラリーではなく、コマーシャルの冬青で個展が決まったと知ったときは本当にうれしかった。私がけしかけたことなどまったく関係なく、星野さんの湿板を冬青の高橋社長が見初めたからに他ならない。

同期として参加させていただいたWSの卒展やOB展、はたまた歴戦の兵から意欲溢れる若手までがごった煮で集う「東京8×10」などで折にふれて石仏の写真は拝見してきた。とりわけ湿板写真になってからというもの、石仏の存在感がより一層際立つようになっていた。被写体と技法が見事に一致していると思えた。

湿版写真の魅力は滑らかな諧調と独特の立体感で、肉眼で捉える以上のリアリティが立ち現れる。湿板はかなりの労力と根気と財力が必要な技法でもあるので、実際に技術を学び習得しながら作品にまで昇華させるには途方もない時間と費用がかかったはずだ。意欲と熱意に溢れる姿は本当にすごい。奥様と共に本当に尊敬している。

久しぶりに訪れた冬青の室内で、一点ずつ時間をかけて観賞させていただいた。その中で何度も何度も観てしまう一枚があった。どこか仏様が手を合わせているようにも見える水芭蕉だった。エディションが進む前にと思い意を決して購入を決めた。

赤々舎で「MASAHISA FUKASE」を予約する

ほぼ「鴉」でしか知り得なかった深瀬昌久の40年間の集大成。「深瀬昌久アーカイブス」の創設者兼ディレクターであるトモ・コスガ氏の人生をかけ心血を注いだ仕事だと拝察する。おそらく今後の写真史で最も重要な書物のひとつになるだろう。そんな大げさな、と思う勿れ。それほどの期待感はあるし、価値があると思う。

全く個人的な話なのだけど、私がとてもお世話になったというか、救ってくれたというか、拾ってもらったというか、つまり返しきれない恩を受けた方が、深瀬氏と面影が似ていて、初めてセルフポートレートを見た時にとても驚いたことを覚えている。しかも生き様もどこか重なるところがあり、勝手に妙な因縁を感じている。

深瀬昌久という写真家と向き合うことが、私の恩人と向き合うことになりそうで、そこはかとない畏れを感じつつも、楽しみにしている自分がいる。

市川孝典 個展 「street cred by QUIET NOISE」と「Hello, stranger! by POST」

市川孝典さんの展示はナディフでの線香画以来だった。大きく手法を変えながらも、おぼろげな記憶の中のイメージを定着させるというのは一貫していた。

今回は「時間と記憶のズレ」をテーマにした美しくもユニークな展示で、恵比寿のPOSTと池ノ上の QUIET NOISE(以下QN)共に素晴らしい作品だった。

SNSというモチーフで流行性や時代性を持った作品でありながら、これほど見ても見ても見飽きない、これから先、ずっと見続けてもきっと飽きないだろうと確信めいたものを感じる作品は珍しい。

鑑賞距離の変化でもガラリと印象が変わる。特にQNの小作品では距離による変化が顕著で、2、3歩前後するだけでも発見の連続だった。

何気なく目で追っているSNSのタイムライン。画像の読込み中に現れる円形のローディングアイコン。その背後には読み込みが完了する前のぼやけた画もしくは白背景。パッと実像が現れるまでのちっとしたもどかしさ。

すでに読込み済の画像ならば、一瞥で流してしまったかもしれない画像も、読込み中だと期待値が少しだけ高くなる。ほとんどの画像は見えてしまった時に、期待したほどではなかった何でもなさが残る。

日常で何度となく目にする一瞬の不完全さへのささやかな期待感。そこには投稿者の意図や思惑が入り込むこと無く、見る側の記憶や想い出が重なって、脳内で自分寄りの画像に置き換わる。

そんなSNS上での一秒あるかないかの瞬間をとどめ、観る者の視覚と思考を心地よく揺さぶり解放してくれる。これはひとつ手元に置いて、じっくりと向き合いたいと思わせる作品だった。

「カメラを止めるな!」を観る

めずらしく映画鑑賞の話。

あんまり映画とか観ないんだけど、たまたま休日に予定がなくて、なんとなく映画でも観るかと、新宿のケイズシネマに朝イチで行ってみて、すでに20人くらいの行列が出来てて、とりあえず最後尾に並んでみて、15分後にチケット代払って、30分後から予告が始まって、10分後に本編が始まったので、ぼんやり観てみたら、すぐさま引き込まれて、前半が瞬く間に過ぎて、後半がさらにヤバいのなんのって、観終わったら拍手喝采したくなるテンションで、公衆の面前で、「もう、最高かよ!」って叫んじゃったよ、心の中で。

この映画はね、愛ですよ、愛。

この夏、これ観ないと絶対損するよ!!!

