山上新平 展|The Disintegration Loops @POETIC SCAPE

8月の末に山上新平さんの個展が告知された。DMに使われているメインヴィジュアルを見た瞬間に既視感を覚えた。名前にも見覚えがあった。山上…山上、…新平、Shimpei Yamagami…、あ、そうだ…。

何年か前の「IMA」に掲載されていた人だ。改めて調べてみると「EQUAL」というモノクロ作品が新人枠に載っていた。そうそう、これだ、この人。

たった一枚のモノクロ写真を見た瞬間に、ドッと心拍数が上がるような強烈な印象を受けたのを思い出した。他にもモノクロで森林を撮る人はいるし、何人かイメージが重なる写真家も思い浮かんだ。でも、他とは比べようも無いくらい彼の写真は異質で、眼に喰い込んでくるような圧力があった。

雑誌を閉じて間髪入れず山上さんのサイトを検索した。貪るようにポートフォリオを見た。写真集は? …まだなさそうだ。展示は? …特に載ってない。情報が少ない、というかほぼ存在してない。手詰まり…。それ以上追うことができずに、山上さんの写真を見る機会はなく、いつの間にか、頭の片隅に追いやられていた。

あれから何年かして、ポエティック・スケープの告知をきっかけに記憶が雪崩れ込んできた。うろ覚えとか、おぼろげにとか、そう言えばとか、なんとなくとか、曖昧なものではなくて、はっきりと鮮明な像が呼び覚まされた。

例えが変かもしれないが、『Death Note』の主人公―夜神月がデスノートの所有権をいったん放棄してノートに関する記憶を失った後、再びノートを手にした瞬間に、失った記憶が蘇るシーンがある。あの描写に近い感覚だった。

とにかくプリントを早く見たくて、初日に駆けつけた。まず驚いたのは想像よりもかなりサイズが小さかったこと。SNSの画像やDMから受けた印象は大四ツくらいの大きさはあるか、もっと大きめかなと思っていた。本当になんの疑いもなく。ところが、外寸はA4サイズでイメージサイズはハガキ大ほどと、たっぷりと余白がとられている。サイズ感を勘違いさせる写真というのは初めての経験かもしれない。

小さな写真に近寄って一枚ずつ見ていく。写っているのは森林で、特別なものではない。ただ、対象物は木ではないような感じがする。その場所をただ見ている、その場所にただ佇んでいる、という感じ。ディテールにも目をやる。分離の良い像で枝葉がよくわかる。高解像度というよりも、高密度な写真。モノクロの「EQUAL」ほど圧力は感じないが、解放というほど抜け出ていない。解放の一歩手前。

ギャラリーを一周して気になったのは、暗部の青緑色。ほぼすべての写真に共通する暗部に浮かび上がる不思議な色。微妙な青とも緑ともつかない色彩のせいで、シャドウに目が引きつけられる。山上さん自身は自覚していないようだが、この青緑色によって、まず闇の部分に目が止まり、それから光に目が移る。

一枚の写真の滞空時間が長い上に、いつの間にか何周もしていて、際限なく空間に居続けたくなる。だからと言って、居心地が良いのとは違う。どちらかというと、居心地悪くなる写真。胸がざわつく。だけど、これは何なんだろうと思わせる。ずっと見ていたくなる。一枚一枚に強さがあり、その集合体の展示空間も増幅されて強度が増す。

山上さんのノートがまた興味深い。長年書きためている日記のようなノートがある。ここ1年間に綴った一冊がギャラリーに置いてあり、閲覧することができる。文字そのものの造形が美しくて見入ってしまう。神経質ともとれる細い線。斜画のストロークが長い独特の筆跡。混在する縦書きと横書き。どれもが息苦しくなるほど強くて、いかに山上さんが写真と向き合って、考え続けてきたかが伺い知れるものだった。

一週間後の幅允孝とのトークイベントも聴きごたえがあった。山上さんからの一通の手紙から始まった関係は、まるで親子のようでもあった。幅さんの耳に染み込むあったかい声と、山上さんのマイク越しに増幅された繊細な小声を一言一句聴き逃すまいと固唾をのんで耳を傾けた。至福の時間だった。

山上さんは、写真と言葉の強さが拮抗していて併存できている。強度・濃度・密度・純度がどれをとっても高い写真家なのではないだろうか。会期終了前にもう一度、あの小さな写真を見に行きたくなった。

田中大輔 写真展「ひとりの子どもに」 @金柑画廊

初めての金柑画廊は、コンパクトながらとても居心地の良いギャラリーだった。どの駅からもそこそこの距離があるけど、そんな距離感がむしろいいのかも。

マキイマサルファインアーツの3人のグループ展の時に、田中くんは「子ども」の写真に立ち返って、再び向き合いはじめていると言っていた。ゆっくりだけど、先に進んではいるなと思った。

今展では「子ども」以外のイメージも多く加わっている。3人展時にもその傾向があって、限られたスペースながら、見られることを意識した構成になっていた。でもそれは、小さくまとまるとか、角が取れるとかじゃなくて、むしろ、ずぅーんと深くなっている。

田中くんの写真を初めて見た時の違和感がちゃんと残ってくれてる。彼の写真のぎこちなさ、拙さ、抜けの悪さ、不確かさは、ここまでくると強さの支えになっている。

正面を向いた「子ども」の写真は、いわゆるポートレートとかスナップとも違う印象を持つ。彼が声をかけて撮っているのはわかるけれど、関係性が噛み合っていない。まるでハーフミラー越しに対面しているような写真に見える。刑事ドラマの取調室にあるようなアレだ。暗い側から明るい側は見えるが、反対側からは見えない。はたして、どちらが見えていて、どちらが見えていないのか。そんなことを想像してしまう。

