岡原功祐「Fukushima Fragments」@エスパス空(大正大学内)

okaharakosuke

福島の写真集をひとつ手元に置いておくとしたらなんだろうと思っていたときに、岡原さんの写真集が目にとまった。すぐさまSO BOOKSで予約した。なんでこれを選んだのかときかれると、答えに窮してしまう。しいて言えば、誠実さと覚悟がある写真家だなと感じたから。だた、直接お目にかかったことがないので、説得力に欠けるんだけど。そのあと、いろいろ思うところがあって、岡原さんのオリジナルプリントも手元に置いておくことにした。

下記は開催中の写真展のプレスリリースとYOU TUBE の動画。引用しておきます。

Fukushima Fragments – 福島のかけら- 岡原功祐 Kosuke OKAHARA

会期:2016年4月1日(金)〜 6月25日(土)

開廊時間:10:00-19:00

休廊日:会期中無休

特別協力:NPO 法人東京画  後援:豊島区

2011年3月11日、あれから福島に流れた 5 年余りの時間、その土地に「留まりつづける時間」に自らの身を継続的に置いた写真家がいます。 岡原功祐、36歳男性、日本国籍、既婚、パリ在住。 震災直後、初めて福島の地に入る時、彼は「怖い」とその本音を語りました。 目に見えない放射能の恐怖が待ち受けるエリアへの立ち入りは コソボ紛争に始まり、幾多の戦場や争乱、南米のマフィアの闘いに身を投じてきた岡原にとっても、いまだかつて経験したことのない未踏の領域の不安として彼の前に立ちはだかっていることが見てとれました。

2015 年秋、岡原が継続して撮影してきた「Fukushima Fragments」がフランスの出版社、Edition de La Martinière から出版されました。

“撮影の際には、一瞬で消えるような状況や風景ではなくあえてその場にある、一定時間残る景色に集中した。”

震災の記憶が次第に風化して行く中、私たちはこの本がもたらしてくれる真実に改めて対峙する必要があります。

現代社会が生み出す様々な人災、その最たるもののひとつとして原子力発電所の事故があげられます。

パンドラの箱が開けられた時に起こった出来事、「Fukushima Fragments」が伝えるメッセージを謙虚に読み取りたいと思うのです。

Artist Statement

「人間が歴史から学んだことは、歴史から何も学んでないということだ」

ウィンストン・チャーチル

僕は福島で「かけら集め」を始めた。 今まで使ったこともなかった大判カメラを担ぎ、自分の心に触れる時間を切り取っていった。 すぐに消えることのない放射能、それと同じように、すぐに消えないシーンと向き合った。 人、物、少し変わった風景、今も残る奇妙な風景、 美しい瞬間、そして惨状。 自ら用意した箱に、かけらを集めていった。

「箱がいっぱいになった時、それらと出会うことになる人たちは、この出来事をどのように理解するのだろう。」

そんなことを考えながら、僕は福島をさまよった。

すでに震災から 5 年が経過した。状況は中々変わらず、人々は粛々と生活を続けている。 僕が唯一できることは、撮りためた写真を後世に残そうとすることだと思う。 この災害が自分たちにとってどんな意味を持つのかを考えるために。 そして、次の世代の人達が、この災害がいったい何であったのかを理解し、過去を振り返ることのできる道具を作るために。

ーー 引用: エスパス空・プレスリリース

長島有里枝「家族について/our home」@Maho Kubota Gallery

Maho Kubota Gallery のこけら落とし展、長島有里枝「家族について/our home」を観賞してきた。

長島さんの写真は、遅ればせながら「SWISS」のあたりから見始めた感じだ。いわゆるガーリーフォトブームの中での長島さんは、正直ほとんど知らなかった。その頃はそもそも写真に出会っていなかったから。

2年ほど前に「写真を読む夜」というトークショーを聞いたときに、長島さんの想いを聴くことができて、すっかりファンになってしまった。その時に開催されていた水戸芸術館の「拡張するファッション」を観ることで、長島有里枝の今を感じることができた。

長島さんはずっと「家族」をテーマに写真を撮っている。家族の形態が変わるにつれて、被写体も少しずつ世代が変化しているけど、テーマはあくまで「家族」だ。近作の「SWISS」や「5 Comes After 6」では息子にフォーカスされている。今回の展示でも息子を中心とした日常生活が写し出されている。また展示スペースの1/3をインスタレーションが占めている。古着や端切れのパッチワークを縫い合わせたテントだ。長島さんの母親との共同作業だという。

作品をよく見てみると家族の中でも、親子関係に意識が向いているように感じる。一生のうちで親と子がいっしょに過ごせる時間は思っている以上に少ない。お互いに何かをしてあげられる時間は限られている。長島さんの写真はそういった親子の希少な時間をかみしめ、味わっているような印象を受ける。

長島さんは、ガーリーフォトのアイコンとして括られてしまうことへの不満を持っていた。デビューのきっかけとして受け入れながらも、そのモヤモヤは晴れぬまま。写真の仕事で肌で感じた男性社会への憤りもあったという。自分ではコントロールできない数々のどうしようもなさへの反発が、長島有里枝の作品の原動力になっているのかもしれない。