版画作品の額装を依頼する

昨年購入した濱野絵美さんの版画作品を額装してもらった。依頼はいつものポエティック・スケープの柿島さん。額装コーディネーターとしても凄腕で、そのうえ版画も得意分野。版画の魅力を知り尽くしているので、安心しておまかせした。

まずは「耳付き」を活かすため、プリントにはオーバーマットを被せずにフローティング仕様に。版画の用紙は四辺を裁断していない耳付きの紙が好まれる。イメージサイズに合わせてカットする場合も、手でちぎるなどしてムラを作ることが多い。版画は紙の厚みや繊維質など、微細な物質感も作品の魅力の一部になっているので、耳を活かすのも大切なポイント。

そしてフレームは木製の白磨きにしてもらった。薄っすらと木目が浮き出て、アルシュ紙の紙肌や地色に馴染んでいる。白ラッカーだとフレームだけが主張してしまうし、無垢のままだと木目がうるさくなる。今回は白磨きが正解だった。

すべてのバランスのとれた清々しい額装で、期待以上の仕上がり。ほぼおまかせで預けっぱなしだったけど、大満足の額装になった。既成のインチフレームもいいけれど、一度はプロの仕事を体験するとその凄さがわかるはず。

ちなみに、もうひとつ銅版画の見所にプレートマークがある。銅版画を刷る際は高圧のプレス機にかける。ローラーを通る時に、版のエッジが当たり紙が破れたり、下敷きのフェルトを傷めたりしないように、予め版のエッジを削って傾斜をつけて慣らしておく。

傾斜がついた版をプレスすると、緩く角度が付いた四角い凹み跡がつく。写真でいうとマットの窓のような形になる。これをプレートマークと呼んでいる。刷り工程で必然的に凹むものだが、美しいプレートマークはイメージサイズの輪郭を際立たせ作品の完成度も高める効果がある。

だから、考え方の一つとして、できれば先ず版画はシートで観賞すると面白いと思う。インクが乗ったプリント面、耳、プレートマークなど、薄いけれど確かな物質感を手にとって楽しめる。それから額装しても遅くないというか。

この感覚はバライタのモノクロプリントに近いものがあるけど、さらにミクロな視点かもしれない。ついマニアックな見方になりがちだけど、写真に負けず劣らず版画も魅力的なメディアだと思っている。

写真集で話せる場所@book obscura

ひとり黙々と写真集に向き合うのも変えがたい時間だけど、写真集が好きな人と一冊の写真集をめくりながら、あれこれ読み解いていくのも楽しい。たまたま居合わせた人が興味を持って話の輪に加わるのも面白い。

写真一枚一枚に注目して、何が写っているのかを観察したり、撮影された時代、季節や時間帯について考察したりしてもいい。写真のシークエンスに目を向けて、どうしてこの組み方なんだろう、どうしてこの流れにしたのかと意見をかわすのもいい。造本、装丁について話すのもいい。感材や機材について触れてみてもいい。

また、同時代の写真集を俯瞰的に見比べたり、時系列に紐解いたりするのも楽しい。同じモチーフ ─ 例えはフリードランダーと森山大道の車窓とか ─ を見比べてみるのもいい。ロバート・フランクの「The Americans」のように、同じタイトルでも出版社が変われば編集が変わり、並びや画面サイズ、トリミングも変わることがある。「版」や「刷」が異なれば、同じ写真でも違いがあるかもしれない。

作家による製作意図やヒントが散りばめられていることもあれば、並びの妙だけで投げかけてくるものもある。深読みも厭わず、自ら問いを探して、用意されていない答えを見出す。これが楽しい。