それと、進捗が気になっていた写真集。クリップ留めされたマケットが置いてあったので、手に取ってパラパラめくってみる。ほぼ写真のセレクトと順番は決まっていて、ページネーションも予想以上に完成に近づいていた。本当に亀の歩みだけれど、確実に進んでる。期待したい。

泉大悟 写真展「ゼラチンシルバープリント」 @Monochrome Gallery Rain(池尻大橋)

楽しみにしていた泉さんの写真展は最終日になんとか滑り込めた。今年は週末の予定が立て込んでいて余裕がなく、どうしてもピンポイントな日程になってしまう。それでもなんとか見にいけて、ひとまずホッとしている。

今回はいつもの月光荘ではなく、Monochrome Gallery Rainというコマーシャル・ギャラリーでの開催だった。古典技法を含むモノクローム専門のギャラリーで、ご夫婦で経営されている。

たまたま銀座まで出かけていたオーナー夫妻が、月光荘の泉さんの個展を覗いたことから始まったようで、それから何度か個展を開くたびに見にきていただけるようになったそうだ。不思議なご縁が繋がり、コマーシャルギャラリーで個展を開くことになった。

今回は新作の発表というわけではなく、過去作を含めたオーナーのセレクトによるもの。月光荘では自主開催だったから、もちろん泉さん自身でプリントを選んでいた。およそ年一回のペースで個展を開いていたし、自ずと新作を出すことが多かった。他人の手によって選ばれたものは、撮影者の意識の外になるわけで、泉さんからしたら意外なプリントが選ばれたなんてこともあったはずだ。

泉さんと話をしていて興味深かったのが、「球体」の例えだった。撮影する時に、対象は球体の中心にあって、球体の外側から一定の距離で対象を見ているイメージなのだそうだ。よく同心円状という二次元的な表現はあるけれど、それが立体的な球体のイメージというのが面白い。いつも言語の一歩手前のような不思議な感覚の話を聞けるので、泉さんと話すのはとても楽しい。これこそ写真の世界。

そう、泉さんにはいつか写真集を出してもらいたいなと思っている。銀塩プリントのクオリティを再現するとかではなくて、泉さんらしい解釈で編まれた、印刷物でしか味わえない写真集を見てみたい。スデクやケルテスやアジェの古本と並んでも、なんら違和感を感じさせない、時代に消費されない、世代が何周しても楽しめる王道の写真集。たのしみだなあ。まあ、外野が勝手に妄想しても始まらないので、果報は寝て待つとしよう。

第31回 写真の会賞展 @ギャラリープレイスM

第31回写真の会賞は、野村浩さんの書籍『CAMERAer ── カメラになった人々』、それに関連する展覧会『NOIR “and “Selfie MANBU(POETIC SCAPE)』と企画展『暗くて明るいカメラーの部屋(横浜市民ギャラリーあざみ野)』と、一連の『CAMERAer』関連作での受賞となり、特別賞は今年の3月に逝去された須田一政さんの『日常の断片』だった。

須田さんの特別賞は納得。『日常の断片』は最期のカラー作品、集大成に相応しい写真集で、モノクロとカラーにそれぞれ独自の眼を併せ持つ偉才なのだと実感した。

野村さんの『CAMERAer』関連が写真の会賞を受賞したことは、ファンとしてとてもうれしい。しかもマンガ形式の写真論というか、写真論形式のマンガが受賞したことはとても画期的ではないかと思う。

『CAMERAer』は、スヌーピーでお馴染みの『PEANUTS BOOKS』の世界観を取り入れた3コマ漫画だ。マンブくん、カメラドッグ、カメラバード、モスキートーンなど愛すべきキャラクターを媒体にして、核心を突く写真論が展開されている。3コマでオチがないことも実に写真的で、王道の写真史や純粋な光画的な視点をふんだんに盛り込み、読めば読むほどに、じわじわと写真の旨味を味わえる本になっている。

コツコツと展示と作品集を積み重ねながら、2018年に『CAMERAer』を上梓し、新春にあざみ野のキュレーションを経た今、何かしらの写真賞を受賞してほしいなと願っていた。それは、さらなる飛躍とステップアップを期待しているのもあるけれど、何より賞レースであろうが何であろうが、とにかく狭い写真界の俎上に上がりさえすれば、一部のファンに止まらず、野村さんの作品が世に広く評価されると信じているから。

写真への眼差し、 巧みなアウトプット、展示や作品集に昇華させる確かな力量、そして過剰なまでのサービス精神など、写真の核心を突っつく作品群は見事というほかない。写真界に一石を投じるどころか、ひとまず懐石をいただけて、時に化石が発掘され、雨垂れが石を穿ち、いずれ隕石すら落ちる。野村さんの作品にはそれほどの強度とエグい角度がある。これからも遠慮なく、そして抜け目なく活躍してくれたらうれしい限り。

そう、今回の写真の会賞展。須田さんと野村さんがそれぞれ個別に展示するだろうと思ってたら、良い意味で裏切られた。もう、野村さんにしかできない奇跡的な融合展で、須田さんが時にマンブ君に見えたり、須田さんの写真のオマージュというかパロディというか、合作というか、初めての共同作業というか、言葉にならない楽しさだった。

それに、最高だったのが、限定フリーペーパーの『すだ式』。これは傑作だった。あんまり頻繁にいい意味で裏切り続けられると、見る方もかなりカロリーを消費するので困ってしまう。

ロバート・フランク展 – もう一度、写真の話をしないか。 @清里フォトアートミュージアム

たまに、宿泊ほどではないけど、遠出したくなる時がある。そんな折に、清里フォトアートミュージアム(以下K*MoPA)に行ってみることにした。お目当てはもちろん、ロバート・フランク。未発表を含む収蔵品106点の展示を見逃す手はない。特急あずさに乗り込みいざ清里へ!