どうにもならないことなんか脇に置いて、もっと親と向き合い、子にまなざしを向けたいという気持ちがあるのではないだろうか。親子の貴重な瞬間を写真におさめながら、ずっと日常を生きる写真家でありつづけてほしいと思った。

同じものを観つづけること。

同じものを毎日のように観つづけるって奥が深い。部屋の壁にかかった写真をみるたびにそう思う。

毎日のことだから、「みる」といってもいろんな度合いがある。チラッと視界に入るだけとか、ふと目にとまるとか。立ちどまってぼんやりとながめる。数分の間ジッと見つめる。たまに細部を凝視する。

いろいろな「みる」を積み重ねながら、その写真と向き合う。何年もかけてとことん向き合う。

みえ方はいつも同じではなくて、その時の気分や体調によっても違ってくるし、今までと違う経験を重ねることでもきっと変わってくる。

で、ときに別の写真に掛け替えてみる。そしてまた向き合ってみる。そうすると、前の写真のみえ方が変わったりする。

とことん向き合える1枚の写真に出会ってみたくて、またいろんな写真をみに、いろんなところに足を運ぶ。同じものをみるために、たくさんのものをみる。それをひたすら繰り返す。その過程でもいろいろみえてくる。

【観賞前】福山えみ『岸を見ていた』@Poetic Scape


待ちに待った福山さんの個展。4年半ぶりか。そんなに開いてたんだ。まだ観てないけど、もうすでに部屋に飾りたい気分。期待はふくらむ。同タイトルの新作写真集も楽しみだ。

福山えみ『岸を見ていた』
Emi Fukuyama 【I Had Seen the Shore】

  • 会期:2016年5月11日(水)~6月18日(土)
  • 会場:POETIC_SCAPE
  • 東京都目黒区中目黒4-4-10 1F
  • 月・火:アポイント制
  • 水  :16:00-22:00
  • 木~土:13:00-19:00
  • 日・祝:休廊

◆ オープニング レセプション
2016年5月11日(水)18:00-22:00

◆クロストーク:福山えみ×尾仲浩二(写真家)
2016 年5月21日(土)18:00-19:30

  • 会場:POETIC_SCAPE
  • 要予約、定員20名
  • 参加費:1,000円(トーク後1ドリンク付)

クロストークのお申込はメール(front-desk@poetic-scape.com)またはPOETIC SCAPEのfacebookページのメッセージにて、参加者の氏名、人数をお知らせください。

→【観賞後】福山えみ『岸を見ていた』

吹雪大樹写真展「太陽系の最果てにあるという雲」@クロスロードギャラリー

ブラックトナープリントがかっこいい!

コンビニのコピー機でデータ出力した、いわゆる白黒コピー。だからといってチープさを売りにしているわけではない。ゼロックスとかコピーアートっていうのがあったらしいけど、そのへんのたぐいでもない。もっとシンプルにコピー機のトナーインクの質感を活かしたプリントという印象だ。

フォーマットの違うデジカメで撮影した後、すべて2:1のアスペクト比にトリミングしている。おそらくどのデジカメでもスマホでも設定で選べない比率だと思う。ようするに撮った後に必ずひと手間加えていることになる。撮影をして、2:1にトリミングして、モノクロに変換して、白黒コピー機で出力している。

デジタルデータをインクジェットやラムダで出力する際の品質は、おのずとCプリントに近づけたいとか、バライタプリントに近づけたいという方向性になりやすい。その延長線上で、フイルムのクオリティを凌ぎたいという欲求もあるかもしれない。

しかし、吹雪さんのプリントはそれじゃない。かといってキッチュでもない。まったく違うベクトルで品質を追求している。解像度の低さやコントラストの高さも、定着したトナーのグロス感とあいまって不思議な質感になっている。バライタでもなくインクジェットでもない味わいがある。コピー用紙一枚でこんな魅力を出せるのかと正直驚いた。

それに展示方法にも特徴がある。細クギ2点留めのピンナップは、クギを半ばまで打ったあと、紙を頭側に寄せて浮かせている。フローティングピンナップ。この方法で時間がたつと、紙が湿気を出し入れして伸び縮みするうちに、勝手にまっすぐ張り平坦になるらしい。試行錯誤しているうちに発見したそうだ。コピー用紙の酸いも甘いもわかっていての展示方法だ。

吹雪大樹さんは大阪でギャラリー・アビィを運営し「HOLGA会」の会長という肩書きがある。大阪のホルガ愛好家なら知らない人はいない。でも時にそれがレッテルとなって、「ホルガの人」らしくない作品と受け取られてしまうことも少なくない。ならば、まだ知名度の低い東京でこそ展示する意味があるのではと、オーナーの篠原さんが声をかけたそうだ。

タイトルは、無人探査機ボイジャー1号に由来するとのこと。以下は吹雪さんによる展示のプレスリリースを引用させていただいた。

太陽系の最果てに雲があるという。まだ誰も見たことはないが、必ずそこにある と信じられている。 今その雲へ探査機ボイジャー1号が時速6万kmの速さで向かっている。しかし辿 り着くのは300年後。そこに何があるのか?何も無いのか? 私たちが知る事はで きないだろう。 この数十枚かの写真もそんなものだ。誰かに届く確証もなく、しかしそこへ向け て、すでに放たれている。

