
8月の末に山上新平さんの個展が告知された。DMに使われているメインヴィジュアルを見た瞬間に既視感を覚えた。名前にも見覚えがあった。山上…山上、…新平、Shimpei Yamagami…、あ、そうだ…。
何年か前の「IMA」に掲載されていた人だ。改めて調べてみると「EQUAL」というモノクロ作品が新人枠に載っていた。そうそう、これだ、この人。
たった一枚のモノクロ写真を見た瞬間に、ドッと心拍数が上がるような強烈な印象を受けたのを思い出した。他にもモノクロで森林を撮る人はいるし、何人かイメージが重なる写真家も思い浮かんだ。でも、他とは比べようも無いくらい彼の写真は異質で、眼に喰い込んでくるような圧力があった。
雑誌を閉じて間髪入れず山上さんのサイトを検索した。貪るようにポートフォリオを見た。写真集は? …まだなさそうだ。展示は? …特に載ってない。情報が少ない、というかほぼ存在してない。手詰まり…。それ以上追うことができずに、山上さんの写真を見る機会はなく、いつの間にか、頭の片隅に追いやられていた。
あれから何年かして、ポエティック・スケープの告知をきっかけに記憶が雪崩れ込んできた。うろ覚えとか、おぼろげにとか、そう言えばとか、なんとなくとか、曖昧なものではなくて、はっきりと鮮明な像が呼び覚まされた。
例えが変かもしれないが、『Death Note』の主人公―夜神月がデスノートの所有権をいったん放棄してノートに関する記憶を失った後、再びノートを手にした瞬間に、失った記憶が蘇るシーンがある。あの描写に近い感覚だった。
とにかくプリントを早く見たくて、初日に駆けつけた。まず驚いたのは想像よりもかなりサイズが小さかったこと。SNSの画像やDMから受けた印象は大四ツくらいの大きさはあるか、もっと大きめかなと思っていた。本当になんの疑いもなく。ところが、外寸はA4サイズでイメージサイズはハガキ大ほどと、たっぷりと余白がとられている。サイズ感を勘違いさせる写真というのは初めての経験かもしれない。
小さな写真に近寄って一枚ずつ見ていく。写っているのは森林で、特別なものではない。ただ、対象物は木ではないような感じがする。その場所をただ見ている、その場所にただ佇んでいる、という感じ。ディテールにも目をやる。分離の良い像で枝葉がよくわかる。高解像度というよりも、高密度な写真。モノクロの「EQUAL」ほど圧力は感じないが、解放というほど抜け出ていない。解放の一歩手前。
ギャラリーを一周して気になったのは、暗部の青緑色。ほぼすべての写真に共通する暗部に浮かび上がる不思議な色。微妙な青とも緑ともつかない色彩のせいで、シャドウに目が引きつけられる。山上さん自身は自覚していないようだが、この青緑色によって、まず闇の部分に目が止まり、それから光に目が移る。
一枚の写真の滞空時間が長い上に、いつの間にか何周もしていて、際限なく空間に居続けたくなる。だからと言って、居心地が良いのとは違う。どちらかというと、居心地悪くなる写真。胸がざわつく。だけど、これは何なんだろうと思わせる。ずっと見ていたくなる。一枚一枚に強さがあり、その集合体の展示空間も増幅されて強度が増す。
山上さんのノートがまた興味深い。長年書きためている日記のようなノートがある。ここ1年間に綴った一冊がギャラリーに置いてあり、閲覧することができる。文字そのものの造形が美しくて見入ってしまう。神経質ともとれる細い線。斜画のストロークが長い独特の筆跡。混在する縦書きと横書き。どれもが息苦しくなるほど強くて、いかに山上さんが写真と向き合って、考え続けてきたかが伺い知れるものだった。
一週間後の幅允孝とのトークイベントも聴きごたえがあった。山上さんからの一通の手紙から始まった関係は、まるで親子のようでもあった。幅さんの耳に染み込むあったかい声と、山上さんのマイク越しに増幅された繊細な小声を一言一句聴き逃すまいと固唾をのんで耳を傾けた。至福の時間だった。
山上さんは、写真と言葉の強さが拮抗していて併存できている。強度・濃度・密度・純度がどれをとっても高い写真家なのではないだろうか。会期終了前にもう一度、あの小さな写真を見に行きたくなった。

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