ロバート・フランクのヴィンテージ・プリントは高騰の一途を辿っている。ワシントンのナショナルギャラリーや世界中のコレクターからの貸出しには高額な保険金が発生するため、展覧会を開催する機会がめっきり減っているという。藝大でも開催されたシュタイデル主催の巡回展『ロバート・フランク:ブックス アンド フィルムス, 1947-2016 東京』は、高額なヴィンテージ・プリントに対するアンチテーゼとして話題になった。

そんな事情が絡んでいなくとも、日本でロバート・フランクのプリント100点余りをまとめて観賞する機会はまずないだろう。K*MoPAとしても収蔵品をまとめて展示するのは初の試みとのこと。国内では23年ぶりの大規模展らしい。おそらく横浜美術館で開催された「ムーヴィング・アウト」という展覧会のことだろう。この頃はロバート・フランクはおろか、写真のこともろくに知らない頃なので、全く知る由もなかった。なおのこと今回の展覧会は有難い。

展示に際して、事前にアメリカまで全所蔵プリントを持ち込みロバート・フランクに1点ずつ確認してもらったそうだ。展示のセレクトも本人の意向が強く反映されているようで、未発表作品が数多く含まれているのもその影響と思われる。現場でロバート・フランクが記録や記憶を頼りに、プリント一枚ごとに何を語ったのだろうと思うとわくわくしてくる。

さて、小淵沢駅から小海線に乗り換え清里駅に向かう。清里駅からタクシーで10分ほどでK*MoPAに到着した。自宅から3時間余り。標高1200mを超えているのでたまに耳抜きが必要になる。

館内は平日とあってか閑散としていたお陰で(私を含めて2人だけ)、ゆっくり一点一点見ることができた。有名な「The Americans」に収録されているプリントは9点に止まるが、そんなことはあまり大したことではなかった。アメリカを中心に、ペルー、パリ、イギリス、スペイン、イタリア、故郷のスイスと、ロバート・フランクが旅した数々の軌跡を、未発表を含めた貴重なプリント通して感じ取れること自体がうれしかった。

撮影年の記憶違いについてもキャプションで触れていて、裏を取って正確な情報で補足しつつ、ロバート・フランクが認識している年のまま記載していた。おそらくすべてのプリントについて、改めて裏取りし直したのではないだろうか。一部撮影年不明のプリントがあったものの、地道な作業の積み重ねにグッとくる。

一番のお気に入りは、出口も近づこうかという最終盤のプリントで、車のフロントウインドウ越しに撮られたものだ。砂埃なのか雨なのか手ブレのせいなのかわからないが、滲んだ窓越しにぼんやりと写る道路標識が堪らなくかっこいい1枚だった。

ロバート・フランクの今の感覚が反映された展示なのは間違いない。開催期間は9月23日まで。次は何年後になるかわからない。早めに観ておいて損はないと思う。

川田喜久治 影のなかの陰 @PGI

2018年8月27日は、川田喜久治さんがInstagramに初投稿した日で、タイムラインが騒つきどよめいた日。初めは半信半疑、日を追うごとに確信に変わり、ある日を境に確証を得た。それにしても川田喜久治さんがインスタをするなんて誰が予想できただろうか。川田さんはいつも自分の安易な予想を軽々飛び越えてくる。いつも自分の予想を良い意味で裏切って欲しいと期待を膨らませているのに、その期待値の遥か上をいく。

川田喜久治はこの2年、毎日3点ほどの写真をインスタグラムにアップし続けています。それらの写真にコメントが書かれることはほとんどないまま、無言の「いいね」がつけられていくその様を、川田は「魔物」と表しています。インスタグラムをはじめ、ソーシャルメディアでアップされた写真は、タイムラインという特殊な空間に彷徨いますが、川田は日々撮影した写真をアップするとともに、プリントにしてまとめています。

PGIウエブサイト, 同展覧会ステートメントより

まさに私も「魔物」の一人。無言になってしまうのは、川田さんにコメントを書きたくてもどう書いてよいかわからないから。いいねをしてしまうのは、写真を見た瞬間、衝動的にそうしてしまいたくなるから。それくらい私にとって川田喜久治さんの写真は特別だった。

季節や時代が落とす陰の不明には背筋が寒くなるし、現実か、夢かとおもえるような光景のなかを迷走してきた。そして、突然の同時性に唖然と立ち止まることもしばし。まぎれもない自分が翳のなかでイメージという誘拐事件に巻き込まれている。しかも、あのハート印の「いいね」を繰り返す見えない人たちの呪文のような声援は、日々の光の謎の奥へと探索をうながしてくる。

PGIウエブサイト, 同展覧会, 川田喜久治のメッセージより

多重露光を用いた手法は他のシリーズでも見受けられ、川田喜久治さんの真骨頂ともいえる手法だ。川田さんが表現しようとしている 時代時代に潜む危機感やカタルシスは、この多重露光との相性が良い。多重露光を使う必要性がある写真家は川田さん以外すぐに思い浮かばない。

今展のタイトルは「影のなかの陰」とあり、よくよく写真を見ていくと、カラー写真の中にネガ像が潜んでいるものがあり、様々な漢字で表現されている「カゲ」という言葉と整合している。影、陰、翳、そして景。何が表で裏なのか区別なく相即不離な状態を写しだしている。タイムライン上で見たつもりになっていたが、やはり画面上では細かなところは観ていないのだなと思った。だからこそ細部をじっくりと追っていける展覧会のプリントには大きな意味がある。

PGIの展示は圧巻、圧倒、圧勝。諸手を挙げて白旗を挙げざるをえなかった。イメージの強度、プリントの品質、壁面の密度、どれをとっても強烈だった。もう一回観に行きたいな。