―― 引用: 吹雪大樹写真展「太陽系の最果てにあるという雲」

ボイジャーについてちょっと調べてみると、1977年9月5日に打ち上げられた探査機は、驚くことにいまなお運用され、太陽系の最果てへ向けてひたすら飛行が続けられているようだ。

フランスの名プリンター


フランスのプロラボ「Diamantino Labo Photo」のディアマンティーノ氏。まったくその存在を知らなかったのだが、あるフランス在住の写真家がきっかけで知ることとなった。美術館の展示用のプリントを数多く手がけ、名だたる写真家から信頼を寄せられているプリンター界の巨匠だという。

このラボの創設が2009年とずいぶん新しい。1984年からキャリアをスタートさせているので、十二分に経験を積み信頼を得てから、満を持して起ち上げた感じだ。フランスはわりとクラシカルなプリントも根強い人気があるらしく、フィルムからのプロセスが充実しているプロラボは需要が高いのだろう。

メモ代わりに動画をアップしておこう。フランス語とかさっぱりわからないけど、仕事への誠実さがひしひしと伝わってくる。水張りテープでフラットニングしているのがおもしろい。塩ビらしきパネルに濡れたバライタを張り付けて、周りを水張りテープで留めてしまう。乾燥したら、カッターでテープの中央をカットしてプリントを外す。プリントのエッジにはテープが残っているので、たぶん残りは切り落として仕上げるんだと思う。

写真を観るたびに、なんとなくひとりでいるのことが自然になってくる。


写真をシェアする時代ながら、写真を観れば観るほど、ひとりでいることが自然になってくる。わいわいやるのもいいんだけど、そうじゃない時間の方が長くなってきた。

孤独ってほどじゃなくて、独りで向き合うのが向いてるみたい。そうすると、たまにある写真を囲んでのわいわいが、いっそう楽しくなる気がする。

前にも似たようなこと書いたかも。まあいいや。

LOGAN 350-1 Compact Elite Mat Cutter

とうとうマットカッターを購入してしまった。外注すれば造作ないのに、つい自分でもやってみたくなってしまう。エントリーモデルの一つ上のLOGAN 350-1 Compact Elite Mat Cutter。これでも相当大きい、というか長い。

さっそく試しに4、5枚ほど窓を抜いてみたけど、ちゃんと計算してから、丁寧に作業すればそれなりに美しく仕上がる。ガタもなく安定感があり、操作性も悪くない。ローガンだけあって道具としてよくできている感じだ。

でも、量産で均一に仕上げるには相当な習熟が必要だと感じた。特に肝心の目盛り合わせが難しい。たかだか数枚試した程度とはいえ、計算した通りのサイズにならない。たぶん目盛りの合わせ方がまちまちだらだ。目盛りの線が太めなので、線の外側に合わせるか、内側に合わせるか、それとも真ん中に合わせるかでサイズが微妙に変わる。この辺はDIYの米国らしい。あとは自分で何とかする、というわけだ。目盛のクセをつかめたら、ばらつきが無くなるかもしれない。

最近は高精度なフルオートカットで仕上げてくれるところも多いから、きちっと同じサイズを量産したいなら外注が良いと思う。PGIのような額装のプロ集団ともなれば、おのおのカスタムされた道具を駆使して、手作業でも正確にマットを切り出すせるのだとか。道具は自分で作る。まさに熟練の職人の域だ。

額装をプロの手に任せたいと思った時、最近はよく中目黒の POETIC SCAPE にお願いしている。ギャラリーオーナーであり、額装コーディネーターでもある柿島さん。伝統的な写真額装に加え、空間デザインやインテリアデザインの知識も豊富で、プリントに合わせてバランスよく仕上げてくださる。安心して依頼できる額装コーディネーターのひとりだ。

それに四谷三丁目の Roonee 247 Photography の篠原さんも百戦錬磨の腕利きの職人。こちらも長年の経験を活かして、いろいろ相談しながらお願いできる。

プロに追いつこうとは思わないけれど、ローガンの公式動画を見つつ、身の回りのプリント用にブックマットを作りながら腕を上げていきたいな。

 

奥山由之「THE NEW STORY」@POST

奥山由之さんの写真は、とにかく写真だなって思った。尾ひれもはひれも無い写真。単純に楽しく見られる。ホンマタカシさんの序文で補足はされているけれど、全くと言っていいほど理屈遊びはしていない。

光の捉え方をテーマにしているとある。そもそも写真は光が無ければ写らない。これ以上ない大前提がテーマだ。写真は光と陰っていうけれど、どちらが先かといえば、絶対的に光が先。陰を捉えるってことは、光を捉えていないといけない。光がなければだだの真っ黒けだ。

光がテーマと聞くと、あまりにも当たり前のことなので、「なんだ普通だな」って軽く流したり、「じゃ、コンセプトは?」って深読みしたりしないで、ただ観るのが吉。シンプルにいい写真はいいんだと思える感情は理屈を軽やかに超える。

今は写真がちょっと小難しくなっているかもなって思ったりする。まあ、別いいと思う、小難しいことがあっても。興味を引くことも多いし。でも、写真の魅力に触れた時ってどんな時だったろうかと、思い返してみても良いのではないだろうか。