その時その時、その人その人の経験や習熟度で答えは変わるだろうし、写真史や美術史を踏まえればまた読み方は変わり、さらに理解は深まって行く。

それができる場所のひとつに、古書店《book obscura》がある。店主の造詣の深さ、熱意、行動力、どれを取っても眼を見張る。誰よりも店主が最高に写真集が好きで、最高に楽しんでいる。こんな素敵な場所が近くにあるなんて、とても有難いことだよね。

柿崎真子 展「アオノニマス 廻」@POETIC SCAPE

楽しみにしていた柿崎さんの個展に足を運んだ。馬車道の展示以来だから約3年振り。

アオモリとアノニマスを組み合わせた造語 ── アオノニマス。とても響きのいい美しい語感で、素晴らしいタイトルだと思う。そこに毎回、漢字一文字が続く。今回は「廻」。どの写真も渾々として尽きることなく、沸々とたぎる根源的な廻りを捉えているようで、ひたすら見ていたくなる。

じっと見つめていると、青森の何処かだと知りながら、ここは一体どこなのだろうと考えつつ、やがてここがどこかは気にならなくなっていく。柿崎さんの写真の不思議な匿名性だ。

柿崎さんの写真はとても深度は深い。目の前にある土地 ─ 土壌、淡水、海水、鉱物、大気、草木 、微生物 ─ と対峙することで、青森が青森になる前の、さらにまだ地名らしい地名が付く前の、さらに人の営みが始まるずっと前の太古の生態系を想像させる。

同タイトルの写真集も良い。柿崎さんにとって初の綴じ製本。既刊の2冊はいずれもスクラム製本で綴じられていなかった。これはこれで良かったけど、やはり造本のしっかりした写真集は美しい。サイズ感といい装丁といい、写真の並びといい、どれを取っても秀逸。

裏表紙にも貼られている写真がなんとも不思議で、何かに見えて何にも見えない。まさにアノニマスな存在。さらに20〜24頁の流れは凄みがあり、この一冊の肝になるシークエンスだと思う。

クロヌマタカトシ個展「気配」@ギャラリー上り屋敷


クロヌマタカトシさんの木彫。拝見するたびに少しずつ変化している。ひとつの宗教観を宿していて、気品と美しさの中に畏怖の念を内包しているようでもあり、人間の性や業の深さ、狂気を暗示しているようでもある。

仏師の松本明慶さんがドキュメンタリー番組で「自ら仏を彫るのではなくて、すでに宿っている仏様を世に出す手伝いをするだけです」ということをおっしゃっていた。どうもその境地に近づいているような気がする。

写真家の田中大輔君がクロヌマさんのアトリエ写真を撮影していて、それも展示されていた。クロヌマさんが田中君の写真展にたまたま訪れて、感じるものがあったようで、アトリエ撮影を依頼したそうだ。どこまでも田中君の写真であったが、木彫と見事に呼応していた。

床に置けなくなったら天井がある

久しぶりに写真集の買取を依頼する。部屋が狭いのでやむなし。いろんな意味で生活に支障をきたし始めた頃合いに、泣く泣く厳選して手放している。

それでも充電池のメモリー効果のようにじわじわと棚の空きは少なくなっていく。持ち家じゃないので今後どうしたものだろうかと自問自答する日々。

今回買取を依頼した某古書店主も私物の写真集が大変なことになっているそうで、大好きなものに囲まれてホクホクしながらも、増えつづける本は悩みの種でもあるらしい。

でも同居人に「床に置けなくなったら天井があるから大丈夫」と言って慰めてくれたとか。さすがにその発想はなかった(笑)

まだ自分は床はおろか、棚の心配だけをしていればよのでずいぶんマシな方だと思えた。買いっぱなしにできる環境はうらやましくもあるが、制限がある方が工夫のしがいがある。

熊谷聖司 展|EACH LITTLE THING @POETIC SCAPE

いよいよ「EACH LITTLE THING」の#9、#10が刊行された。10巻揃えたら三方背の特製ケースがもらえる。コツコツ集めてきた人にとってはうれしい特典だ。「EACH…」の10巻と頒布小冊子「VERY LITTLE THING」を合わせた全巻が、ピシッと箱に収まる姿にほくそ笑んでしまう。