野村恵子 「山霊の庭 Otari – Pristine Peaks」@KANZAN GALLERY

小谷村の強度のある写真に見入った。信州にある小さな集落の4年間の記録。生きること、死ぬこと、山との共存、命の循環が静かに力強く編まれていた。

野村恵子さんの展示を見るたびにいつも驚かされるのが、プリントサイズや額装方法、展示構成の巧みさだ。サイズや額装、展示位置に写真家として意思が込めらている。もちろん今回は、キュレーターの菊田樹子さんの手が入っていることもあるけれど、ご本人で構成された展示でもその印象は変わらない。いつも強くてうまいなと思うのだ。

菊田樹子さんの見事なキュレーションと、野村恵子さんの展示に対する鋭い勘とが合わさって、立体的に観賞できる空間になっていた。大小様々なサイズ、垂直水平に設置された写真と、そっと添えられたテキストがリズムを生んで、視線が気持ちよく動く。さらに火祭りや猟場の映像、木霊する音響が場の空気を研ぎ澄ましていた。映像と音響は微妙にインターバルをとっていて、それが立体感を演出していた。

例えば、火祭りでひしめく男衆の映像を見ていると、背後でパンっと猟銃が鳴り、思わず振り返る。雪山の猟場の映像を見ていると、火祭りの映像が起ち上り、男衆の人熱が伝わってくる。という具合に、自然と行きつ戻りつしたくなる仕掛けになっていた。もしかしたらこれも循環を意識してのことかもしれない。

この展示は来て見て空間に身を置いて浸ってみないとわからない内容だと思う。フィジカルとしての写真の魅力を体感でる素晴らしい野村恵子さんの個展だった。

アンソフィー・ギュエ 展|INNER SELF @POETIC SCAPE

まずは写真を見てからと思って、とにかく一枚ずつゆっくり見てみた。近寄ったり、離れてみたりしながら出来るだけ丁寧に満遍なく見てみた。

(あれ?)

見る前はテーマからして、ジェンダーや性的マイノリティーについてもっと考えて欲しいと訴えかけるような、迫られるような、問いただすような、一定の緊張感がある写真なのではないかと勝手に想像していた。

ところが、あまりに自然なポートレートだったので、初め少し身構えてしまっていた自分が滑稽に思えた。持つなと言われても持ってしまうのが先入観てもので、やはり実物を見ないと、その場に来てみないとわからないことは多い。

被写体は皆、ふっと力が抜けた穏やかな表情をしている。喜怒哀楽こそ表に出してはいないが、決して無表情、無感情ではない。撮る側と撮られる側の関係が良い状態で保たれている理想的なポートレートだ。だからゆっくりとじっくりと見ることができたのかもしれない。

もちろんLGBT(さらにQやAもあると最近知った)についての問いも内包しているはずだけど、そういうカテゴライズ、細分化について強調はしていない。その人物がどのカテゴリに在るのか、ないのか、特にその説明もない。

むしろ、そういう物差しすらいったん外して、目の前の彼ないし彼女と向き合ってみることから始めてみませんか、とやさしく促されている気がした。

人の内面そのものは写真には写らない。でも、外見 (appearance) は少なからず内面が反映される。社会で生きていくための意思表示であったり、覚悟のようなものであったり、今の気分であったりが、服装やメイク、体つきに表出する。

人は知らないこと、理解できないことを否定しがちで、それに、自分が理解しやすいように簡素化して、極論や安易な答えめいたものに飛びついてしまう。それでは学びはないし、理解も深まらない。

思うに人は多面性というよりも、数えきれない要素が混ざり合うグラデーションで形成されていて、本人にも掴みきれない【INNER SELF】が存在するのではないだろうか。

アンソフィーさんの眼差しを追体験することで、人の内面について、社会や他人や言語が分類する以前のあり様を考えるきっかけになると思えた。

そういう奥行きのある、懐の深い視座があってこそ、ジェンダーや性的マイノリティーについて考えられるようになるのかもしれない。

志鎌猛展「観照」@美術画廊X(日本橋高島屋S.C.)

日本橋髙島屋で志鎌猛さんのプラチナパラジウムプリントを拝見した。日本では中長小西以来5年ぶりの個展だ。そうか、あれからもうそんなに経つのか。

腰を据えて、撮るべき時をじっくりと待ってから撮影された「森の襞」や「観照」に代表される大判の作品と、都市部や植物をとらえた中判作品で構成されていた。低コントラストの穏やかなイメージの中の無限階調は、まさに「諧調」豊かなプリントだった。眼福の極みだ。

5年前、中長小西で初めて志鎌さんのプリントを見る機会を得た。その頃プラチナパラジウムプリントの美しさに触れ始めていて、志鎌さんがとらえた幽玄の世界に魅了され、意を決して作品を購入した。支払いは一年ほどかけて分割でお願いした。一括で払うには高めの価格だったこともあったが、コツコツ払うのも良いのではと思ったのだ。

ギャラリーによっては作品の先渡しができるも所もなくはないが、基本的には全額を支払い終わってからの納品となる。少しずつ無理のない範囲で支払うこと一年後、ようやく完納して作品を受け取ることができた。改めてプリントを見ると、初見の感動が呼び覚まされて、とても感慨深かった。

今回、5年ぶりに拝見したプラチナパラジウムプリントは、どこまでも繊細で優しさに満ちた作品で、志鎌さんの穏やかで真摯な人柄と相まって、とても豊かなひとときだった。

RADIO SWITCHを聴く

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『SWITCH Vol.37 No.3 特集 奥山由之 写真の可能性』の対談もいいんだけど、ラジオってのがまたいいんだよね。森山さんは言わずもがな、奥山さんも、いい言葉を持っている。それに二人ともいい声をしている。聴き入ってしまった。