写真はアートだとか、写真は写真でしかないとか、あれこれ線引きをしたり、線引きしなかったりするのは勝手だし、私もいろいろと写真の意味合いを勝手に勘ぐっている。

だからこそ、根本的な写真の愉しみは忘れてはいけないなと思う。奥山さんの写真を観るとそんな気持ちになった。

バス・ウィルダース「Stay」@ギャラリー冬青

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冬青で開催中のバス・ウィルダース「Stay」を観賞した。

とてもパーソナルな視点の作品だった。年老いた母親が住まう家の中の写真。カメラを煩わしそうにしながら写る母親。その合間には流しのフライパン、庭先の花、シワの寄った布や衣類、雑貨ともゴミともつかない細かなもの。母親の生活を形成している家の中の物と事がストーリーを紡いでいる。

バス氏はオランダの大学で教鞭を振るい、アートの振興、後進の育成に努めていると聞く。近年は冬青と提携して日本の作家発掘にも力を注いでいる。

そんな意欲的な活動をする息子から見れば、母の居場所はあまりにも小さな世界で、何故こんなところで留まっていられるのか理解に苦しむのだろう。なんとかしてあげたいと思ってしまう。しかし、母にしてみれば息子の気遣いは大きなお世話なのだ。この小さな世界が母親の全てであり、今の息子の価値観では計れない母親の生活がある。

それでも息子は母を想い続けることはやめないし、やめようがない。ジレンマを抱えながらも、母の居場所を、今の生き方を受け入れようと、丹念に家の中を写真におさめる。小さな世界の小さな変化に静かに目を向けている。

親の老いに直面した時に、子は大きな変化を求められる。パーソナルな視点ではあるけれど、とても普遍的なテーマだと思う。

バス氏とは残念ながら未だに面識がなく、肩書だけが先行していた感があった。しかし作家としてのバス氏を見た時に、その人となりが少しだけわかったような気がした。

渡辺大祐「Toilet Papaer」@スタジオ35分

渡辺大祐さんの作品は初めて。というか名前すら知らない写真家だった。でも予感めいたものがあって、まず見てみたいと思い、足を運んだ。

予感的中。これは面白い写真家に出会えた。

ギャラリーはスタジオ35分。この日は写真研究家の小林美香さんとのトークショーだった。トークは爆笑と驚きと感動の嵐に。ここんところ体験していない盛り上がりを見せた。トーク終了後も余韻冷めやらぬ感じで、じっくりと展示を見つつ、作家と居合わせた人との会話が弾んだ。

さて、作品について触れておくと、タイトル通り、ひたすらトイレットペーパーを撮り続けているシリーズだ。厳密に言うと、トイレットペーパーだけでなく、ホルダーにセットされている状態、もしくはトイレットペーパーが個室にある空間を撮っている。

今回は1,000枚のトイレットペーパーの写真を展示している。ピンナップでグリッドに並べられた約500枚と、ホルダーからカラカラ流れ出たトイレットペーパーのように、約500枚のプリントを数珠繋ぎにしたり、床に撒いたりしたインスタレーション。それに大判のプリントが2点の構成だ。

撮影期間は2002年から2004年と2012年から現在まで。約7年間の記録だ。前期はすべてフィルムで撮影され、後期はデジタルに移行している。展示でいうとグリッドの方が全てデジタルで、インスタレーションの方が全てフィルムになる。

中断の理由はある出来事が原因だ。ある日、いつも通りフィルムで撮影していたら、個室から漏れるシャッターとローディングの音が建物の関係者に怪しまれたことがあったそうだ。それ以来、フィルムでの撮影はやりにくくなったとのこと。04年にコンパクトデジカメを手に入れてからは、シャッター音もOFFにできるようになり、晴れて撮影を再開している。

別に悪いことをしているわけではないんだけど、妙な後ろめたさもつきまとう。そこにフェティッシュな、スケベな空気が漂う。本人はいたってフラットに撮ってはいるが、そんな雰囲気は否めない。

デジタルの方のグリッドに目がいく。なんとなく見ているうちに、自然と細部に引き込まれていく。見るが観るに変わる。バリエーションの多さに驚く。収集する写真は型やクセが見えてくるものだが、渡辺さんの写真には型が見えてこない。

「写真家たるもの、一生撮り続けられるものがないといけないなぁと思って。おじいちゃんになっても撮っていられたら」

穏やかな笑顔の奥に、確固たる写真家としての強さを感じた。

荒木経惟「センチメンタルな旅」限定復刻版

写真集についてはInstagramに記録のみ投稿するうちに、なんとなくここで感想を書かなくなってしまった。でも、これについては少し書き残しておこうと思う。

荒木経惟・私家版「センチメンタルな旅」の実物は一度だけ見たことがある。3年半ほど前、荻窪の六次元で「写真集を贈る日」という連続トークイベントがあった。その第6回に参加した時のことだ。ゲストは写真家の古賀絵里子さん。インタビュアーは木村俊介さんだった。ゲストがお気に入りの写真集を3冊持ってきて、対談中に紹介するという趣向で、そのうちの一冊が「センチメンタルな旅」だった。ちなみにほかの2冊は、小島一郎と立田英山のだった。

