染谷學写真展「ナハ」@こどじ

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初めてのこどじ。知る人ぞ知る写真界隈の面々が集う新宿ゴールデン街の酒場だ。いつかは行ってみたいと思いつつも、お酒はあまり飲めないのでどうも足が向かなかった。でも染谷さんの展示となれば意を決して(おおげさ)暖簾をくぐってみることにした。

今回の展示はこどじということで、環境に合わせてインクジェットプリントにしたそうだ。タイトルの通り「那覇」の35mmモノクロスナップが所せましと並ぶ。前回の蒼穹舎の「艪」では、撮影の途中から中判スクエアが窮屈になりはじめて、6×6と35mmが混在する展示になっていた。今でもスクエアへの窮屈感は続いてるようで、こどじでは35mmだけでまとめていた。

やっぱり染谷さんの写真はいい。インクジェットとかフォーマットとかはあまり問題ではないかもしれない。染谷さんの写真の根本的な魅力は「残滓感」だろう。こどじっぽく例えるなら蒸留酒ではなくて醸造酒。でも濾した清酒ではない。かと言って「どぶろく」ほど濁りが立っていない。清酒より微かに霞む「にごり酒」の風情だ。

お酒が弱いくせに、お酒の味自体はどれも好きだから困る。とにかく弱いなりに楽しむべく、ごくたまにおいしいお酒を一杯だけというのを基本にしている。なのに「初こどじ」であてられたせいか、ついウイスキーのロックをハイペースで二杯も飲んでしまい、店を出た後はどう家に帰ったかさっぱり憶えていない。この程度のキャパなので、ほんと気を付けないといけないな。

ポラロイドの写真集〈その1〉

今年になってポラロイドで撮った写真集が気になりだして、ちょっとずつ集めている。きっかけとなった最初の一冊はタルコフスキーの「Instant Light: Tarkovsky Polaroids(Thames & Hudson, 2006)」。とろけるような儚くて耽美なイメージに頭を撃ち抜かれた。いまでは手放したくないお気に入りの写真集となった。それからトゥオンブリーの作品集を手に取ったのがきっかけで、他にもポラロイドで撮った写真集があってもおかしくないと思ったら、いろいろと出てくる出てくる。

というわけで今はこんな感じ。一応発刊年代順で。


André Kertész: From My Window」(New York Graphic Society, 1981)

ケルテスは自室の窓辺でひとつのガラスのオブジェを映しこんで撮影している不思議な作品。一般的なケルテスのイメージとは一線を画す。複数のガラスのオブジェを撮影した「The Polaroids」もあるらしく、どういう編集になっているのか気になるところ。


Walker Evans: Polaroids SCALO, 2002

エバンスのはいま無きスカロ社から出版されたもの。看板や道路標識などのサインなどを集めた写真集。2650点以上から厳選した100点あまりをまとめている。体が弱ってきている晩年のエバンスが、発売間もないSX-70を手に、時間を惜しむように撮り続けたと思うと感慨深い。


Andrey Tarkovsky: Instant Light – Tarkovsky PolaroidsThames & Hudson, 2006

タルコフスキーは写真家にもファンが多いようだ。あの独特の映像美に引き付けられるのもうなずける。先にも書いたが、あの耽美な映像とポラロイドの発色との相性は抜群で、タルコフスキーの世界観を表現するためにポラロイドがあるのではと錯覚するほどのマッチングだと思う。心底からほれぼれする写真集。


Robert frank: Seven StoriesSteidl, 2009

ロバート・フランクの作品は、何気ないオフショットをまとめた中綴じの7冊組の写真集。ポラロイドに直接書きなぐられたメモも興味深い。たしか「世界一美しい本を作る男(How to make a book with Steidl)」でこの本の編集作業シーンがあった気がする。アシスタントのA-Chanといっしょになって、楽しそうにちまちまとマケットかなにかをめくっているのがかわいらしかった。フランクは編集者としての力量も知られている。おそらく人任せにできない性格なのと、編集が好きなんだと思う。写真を撮り編集も自ら手がけるやり方は、「メモワール」における古屋誠一と通じる。今は版元完売でプレミアがついてしまっているが、どうやら同じSteidlから再版される見込みらしい。ただし、今のSteidlはかなり予定が詰まっているのでいつになるかは定かでない。