写真のスタイルは違うかもしれないけれど、通底している感覚はとてもよく似ていて、世代を超えて互いに共感している様子だった。

これを聴いてなんとなく、自分がお二人のプリントを所有している理由がわかったような気がする。根底にある写真観に共感できたからかもしれない。まあ、無理に共通点を探したり、結び付ける必要もないんだけど。

町口さんの写真集愛、造本愛がビシビシ伝わってくる。初めて聴くことも多かった。短い時間だけど濃厚な内容だった。で、相変わらずかっこいいです。『Daido Moriyama: Odasaku』読み返そっと。

  • 前半【写真家・奥山由之と森山大道が見た景色。】
  • 後半【町口覚インタヴュー】

RADIO SWITCH | J-WAVE | 2019/03/02/土 | 23:00-24:00 http://radiko.jp/share/?t=20190302230000&sid=FMJ

暗くて明るいカメラーの部屋@横浜市民ギャラリーあざみ野

話題沸騰の野村浩さんがゲストキュレーターとして招聘されたカメラと写真のコレクション展にいってきた。昨年から楽しみにしていた企画展。しかも長島有里枝さんと対バン! 何というコントラスト、もちろんいい意味で。

カメラオブスクーラ(オブスキュラ)から始まり、写真の起源、カメラの起源とその変遷を辿りつつ、現代の写真(画像)に繋がる写真史の黎明期を中心に組み立てられている。

というのは、カメラや写真の所蔵展などではさして珍しくもない企画なんだけど、そこに野村浩さんのカメラーの世界観が触媒になることで、格段に味わい深くなっていた。

「双子」のセクションなんて、野村さんの「Doppelopment」と絶妙にシンクロしててゾクッとするし。鏡も蓄光シートも延々と楽しんでしまった。

最終日の大森克己さんのとトークもすごかった。野村さんのメタ視点を的確に捉えながら、自身の写真感を巧みに展開していて、一言一句聴き逃せない内容だった。

それにしても、これほどキュレーションの意味がある所蔵展ってなかなか類を見ないし、他ではあり得ないかも。単体でも魅力的なのに、所蔵品と野村作品が互いに共鳴して増幅してさらに面白くなってる。

本当に奇跡的なコレクション展だった。

AIMYON BUDOKAN -1995-

今回は写真ネタではなくて、何十年ぶりかのライブに行ったというお話です。

大森克己さんのSNSのハッシュタグ「#すべての女は誰かの娘である」がきっかけで知った。ひとまずYouTubeで聴いてみることにした。「君はロックを聴かない」から「生きていたんだよな」「愛を伝えたいだとか」「貴方解剖純愛歌〜死ね〜」など、アップされた動画を公式非公式問わず片っ端から視聴した。

聴けば聴くほど、見れば見るほど、ズブズブと世界観に引きずりこまれていった。新鮮な懐かしさというか、懐かしい新鮮さというか、今昔や新旧を超えた歌詞とメロディだと思った。

ここ数年は音楽を聴くことから離れていた。年齢から来るものなのだろうか。誰となく何となく音楽を聞き流す程度になっていた。いつのまにかCDも買わなくなり、いまだにダウンロードにも抵抗感があったし、Apple MusicやSpotifyなどサブスクリプションの聴き放題もあるけど、YouTubeで事足りた。ずっとそんな感じだった。

それがだ。YouTubeでひとしきり視聴し終えると、アルバム「青春のエキサイトメント」をiTunesでダウンロードし、生まれて初めてファンクラブに入会してしまう。音楽でここまで衝動的に行動したのは今まで記憶にない。

2月18日の月曜日。武道館に集った14,000人の内の1人に加わった。暗転後にセンターステージに青白いスポットが当たり、大きな歓声が上がる。北通路から颯爽と現れ、中央で暫し静かに立つ。

このぞわぞわした感覚は何十年ぶりだろう。

サビ始まりの「マリーゴールド」を皮切りに「君はロックを聴かない」の大合唱までの2時間。凛々しく、雄々しく、清々しく、23歳のシンガーソングライターが圧倒的なパフォーマンスで歌いきった。

退館後、心地い余韻を何かで上書きしたくなかった。スマホで聴きかえすのも今は止そう、と思った。だからあえて別の歌手を聴きながら帰った。

近美の無料観覧日

新年2日は、東京都国立近代美術館の無料観覧日で、ここ3年くらい、毎年この日に足を運んでいる。今年は平成最後の一般参賀ということもあり、お堀周りはいつも以上に賑わっていた。

最初のお目当は、北井一夫「村へ」。学生闘争や三里塚とは打って変わって、淡々とした写真が並んでいる。高度経済成長期に取り残された農村部へ眼差しを向けている。

それから、森山大道「にっぽん劇場」。このボリュームでドンと見られたのは良かった。テカテカのフェロ掛けプリントが良い。

新鮮だったのが、中平卓馬「夜」。1969年の第6回パリ青年ビエンナーレに出品したシリーズで、印画紙ではなく、グラビア印刷。

“写真家が手仕事で仕上げた一点ものの写真作品ではなく、印刷物として、日々社会に大量に流通する写真イメージこそが、同時代における写真のあり方として問題とされるべきだ。”

と、展示のキャプションには有るけど、グラビアのベタがなかなか味わい深くて、これはこれで成立しているし、むしろかっこいい。

下の手前のトラックの後部を写した写真が、恵比寿のPOSTで見た、Sylvia Bataille(シルビア・バタイユ)の「AUTOROUTE」のイメージに近く、興味深かった。

