鈴木のぞみ個展「Mirrors and Windows」@表参道画廊

予定にはなかったけど、ふらりと表参道画廊に立ち寄ってみたら、これが大当たり。ぶわっとテンションが上がってしまった。

窓と鏡をテーマにした作品群は、写真の起源、写真の根本を見事に具象化させていた。「窓」は解体された窓を枠ごと利用している。ガラス面に写真乳剤を塗布し、住人が日頃から見ていたであろう窓越しの景色を定着させている。「鏡」も同様に、手鏡や浴室の鏡などを使い、据えてあった場所で映り込んでいたであろうイメージを同様の技法で定着させている。

ユニークかつ的を射た視点が素晴らしい。それに加えて実際に現物の窓や鏡を感剤化し、感光から現像を経てイメージを定着させてしまう、その見立てと力技は見事と言う他ない。「本当にやっちゃうんだこれ」っていう感じ。力技でありながら、着想から作品に至るまでに必然性があって無理がない。

記録としての写真のあり方を、さらにえぐるように、遡るようにして記憶を炙り出す試みは、物の中に潜像しているかもしれない記憶の断片を垣間見せてくれる。見えるものと、見えないものとの境界線を彷徨っている感覚になる。ふとした瞬間に薄ら寒さすら覚えるほど、鋭く写真の中核を突いていた。

外界を見るための窓とそこに映る自己を見つめるための鏡。黎明期の写真を思わせるガラスや鏡を支持体とする鈴木のぞみの作品は、そのどちらでもないような眼差しのあり方を予感させてくれる。最初の写真であるダゲレオタイプは、その鮮明で魔術的な画像から「記憶を持った鏡」とも呼ばれたが、鈴木は物それ自体に宿る記憶や、物を見るわれわれを見返すような物からの眼差しの存在について思考を巡らせてゆく。

窓際のカーテンや皮膚の変色に見られるように、あらゆる物は光に対する病を抱えている。それならば、物の表面には、過去のイメージが潜像として焼き付いていたとしても不思議ではないだろう。我々の意志や意識の外側で人知れず形成されたイメージがそこかしこに潜在し、現像されるのを待ち続けている。鈴木のぞみが提示するのは、そんな狂気にも似た世界である。

小原真史( こはら・まさし)

引用:表参道画廊ウェブサイト・東京写真月間2017小原真史企画鈴木のぞみ・ステートメント