GUY BOURDIN: POLAROIDSEditions Xavier Barral, 2010

ギイ・ブルダンのことは全く知らなかったが、ファション界では巨匠とのこと。ポラロイドマスターと呼ばれるくらいインスタントカメラの達人だったようだ。ポラロイドとピールアパートの写真で構成されている。セクシャルで挑発的なイメージは、個人的には守備範囲外なんだけど、あまりのかっこよさに手に入れた。


宇戸浩二「22203㎠」(Self Publishing, 2015

宇戸浩二「22203㎠」は受注生産品でポラロイドの原寸サイズの印刷物を一枚一枚貼り付けて糸かがり製本をしている。途中からインポッシブルフィルムに切り替わっているので厳密にはポラロイド作品とはいえないかもしれないけど、現物の手製本をみるとコレクションに入れざるを得ない。ルーニィで一目ぼれして予約した。


サイ・トゥオンブリー「サイ・トゥオンブリーの写真変奏のリリシズム」(DIC川村記念美術館, 2016

サイ・トゥオンブリーのは、先のDIC川村記念美術館での展示に際した図録。ポラロイドの原版にしたドライプリントの一種であるフレッソン印刷がエディション作品になっている。本当はこれまで3、4冊出ている「PHOTOGRAPHS」シリーズの方が欲しいんだけど、なんとなく今は図録で満足してしまっている。でもいつか買う。


吉増剛造「瞬間のエクリチュール」(edition nord, 2016

吉増剛造の「瞬間のエクリチュール」は、一枚一枚手に取れるマルチプル作品になっている。裏面にびっしりと直筆の詩がつづられている。もちろん印刷ではあるのだけど、オリジナルのポラロイドと見まごうばかり仕上がりで、ここまでやるかと思うほどの徹底した再現ぶりだ。版元のエディション・ノルトは新潟の南魚沼に拠点を置いている。最先端の印刷・製本技術を駆使して、主にアーティストブックを手がけている。伊丹豪のアクリル表紙の無線綴じは驚愕かつ変態的な特許技術だった。伊丹作品の変態的でソリッドなイメージにぴったりだ。


インスタントカメラは小学校四、五年生の頃に家にあった。たぶん父親が買ったんだろう。その時に飼っていた猫や自分の写真がまだ残っている。記憶をたよりにググってみると、どうやら当時の機種はボック型の600シリーズだったらしい。カラーは黒だった気もするが、はっきりと覚えていない。

ポラロイドは撮ってすぐに像が出るので、その場で共有することができる。その即時性はとてもSNS的。今になってチェキやインポッシブルが支持されるのもわかる気がする。そういえば、チェキのスクエアフォーマットが発売されるらしい。これは使ってみたい。

なんとなく思いつきで、シノゴを始めてみようと思っている。コダックやフジのシートは高騰と廃番の一途。さえない状況だけど、フォマとかなら価格的にまだまだいける。にしてもフジには4x5のピールアパートは残してほしかったな。チェキのスクエアもうれしいんだけどね。まあ、いっそチェキの4x5でもいいからさ。

ポラロイドの写真集〈その2〉はこちら

トーマス・ルフ展@東京国立近代美術館

Thomas Ruff, Häuser/Houses

美術館の展示では間口の広さと懐の深さが重要な要素だと思う。まず幅広い層に対して興味を引いて、予備知識なくともそれなりに楽しむことができる。次にどれかひとつでもいいから引っかかりが生まれる。そういう間口の広さ。それから知識を得たり、自分なりの解釈ができるようになった時に、好奇心を受け止めてくれるだけの懐の深さ。これだけ大規模で、不特定多数の鑑賞者を見込んでいる展示ではなおさらだろう。 続きを読む

落胆というほどでもないんだけど

ある写真展を訪れた。銀塩プリントには定評がある方だ。モノクロをやっている人なら憧れている人も多い。まずは壁の写真を観賞する。ひとしきり観終わるとタイトルが気になった。どういうことかなと思い、せっかくだから作家さんに質問をしてみた。すると想像していたよりも、手ごたえのない答えが返ってきた。別の写真展を拝見したり、雑誌やブログを見たりする限り、感覚的なことを大切にしながらも、ちゃんと言葉で丁寧に説明してくれるタイプだと思っていた。かなり意外だった。 続きを読む