今回の展示も素晴らしい。印画紙は反射率の高いクリスタルペーパーを使っていて、これが熊谷さんの写真と相性抜群だった。印画紙のほのかにメタリックな光沢感がハイライトを活かし、ピントがシャープなのにどこか柔らかい印象を受ける。フラットな展示構成と相まって、気持ちの良い空間になっていた。写真集とはまるで違うテクスチャなので、見比べてみるのもおもしろい。

「縦位置でカラーのみ、セレクトと編集にあまり干渉しない」を続けることで、熊谷さんはすべてを等価で見たいという感覚が生まれたそうだ。イメージの縦横や大小、比率の違いなどの要素を省き、セレクトも編集も(信頼できる)他者に委ねる。できるだけ要素を少なくすることで見えてくるものとは。今回で「EACH…」は一区切りとなったけれど、フラットにものを見てみるという試みは、また違った形で続きそうだ。

それと「book obscura」で同時開催の『熊谷聖司のマルクマ本店 -写真家はどう写真集をつくるのか』 も良かった。熊谷さんがどんな写真家や文筆家に影響を受けて、何を踏んできたかが垣間見える。自筆の文章やイラスト、写真などが壁面いっぱいに貼られ、意識と無意識を混在させるようにヒントが散りばめられている。写真集づくりのプロセスも辿れ、さらに深く読み解くきっかけになるイベントだった。

橋本とし子写真集『キチムは夜に飛ぶ』刊行記念写真展 @ふげん社

ふげん社の刊行記念展に最終日の終了間際に駆け込む。

タイトルの「キチムは夜に飛ぶ」がまず気になる。娘さんの突然発した言葉から直感的に付けたタイトルだそうだ。ユニークだけれど、これがしっくりとくる。

一見、時代性があやふやで、現代を撮っているとわかっていても、大正や昭和初期の情緒を感じさせる。ぎゅっと圧縮された異空間に足を踏み入れてしまったような写真たち。どこか乱歩的で怪奇な雰囲気が漂っている。それでいて愉快。居心地の良さと悪さが同居してる。

さらに写真集の表紙が面白い。藤色の地に黒艶の箔押し文字。左上にクロッシェ帽を被る少女。踏み込んだデザインだけれど、写真の良さを引き出しているように思う。これだけ攻めていて成立させるなんて本当にすごい。Book Photo PRESSの長尾敦子さんのデザイン。

高コントラストや粒状感はご主人の影響が少なからずあるとは思うけれど、この怪しい独特な世界観と相性が良いようだ。キチム(吉夢)の不可思議な世界は大人心も子供心もくすぐってくれ、とわくわくする夢物語のようだった。

福井守 作品展 @OUTBOUND(吉祥寺)

吉祥寺のOUTBOUNDで福井守さんの木工作品を見に行ってきた。間伐材や流木などの素材を活かしながら、作家の頭の中にある心地の良い形を削り出している。手つかずの素材をあるがままというよりも、自然界に存在する数学的な美しさをという感じだ。

一点ずつ手に取りながら見ていくと、艶やかに黒光りした作品のひとつに目がとまる。アサガオの種を両手一杯くらい膨らませたような楕円体をしていた。上部に稜線のような一筋のエッジが伸びていて、底には3、4本の亀裂が走っている。

片手で持つには不安だったので、そっと両手ですくい上げてみる。予想よりもずしりと重く、磨かれた曲面が手に心地よい。角度を変えるとまるで違う表情になる。自分の気持ちの良い角度を探してみたくなる。

キャプションには「樫/篠山にて間伐される/鉄染め」とあった。樫の間伐材か。「鉄染め」って何だろう? スタッフの方に話を伺うと、サビ釘などを酢に浸して作った酸化鉄溶液を材に塗布し、タンニンと反応させて木肌を黒く変色させる技法なのだとか。草木染めにも使われていて、あのお歯黒と同じメカニズムらしい。

そこに在るだけで、その場が居心地よくなる木工オブジェ。このお店でまた素晴らしい作家に出会うことができた。