古賀さんが学生の頃に、この「センチメンタルな旅」に出会い思わず泣いてしまったという。この写真集がきっかけとなって、古賀さんを写真家の道へと向かわせた。ある老夫婦の有り様を追い続ける「浅草善哉」に至ったのも、自然の流れだったように思える。

持参の「センチメンタル…」はダストカバーがなく、装丁もかなり傷んでいた。買った時からすでに状態はあまり良くかなったらしい。その上、これまで何度も何度も、数え切れないほど見返して、さらにぼろぼろになってしまったのだとか。

参加者に回覧してくださり、自分の番になると、気が急きながらも、できるだけ記憶に留めておこうとした。速読よろしく瞬間視で右脳に焼き付けていく。だからといって、見た後に特別な感情が湧き起こったわけではなかった。その時は伝説の写真集、世界的な稀少本というバイアスで満たされていて、それ以上の感想もなく「見た」ことがすべてだった。古賀さんのように運命的な出会いとはいかなかった。

3年以上過ぎて、もう「センチメンタル…」を見たという実感が残っていない。現物はもう手に取れないかもしれないと、時折、写々舎のiPadアプリのスキャンデータを閲覧した。とりあえずすべてのイメージを見ることはできる。少しずつ夫婦の関係性を想像するようになり、この写真集の魅力をもっと感じたいと思うようになった。でもやはり実際に本を手にとってみないと伝わってこない気がした。画像を確認するだけでは物足りなくなってくる。いつかは手元に置いておきたい。いつからかそう思うようになった。状態にもよるが、超高価な上に、ネットですら在庫を見つけるのも稀な本だ。おいそれとは買えない。

そこへ持ってきての限定復刻版の発売。テンションが上がるではないか。ただ初めての復刻というわけではない。余談かもしれないが、2001年にSteidlから出版された「The Japanese Box」の中に「センチメンタルな旅」も含まれたいた。他には中平卓馬「来るべき言葉のために」と森山大道「写真よさようなら」、それに「Provoke1〜3」が含まれるという木箱入りの豪華版。これも相当レアなボックスセットだ。

そういう意味では、今回は純粋な国内での復刻版と言える。さっそくAmazonで予約を入れた。予定通りに配達されるとすぐに開梱した。慎重にシュリンクを剥いで、腰帯を破らないようにダンボールのスリーブを外す。そっとページをめくる。

思っていた以上にグレーだ。それも中間よりもハイライトよりのグレー。そのうち印刷がフェードアウトしてしまうんじゃないかと思うほどの淡さだ。でもこれが私家版の印刷の再現なのか。古賀さんの時もiPadの時も感じなかった印象だ。でもその淡さが妙に腑に落ちた。

はたして「センチメンタルな旅」は荒木経惟とってどんな写真集なのだろう。無愛想で、厳めしい表情で写る陽子さんはどんな方だったんだろう。

見れば見るほど比類のない私写真の魅力に惹きつけられてしまう。やはり写真集は手にとってこそなんだと思った。

五月女寛さんの「つつ」

恵比寿にあるFarmer’s Tableを訪れて、一目惚れした小さな器。陶芸作家の五月女寛さんの「つつ」。主にミニチュアの家のオブジェを手がける作家さんで、この「つつ」は初めての器のシリーズとのことだった。

手びねりで作られた筒型は、薄っすらと灰色で、細かな貫入模様が美しい。見ていて飽きがこない。陶器のことは詳しくないけど、たまにこういう出会いがあるのはうれしい。

今度は中目黒のMIGRATORYで個展があるよなので、ぜひオブジェ作品を拝見してみたい。

紫外線露光機づくり 箱組み編

紫外線露光機づくりは、1月に蛍光灯器具の配線が済んでからしばらくお休みしていた。「紫外線露光機づくり・配線編」での悪戦苦闘はすっかり投稿し忘れていたが、また今度覚書を残しておこうと思う。

そういうわけで、「配線編」をすっ飛ばして「箱組み編」となる。まあ、そろそろ暖かくなってきたし、箱でも作ろうかという感じで、春分の日をはさむ3連休を使って作業に取り掛かる。といっても、3日のうちの半日ほどで出来あがってしまったんだけど。

当初の計画では箱も木工の練習を兼ねて、焼き枠と同じハードメープル材を使ってしっかりしたものを作ろうかと思っていた。ただ、この計画が原因で諸準備に手間取ってしまい、予想より材料費もかさみそうなため、今回は安価なシナベニヤを使うことにした。シナなら無塗装でも見栄えが良いというメリットもある。

箱組みはいたってシンプルに。近所のホームセンターで板材をカットしてもらい、木ネジで留めただけ。9mm厚のシナベニヤに3.3mのスリムタイプの木ネジで留めた。木口の割れもなく大丈夫だった。

昨年暮れに、サイアノに詳しい方に露光機の実物を見せてもらい、いろいろと参考にさせてもらった。まず大切なのはできるだけ露光面と光源の距離を近くすること。それから内側は銀レフとしてアルミテープで覆った方が良いこと。紫外線は白レフではあまり反射効果が期待できないらしい。ゲレンデで雪焼けするのは、おそらく積もった雪は白レフじゃなくて銀レフに近い効果があるからかな、と今思った。白銀の世界って言うくらいだしね。どうなんだろう。