変革の一年でした

今年は仕事でもプライベートでも変革の一年でした。別に転職したわけでも、家族構成が変わったわけでもありませんが、ひとつ節目と言える年でした。

公私ともに気力や体力と相談しながら、一日一日を何とかしのぎ切るだけで精一杯でした。ヘロヘロ、グタグタではありましたが、なんとか乗り切れたように思います。来年も少なからず変革が続いていきそうです。さらに忍耐の一年になるかもしれませんが、もう少し周りに相談しながら、気持ちを穏やかに向かっていければと思います。

その分、写真に関われる時間はとても少なくなりました。写真関係の人付き合いも自ずと減りました。もどかしくもありましたが、少ない時間だからこそ、密度と強度の高い写真に出会えると救われる想いでした。月に一度程度、写真展を見に行ったり、帰宅して夜中に写真集をパラパラとめくったり、壁に掛けた写真をまじまじと見たりするだけで、体の力が抜け、気持ちが楽になりました。

写真集が大好きな吉祥寺の古書店主さんとの「写真研究」「写真談義」ができるようになったのは大きかったです。店主さんによって新しい「問い」をもらえるたびに、心地よい思考が駆け巡り、情報やら知識やらを詰め込みすぎた脳がリセットされました。店主さんとの研究は、来年も楽しみにしています。

投稿のペースはだいぶん落ちてきましたが、 写真展の感想を細々と続けられているのも、相変わらず「写真はなんて面白いんだ!」という初期衝動が支えてくれているからです。それに加え、こんな楽しい写真の世界を、少しでも興味を持ってくれた誰かにさらに好きになってほしいという気持ちがあるからでもあります。誰に頼まれるでもなく、誰に読まれるでもないブログですが、たまたま検索して見つけてくれた人の何かの役に立てたらうれしいです。

今年もお世話になりました。来年もマイペースで続けたいと思います。

ポラロイドの写真集〈その4〉

ポラロイド熱は治ってきたと思いきや、いつのまにか増えてきて、収束どころかむしろ加速してしまっている。

来年、エグルストンのポラロイド写真集がシュタイデルから出るようなので、その辺を潮時にしたいんだけどね。

Manuel Alvarez Bravo: Polaroids

メキシコの巨匠マヌエル・アルバレス・ブラボのポラロイド写真集。世田谷美術館で見た回顧展も記憶に新しいが、カラーのポラとは驚いた。メキシコの出版社 EDITORIAL RM。


Misha Vallejo & Isadora Romero: Siete Punto Ocho

2016年4月16日にエクアドル沿岸を震源とする、マグニチュード7.8の地震が起きた。メキシコも大きな被害に見舞われた。作者のミーシャとイサドラは生存者をチェキやポラロイドで撮影して、それを写真集にまとめた。

この写真集を機に調べていたら、中米は海底に中央アメリカ海溝があり、複数のプレートの境界線が密集している地域で、日本とよく似ていて地震多発地域だとわかった。

こちらも EDITORIAL RM 。


Dennis Hopper: Colors, The Polaroids

俳優デニス・ホッパーが監督を務めた映画『Colors』の撮影の合間に撮っていたポラロイドの写真集。撮影現場のロサンゼルスでたまたま見つけたグラフィティに反応して、気が向くままに撮りためたもの。


Robby Muller: Polaroid

ヴィム・ヴェンダースの盟友である、撮影監督ロビー・ミューラーの写真集。今年の7月4日に78歳で亡くなられた。

「Interior」と「Exterior」の二冊組で、映像のキャプチャー画像をストーリー仕立てにまとめた小冊子も付属している。


Polaroids: Reihen, Serien, Sequenzen

ドイツの企画展の図録。それ以上全くなんだかわからないが、ボラの背面をグリットに並べた表紙がかっこよくてジャケ買いした。


森村泰昌 作品集「私」の年代記 1985〜2018 My Art, My Story, My Art History

六本木のシュウゴアーツで開催されている同タイトルの作品集。スタジオ撮影時のポラロイドを編集したもの。徹頭徹尾、どこまでも森村泰昌な一冊。


Andy Warhol Polaroid Prints Set 1, 2

アンディ・ウォーホルが「ビジュアルダイヤリー」としてポラロイドを撮り続けていたのは有名な話。

これは米国のKidrobotという雑貨メーカーが、アンディ・ウォーホル財団のライセンス許可を得て製作したもので、ポラロイドを再現した11枚セット。


Arno Fischer: Der Garten – The Garden

ドイツ人写真家のアルノ・フィッシャーによる写真集。妻であり、写真家のズィビレ・ベルゲマンと共に、古い農家に移り住み、住居兼アトリエとして生活する。その中でSX-70を手にとり撮影しているうちに、ポラロイドの偶発的な画に魅了され、撮りためたものを一冊の写真集にまとめた。メランコリックな色合いが美しい。


Sibylle Bergemann: The Polaroids

旧東ドイツ出身の写真家、ズィビレ・ベルゲマンの写真集。前述のアルノ・フィッシャーは、ご主人であり、彼女の写真の師匠でもある。公私にわたってのパートナーであった。

本書はズィビレがプライベートに撮影したとされるポラロイドをまとめたもの。一見、ポラロイドらしい耽美なイメージが並んでいるだけように感じるが、そうとも言い切れない。

風景や抽象的なイメージが多い中で、メイクを施した少女やサーカス団員(おそらくダウン症の人々)のポートレートも含まれており、何かしらの意図を感じる。


Philip-Lorca diCORCIA: THOUSAND

フィリップ=ロルカ・ディコルシアが1000枚ものポラロイドをまとめた写真集。薄いロール紙を用いてなお、ちょっとした辞書ほどの分厚さがある。一枚一枚じっくりというより、ペラペラとめくりながら流れで掴んでいく感覚が面白い。