焼き枠のガラス面だけに紫外線が当たるようにしたくて、上蓋は家に余っていた無酸性紙のボードを二枚重ねにして、マットのようにくりぬいて作った。こちらの裏面にもアルミテープを貼る。これなら厚みも強度も充分だろう。もし早めにへたれてきたら木製も検討しようかな。

電源コード用の穴を空けたり、上蓋がズレないように桟を付けたりと、細かな仕上げをして完成。部屋にあるスチールラックにぴたりと収まるサイズにしたので、そのまま棚の中で露光もできるのでいい感じだ。

今回は焼き枠が上に乗るミニマムなサイズにしたかったので、15Wを4灯だけにしたが、これではどうも光量が足りないらしい。テスト次第では、もう1、2灯増設しても良いかもしれない。

川田喜久治「Last Things」@PGI

東麻布へ移転したPGIへ川田喜久治「Last Things」を観に行ってきた。

や、参った。本当にすごい。御年83歳にして、現役バリバリの写真家だと思い知らされた。他の追随を許さないそのバイタリティはいったいどこから来るのだろうか。「矍鑠」という言葉すら失礼なほど、意欲的に作品を作り続けている。老体に鞭打ってではなく、いまだ好奇心に任せて意気揚々と活動している。

フィルムだデジタルだという論調なんてどこ吹く風で、自分が今これだと思った手段を迷わず選んでいる。今回はデジタル(確かライカ)の撮り下ろしで構成されていて、具象と抽象の狭間のようなイメージがぐいぐい攻めてくる。よくわからないが、いろんな意味ですごすぎて観賞中に笑えてきてしまった。

この日は新井卓さんとのトークショーの日でもあった。川田さんの言葉は強くて明快。曖昧な物言いはしない。それでいて話しぶりはしなやかだ。新井さんが大先輩へ緊張交じりに質問しても、すかさず意を汲んで、的確かつ簡潔に答えてらっしゃった。強烈な言葉の中に愛や思いやりを感じられた。自分が川田さんの年になった時にここまで理路整然と熱意を持って答えられるだろうかと思ってしまう。まあ、今も答えられそうもないんだけど。

川田さんは書籍からヒントを得て撮影に入ったり、セレクトをしたりすることが多いとのこと。それもひとつの単語や文節、段落などインスピレーションがわくものが見つかれば、それ以上読まないらしい。あとがきから目を通すこともあるのだとか。今作の元となったポールオースターの「最後の物たちの国で」についても、ヒントをつかんでからは全編を読んでないと(爆弾?)発言をされていた。

ようするに、川田さんは本を読むために読んでいるのではなくて、あくまで写真制作のために読んでいるのだ。だから、目的を達すればあっさりと手を止めるし、一冊を読み通す必要があればそうするだけ。それもこれも、すべては写真のためにということだ。

常に写真を撮り続けながら、ある瞬間に言葉からイメージが膨らんで写真を組み直したり、さらに撮り進めたりして、ひとつのシリーズを作り上げていく。ジャーナリズムやドキュメンタリーとも違う川田喜久治オリジナルのメタファーとしての写真が生み出される一因かもしれない。

得てして、目標が目的化したり、手段が目的化したりするものだ。写真をやっているとその脱線が楽しくなってしまうこともある。しかし、川田さんにはそんな様子は微塵もない。写真家としての確固たる矜持を持って写真に向き合っていると感じた。

昨年に近美のプリントスタディーでオリジナルプリントを拝見してからというもの、すっかりハートを鷲づかみにされてしまっている。かつては鳴らした往年の巨匠としてというよりも、今を走り続ける魅力的な写真家として無性に惹きつけられるのだ。

何をもって「見た」ことになるのか。二つの個展にて。

■ タカザワケンジ「Osamu Kanemura’s New Work?」@The White

■ 野村浩展『Inbisible Ink』@POETIC SCAPE

それぞれ会期終了からだいぶ経ってしまった。もっと早めに感想を書こうと思ったんだけど、時間が経てば経つほど、この二つの個展がシンクロしてくるので、やはり併せて書いておこうと思い立った。

まず、タカザワさんの個展。

昨年の「Cardboard City」も面白かったが、今回も写真評論家ならではの切り口で、とても楽しめた。

ギャラリーの壁三面を各々セクションに分けて、ピンナップでグリッドに並べる展示になっている。

ひとつは金村修さんの写真集の複写。ふたつ目は過去の個展の複写。そして三つ目は、金村修さんのイメージと重ねるように、アジェや森山大道、エバンスなどのスナップショットの複写を幾人も混在させたセクションになっていた。

美術の世界ではアプロプリエーションという盗用美術という手法があるそうで、参考にするとか拝借するとかではなくて、正々堂々と盗んでしまう手法とのことらしい。美術史的な文脈はわからないけど、なんか面白い。

展示のプリントも、わざと解像度が低くピクセルが目立つような画像にしている。作家や画像の特徴が平均化されて、何をもって、金村修なのか、アジェなのかが曖昧になり、見分けることが難しくなる。さらに観賞者がスマホなどで撮影し複写し、非可逆的に写真は劣化してゆく。それも今の写真らしく思えた。