Laura Letinsky: TIME’S ASSIGNATION, THE POLAROIDS

カナダ出身の写真家、ローラ・レティンスキーの写真集。今では生産中止になっている55タイプのフィルムを使い、1997年から2008年までにスタジオで撮られたものをまとめている。淡いセピア色のイメージがポラロイドの斜陽感を一層際立たせているように感じる。


Patti Smith: Land 250

2008年にカルティエ財団現代美術館で開催されたパティ・スミスの個展「Patti Smith, Land 250」の同タイトルの写真集。

題名は、夫と兄弟を亡くした1995年から使用しているポラロイド写真機に由来する。失意の中で表現をする意欲を失っていたパティが、アーティストとしての自信を取り戻すきっかけとなったのがポラロイドだった。

墓石や彫刻、曇り空などの風景の他に、ヴァージニア・ウルフのベッド、ヘルマン・ヘッセのタイプライター、ロバート・メイプルソープのスリッパなど、親交のあった人物の私物なども撮っている。


Paolo Gioli: Etruschi Polaroid 1984

映像作家で写真家でもあるパオロ・ジォーリの作品集。正直、名前もジョリなのか、ギオリなのかすらよくわからない。追い追い研究したいけど、手がかりが少ない。

本書は古代エトルリア美術の彫刻をモチーフにして、多重露光やコラージュ、エマルジョントランスファーなどを駆使した前衛的な作品になっている。ジョナス・メカスのような印象も受ける。


染谷學 写真展「ほうたれ」@蒼穹舎

待ってましたの染谷さんの写真を最終日に拝見してきた。今回は35mmのみでまとめられていていた。スクエアからの移行は進んでいるだろうなと予想はしていたけれど、予想以上に完成されている印象だった。シリーズとしてはまだ枚数が足りないとおっしゃってはいたが、35mmがしっくり来ているの間違いなさそうだ。

何度も言うようだけど、染谷さんの写真の魅力は「残滓感」にあると思っている。「灰汁」「渋み」と言い換えてもいいかもしれない。それでいて、ため息が出るほどプリントは美しく、銀塩の愉しみが凝縮されている。粒状感やブレなどに走らず、あくまでクリアなファインプリントでありながら、どこか引っ掛かりがある写真になる。とても稀な写真家ではないだろうか。

今回の展示では、さらに進んで、気負わず、奇を衒わず、狙わず、決めず、すうっとカメラを向けて、さっと撮っているようだった。以前はもう少し「エグ味」を感じる写真も多かった印象だったけど、そういう表向きな強弱は影を潜めていた。

染谷さん曰く、そういうあざとさのようなものから離れてみたくなったそうだ。年齢や身体的な条件が変化するにつれ、自然と「何でもない写真」へと向かわせているのかもしれない。何でもなさというのは写真の醍醐味であり、ゴールの見えない道なき道とも言える。

そもそも写真自体に答えを求める必要もないし、答えを求める意味もない。ただ目の前に在る光景。ただそれだけで十分ではないか。そう納得させてくれるような展示になっていた。

35mmに移行しても、気負いがなくなっても、距離感が変わっても、本質的な染谷さんの魅力が損なわれることはなく、むしろ研ぎ澄まされてきた感すらある。また新たな領域へ誘ってくれそうで、これからも楽しみでならない。

村越としや「濡れた地面はやがて水たまりに変わる」@タカイシイギャラリー・フォトグラフィ/フィルム

室内の写真が気になった。それも2枚もある。村越としやの写真ではきわめて稀だと思う。展示でも写真集でも見たことがない。何か理由があるのか今度直接訊いてみたい。別になんとなく入れてみたくなったとかでもいいんだけど、室内を選ぶのはかなり珍しいから、やっぱ気になる。

他には、人や馬の写真はこれまでよりも距離感が近い。少し前から人物が入るようになった。その距離がさらに近くなっていた。室内もそうだけど何か心境の変化でもあったのかな。

ずっと同じことをやっているんだけど、変わらないようでいて何かしら微妙に変化してることがある。その微妙な変化を感じ取りたいので、これからも具に見ていきたい。

自分にとっては長く継続して見るべき写真家だから。

「CAMERAer」と、野村浩 展「“NOIR” and “Selfie MANBU”」@POETIC SCAPE

今回の展示は、コミック形式の著書「CAMERAer」の世界を3Dに置き換えた場合に、何が起こるのかを考察する装置になっていてる。それも二部構成。これがなかなか手ごわくも楽しいショーになっていた。

急いては事を仕損じる。野村作品を見るときは、まずこれ。安易な結論に落ち着かないように、見たままを感じつつ、ひとつひとつ自分なりに考えてみる。ヒントとなる仕掛けを紐解きながら、こういうことを言っているんじゃないか、ああいうことが言いたいんじゃないのかと、思索を深めていく。それから、作家の意図を尋ねてみる。その後に、拡大解釈を始めてみる。それが野村作品の醍醐味だと思う。

さて、入ってすぐの「Noir」は「CAMERAer」の終盤に登場するあの真っ黒なプリントの展示が再現されている。その中央部には、スライドプロジェクターでさまざまな画像が映写されている。カッシャン、カッシャンと映写機の作動音と共に、実際の展示と映像の二重像が、淡々と場をつないでいく。このシンプルなレイヤー構造が「とにかく見てみる」というシンプルな行為へ誘い、ついつい長居させられてしまう。

映写機は不思議なもので、とても没入感のあるメディアだと思う。壁面照射による反射光像を観てはいるのだけれど、どこか透過光の要素も含まれている気がする。透過光の受動的な作用と、反射光の能動的な作用が同時に働いて、まったりとリラックスした状態で観賞しつつも、積極的に何かを読み解こうとする意識も働く。