写真家ではない人が写真を使って展示をする意味は、より客観的な第三の視点で写真に向き合わせてくれることだろうか。興味深い試みだと思う。


次いで、野村浩さんの個展。

これは説明しにくいし、説明することが野暮な感じもする。ネタバレがひとつの楽しみを損なってしまう可能性がある。でもタネと仕掛けがわかってからが本番ともいえる作品でもある。

作家自身のゴッホにまつわる視覚体験をヒントに「Invisible Ink」という技法を用いてゴッホの自画像をモチーフにした作品だ。その摩訶不思議なインクによって、青いモノトーンのゴッホが浮かび上がる。

青で再構築されたゴッホの自画像は、今までに見たことの無いゴッホでありながら、むしろ生々しいまでのリアルさを感じさせてくれる。

はたして私たちがゴッホだと認識しているものは何なのか。見えているものは、本当に見えているのか。フェイクとリアルを巧みに織り交ぜながら、写真の特性をフルに活かして「見る」ことの本質を提示している。

一つだけタネを明かすと、この「Invisible Ink」は架空の製品で、実際はサイアノタイプを用いている。作家にとって青写真にする必然性があったが、安易に技法にフォーカスされないように、あえて「Invisible Ink」という製品に置き換えたそうだ。

美術批評家の土屋誠一さんとのトークショーも聴くことができた。内容はディープで、土屋さんの脳の中にある知識の泉から湧き出る言葉の数々が、形容しがたい野村ワールドの核心を突きまくっていた。専門用語も多くて難解なところもたくさんあったけど、おそらく土屋さんにしかできない踏み込み方だったと思う。

野村さんの作品については、会期後でもギャラリーに直接尋ねるのが良いと思う。野村浩の世界を味わうには、実体験が一番だからだ。

タカザワさんと野村さん。立場は違えど、共に写真ならではのアプローチで「見る」ことそのものをテーマにした個展だった。それが奇しくも同時期に開催された。偶然にしては出来すぎている。

遺すことについて考える

自分が所有している写真作品をどう遺すのか?

最近そんなことを考えている。

私は男性の平均寿命からすれば折り返し地点を過ぎたあたり。いささか気の早い話かもしれない。しかし、いつこの世を去るかわからない。プリントが増えるにつれて「遺す」ことについてつい考えてしまう。

趣味で何かをコレクションしている人なら、おそらく一度は考えたことがあると思う。「自分が死んでしまったら、これってどうなるんだろ?」って。

市場価値や資産価値云々の話は置いておいて、自分がその写真が素敵だな、素晴らしいなと思って購入したプリントを、自分がいなくなった後でも、丁寧に扱ってくれる誰かがいたらうれしいし、部屋に飾って楽しんでくれたら有難いなと思う。

といっても個人的な趣味の収集品を、興味のない人に理解してもらうのは難しいかもしれない。手元に残すほどの価値を見いだせない、趣味が合わない、もしくは保管場所がないなんてこともあるだろう。譲り受けた人の選択肢として手放すというのもありだと思うのだ。

そんな時に、写真作品の買取手(もしくは引き受け手)って国内にあるのかなと考えるけど、パッと思い浮かばない。美術品や骨董品は何かしらルートがありそうだけど、写真はどうだろうか。

海外では地域ごとに大小さまざまなオークションハウスがあるようなので、そういったところに出品する手もあるのかもしれないが、国内には身近なセカンダリーマーケットはなさそうだ。

今度、ギャラリーのオーナーにその辺の事情を訊いてみようかな。ひょっとしたら実例があるかもしれない。

まあ、自分の死後の話なので心配しても始まらないのだが、手放すにしても、適切に扱ってもらえて、価値観の合う誰かの手に渡るような道筋があればいいなと思う。写真作品も世代を超えて第二、第三の所有者に大切にしてもらえたら、なかなか素敵なことではないかと思うのだ。

ジョルジョ・モランディ「終わりなき変奏」@東京ステーションギャラリー


今回は気分を変えて、東京ステーションギャラリーのジョルジョ・モランディ展へ。油彩もドローイングもほんと良かったけど、エッチングが特に好みだったな。同じようなモチーフを飽きもせずこれだけ書き続けたことはすごいと思った。側から見れば飽きもせずとなるけれど、本人にとって、それどころか、この繰り返しがとても楽しく、発見の連続だったのではないかと推察する。

前回の投稿でも書いたけど、個人的に「二枚組」が緩く長く続いているブームで、写真展や写真集に限らず、いろんなメディアで、組み物の最小単位である二枚組(一対)が成立してそうなものを探すようになった。

この展覧会でもまた一つヒントを得た。まさにモランディのようなアプローチで組み合わせると、違いに引っかかりを持ちながら、見ていて心地の良い構成になる気がする。

同類の収集だとタイポロジーが思い浮かぶけど、それと、この二枚組のマッチングとは意味合いが違うかな。ベッヒャー夫妻の給水塔とかは、もっと複数の集合体で何かを見せようとする試みで、グリッド状に面で並べることでそれが強調される。