昨年丸亀で開催された志賀理江子「ブラインドデート」もそうだった。展示物と映写像を組み合わせた場の空気は、意識の収斂と拡散を繰り返すように、独特のリズムで観賞することができた。あの没入感は映写機によることころが大きいのかもしれない。

きっと展示物と映写機の組み合わせは劇薬的な手法ではないかと思う。作品との必然性がなければとてもチープな展示になりかねない。そういう意味では野村さんの「Noir」は見事にハマっていた。見る行為そのものと、見ているモノの意味や価値を問い、鑑賞という体験がいかにして生まれるのかを問う仕掛けではないかと解釈した。ひとまず今のところは。

次に、奥の「Selfie MANBU」のセクションでは、あたかも「マンブ君」自身がリアルに撮影したと思わせるスクエアチェキで撮られたセルフィやライフログ写真が並んでいる。もちろん野村浩自身が撮影したものではあるのだけれど、「マンブ君」の日常を追体験するような展示になっている。擬人化といえるのかわからないが、リアルとフェイクの間のような仕掛けで、気軽に楽しめる雰囲気でありながら、その手法はエキスドラの不可解さを彷彿とさせ、どこかキツネにつままれたというか、煙に巻かれたような気分にもさせられる。

70年代にポラロイドのSX-70が登場するや、こぞって美術家や写真家たちはポラロイドに飛びついた。当時は出力に時間を要するフイルムが全盛で、その場で見られるというポラロイドの即時性は相当なエポックメイキングな出来事だったと思う。それまでモノクロ作品しか発表していなかったウォーカー・エバンスが初めて撮ったカラー作品がポラロイドだったことからも窺いしれる。

今では、SNS ─ 特にインスタグラム ─ に慣れ親しんだ人たちが行きつくリアルは、今はチェキなのかもしれない。スマホの中だけでなく、実際に手にとってシェアできるチェキは、即時即効性という意味でもスマホと相性がいい。デジカメすら使ったことのないスマホネイティブ世代にすんなりと受け入れられたのではないだろうか。復活を遂げたポラロイドはいかんせん価格が高く、スクエアフォーマットの優位性も、スクエアチェキの登場で差を埋められた。

元祖ポラロイドを知る者としては、スクエアチェキのサイズは物足りなさもあり、鮮明な画像は郷愁に欠ける面もあるけれど、気軽に楽しめるインスタントフィルムがあるのはうれしい限りだ。近い将来、大判のスクエアチェキがでたら面白いかな。

フィルムとポラロイド、フィルムとデジカメ、デジカメとスマホ、スマホとチェキ。比較対象であったり、新たな関係性であったり、写真の変遷であったり、世代ごとの写真の捉え方であったりと、いろいろ考えが及んで行く「Selfie MANBU」だった。

野村浩ワールドに引き込まれてどれくらい経つだろう。毎回いくつもの気づきを与えてくれ、いくつもの悩みを与えてくれた。写真を媒体に見ることを問う作家姿勢、驚愕の着想、その着想に耐えうる過剰なまでのアプトプットは、鑑賞者に止めどない楽しみと悩ましさと、理解しがたさを投げ掛けてくる。実際に足を運び、生で展示空間に浸かり、答えなき答えを考える体験の面白味は、野村浩作品の真骨頂と言える。

「CAMERAer」発売記念イベントは、小林美香さんの「写真歌謡」と相まって神回だった。先日の美術家・豊嶋康子さんとのトークは風邪でダウンしてしまいあいにく聴くことができなかった。かなりの痛恨事ではあるものの、おいおい野村さんに伺えればと思う。

川田喜久治「百幻影 ─ 100 Illusions」@キヤノンギャラリーS

楽しみで仕方なかったのに、いろいろ週末に予定が詰まっていたり、体調を崩したりで、行けなくて、結局最終日になんとか見に行けた。

今回の「百幻影」は「ラスト・コスモロジー」と「ロス・カプリチョス」を巧みに再編した展示になっていた。いくつかのブロックに分かれた展示構成、PGI謹製のプレーンな額装、ハーネミューレが醸し出すほのかな光沢感。抑えめで、控えめな演出だからこそ、イメージの強度が純粋に伝わってくる。圧巻の個展だった。ほんと滑り込めてよかった。

写真にも言葉にも確固たるものを持ちながら、写真にも言葉にも縛られず翻弄されず、メタファーの世界を自由自在に闊歩し、変幻自在に飛びまわる様は、常に変化と挑戦を続けている川田さんならでは。畏敬を抱かずにはいられない。

そういえば最近、川田さんがInstagram(@kikuji_kawada)を始められた。これがまたすごくて、連日アグレッシブな投稿をされている。ほんとヤバイ(笑) 速攻でフォローしてしばらくしたら、自分の投稿にいいねをつけてくれたことがあった。うれしさと驚きで地に足がつかなくなってしまった。

毎朝、「MASAHISA FUKAE」を一章ずつ読む

朝起きて、身支度をすませて、出勤前に一章ずつ読んでいる。また次の日に、朝起きて次の章を読んでいる。このペースがとても良いように思えて、一気読みしたり、空いた時間に読んだりしていない。そんなルーティンを数日繰り返しながら、深瀬昌久という写真家を少しずつ探求させてもらっている。

この分厚くて重たい書物を上梓するまでに、どれほど犠牲を払ってきたのだろうか。どれほど辛酸を舐めてきたのだろうか。どれほど煮え湯を飲まされてきたのだろうか。どれほど孤独と向き合ってきたのだろうか。私には想像を絶する。

トモ・コスガさんには感謝しかない。

9月28日の戸田昌子さんとのトークイベントが楽しみでならない。