方や二枚組はもう少し類似の差を詰めて「微差」や「酷似」というニュアンスまで持ってくると面白くなる気がする。モランディ展でも、擬似的に二枚組に見立てながら観賞したら、これがなかなか良い。そうそうこれこれという感じ。

あくまで持論。専門家からすれば、すでに出尽くされた方法論かもしれないけど、素人なりに探求するのもありかなと。機会があれば枚数組について教わってみたい。

ジョエル・マイロウィッツがモランディのモチーフにしていた小物たちを撮影した写真集と今回の図録を見比べて見るとまた面白い。アトリエ写真はいろんな写真家が撮っているようだけど、何か惹きつけられるものがあるんだろうなあ。

写真集の「少し違う」と「ほとんど同じ」

Italia o Italia – Federico Clavarino
すでに語りつくされた方法論かもしれないけれど、何となく興味を持ったので、自分なりに考えたことを書いておこうと思う。

それは写真集の見開きで類似イメージの二枚組のこと。今までそれほど気にも留めてなかったけど、ここ2、3年で買った写真集に、一冊の中で多用している作家が多かったので、少しずつ気になりだした。全編にわたって類似のイメージを収集したタイプの写真集ではなくて、いろいろと異なるイメージの中に、ふと同じようなイメージの二枚組のページが現れるタイプのものだ。二つ並びのイメージはまるっきり同じという例ははあまりなくて、「少し違う」とか「ほとんど同じ」とか、そういう印象を持つ二枚組が多い。同じロケーションで時間軸をずらしたり、違う角度で撮ってみたり、または場所を変えて似た構図を揃えたりと、バリエーションはいろいろある。

Italia o Italia – Federico Clavarino
見ていて思うのは、間違い探しをしている感覚になるなと。ページをめくった時に、同じようなイメージが並んでいると、つい見比べてしまう。何かしら違和感を覚えて手が止まり、しばし考える。

(ん? 同じ?)

(いや、違うか…)

(どう違う?)

(どこが同じ?)

(似てるな…)

(なんで?)

思考とともに目が往復し、見開きページの滞空時間が長くなる。左から右への目線のリズムに変化が生まれる。視覚のリフレイン効果が生まれるからか、とても印象に残りやすい。

An Index of work As Labor As Work – Daniel Shea
An Index of work As Labor As Work – Daniel Shea
編集者を交えたトークショーで、写真集の編集はシークエンスに一番時間を割くと聞いたことがある。何度も何度も繰り返し組み直したり、抜き差しをして納得のいく流れに持っていくのだそうだ。加えてイメージサイズ、余白の取り方、キャプションやノンブルの付け方などで、全体像として何かしらの意図を伝える。言葉にならぬメッセージをどう伝えるか。写真集の魅力のひとつだと思う。

そういう仕掛けの中に、この見開きに類似のイメージを並べる方法もあるのだろう。坦々と見せるタイプの写真なら逆効果かもしれないけど、予定調和を崩したい場合は面白いかもしれない。坦々とした写真でも、全編わたる構成なら有効かもしれない。

そういえば、あるキュレーターの方に壁面の展示での二枚組は難しいと言っていたような。見る方がどちらかのイメージに引っ張られて、片方の印象が薄くなるんだとか。単なる好みで見られてしまいやすいというのもあるのだろう。二枚組の難しさを解決する一つの方法が類似イメージかなと思った。二枚を偏りなく見てくれそうだし、ある意味、一枚画として見ることもできる。

それで思い出したけど、渡部敏哉さんの“Thereafter”というシリーズがあって、それは震災後の故郷・浪江町を数回にわたって記録した作品だ。定点観測的に何箇所かを撮影し、時間の異なる同じ場所を二枚組にしている。ゆっくりとだが、確実に変化していく様を二枚組で見事に表していた。震災の写真をどう扱うかというデリケートな議論はあると思うけど、その議論を超えたところに渡部さんの写真が存在していると思う。

まあ、私は編集の専門家ではないので、全くの的外れかもしれないけれど、写真好きな素人のつぶやきと読み流してもらえたら幸いです。

Tranquillity – Heikki Kaski
Tranquillity – Heikki Kaski

サイアノタイプキット

移転後のPGIに初めて行ってきた。目的はふたつあって、ひとつは川田喜久治「Last Things」のトークショー。もうひとつはサイアノタイプキットの購入。濃厚トークショーの感想はまた別の投稿に譲るとして、やっとキットを入手した。通販でもよかったんだけど、移転したし、川田さんだし、直接行きたいなと。

このキットはBostick & Sullivan製。オルタナティブプロセスの定番メーカーで、PGIが代理店をつとめている。まずは手堅くという感じ。

はじめに焼き枠を買って、実はすでにUV露光機の配線は終えていて、そしてサイアノタイプキットが揃った。細かいこと言えば、オキシドールや精製水や薬瓶なんかも必要なんだけど、一番問題なのは、デジタルネガ製作の環境がないことかな。これは当分無理。かといって、大判はさらにハードル高いし。しばらくは中判ネガか、フォトグラムでいろいろやってみようかな。田村写真でネガプリントだけお願いしてもいいかも。

サイアノタイプ挑戦は緩やかに進行中。まだ先は長そうだ。