結論を急がない

写真を観るうえで大切だなと感じているのは、あまり結論を急がないことだと思うようになった。というか結論を求めても仕方がないのが写真なんだと思う。

既知でも未知でも興味を持った写真家の作品はできるだけポジティブに観賞するようにしている。はなから好き嫌い、良し悪しを決め付けないで、ひとまず興味を持って見ることで、作品の可能性を広げらるかもしれと思えるようになったからだ。

もちろんその場で理解できないものもあるし、ある程度は理解できるけど共感までいかないこともある。わかったつもりになって、したり顔でつまらないことを口にすることもある。時間が経つと腑に落ちることもある。ひとまず第一印象は大事にしつつも、作品に対しても、自分に対してもレッテルを貼らないようにする。もし否定的な感想を持ったとしても、それは今だけのことかもしれないと思えばまた次のなにかが待っているかもしれない。

自ら断定や限定をしてしまうと、今の自分にとって安易な結論で満足したり、それ以上は興味がうせたりしてしまう。自分は生活の中で人にも自分にも断定や限定をしがちなので、せめて写真を見るときくらいは、そうならないようにしたいと思う。ある意味、写真を見ることが自身の修練みたいなところもあるかもしれない。

作り手も自作のすべてを把握しているわけではないだろうし、シリーズの過程で発表することがほとんどだろう。それこそ最終的な結論となれば、死後の回顧展みたいになってしまう。それすら時代ともに忘れられることもあれば、時代とともに再評価されることもある。

観る側だってすべてを咀嚼することはできない。欲張ってすべてを理解しようとしてもあまり良いことはないし、できるはずもない。だって、作品を観るというのは、ひとつの節目、経過を観ているにすぎないから。それでも、その経過の積層が厚くなればなるほど、作家性が増してくる。そう思えば、できる限り結論を急がず、常に経過を観つづける気持ちで作品に向き合いたいくなる。

やや漠然とした話なんだけど、表現者も観賞者もその貴重な節目を繋げていくことが大切なんじゃないかと思う。

有元伸也写真展「Tokyo Circulation」@Zen-Foto Gallery

有元伸也さんの「ariphoto」シリーズが「Tokyo Circulation」と題して禅フォトギャラリーから発売された。これからも継続するシリーズながら、まさに「ariphoto」10年の集大成といえる。

これまでTPPGなどの展示に合わせて「ariphoto selection」として発行している。vol.3からは最新のvol.6までは買うことができた。いつも500部限定で、号を重ねるたびに完売ペースが加速している人気タイトル。毎回なるべく早く手に入れるようにしている。vol.1(2010)、vol.2(2011)は、写真を始めたばかりの頃で、欲しい時にはすでに完売していた。古書でも出回らないため、いまだに入手できていない。

今回の上製本は「ariphoto selection」と判型を合わせつつ、一段も二段も高品質になっていて、スリップケース付きの豪華な写真集に仕上がっている。表紙が2種類用意され、シルバーとブラックが選べる。さっそく写々舎でシルバーを予約した。ブラックも渋くて捨てがたいが、迷いなくシルバー。表紙はあの「すみえさん」。「ariphoto」で幾たびも登場する方だ。無茶苦茶かっこよい。しびれる。

禅フォトでは出版記念の展示も開催され、会期終了間際にこちらも観にいけた。やっぱり間違いなし。スクエア・モノクロ・ポートレートの達人、ここにありって感じ。階調豊かでかつ引き締まったモノクロプリントは絶品。撮影から暗室ワークまでが完成されていて、撮影からすでにプリントの品質が約束されているからこそ。機材の変遷や感材の問題はあるにせよ、ようは難しいことをしていないっていうのがミソだ。どこかの工程でこねくり回したり、いじり倒したり、帳尻を合わせたりしない。やはり撮影は適正露出ってのが奥義で、いかにシンプルに徹するかだと思う。

場所や時間も含めてここまで作品づくりを徹底的にルーティーン化して、量を積み上げているのは並大抵ではない。同じことをコツコツと続けることが、人物をあぶり出し、その変化を際立たせる秘訣なんだろう。移り気な自分にはとうてい真似できない作業だ。

有元伸也という写真家を見ていると、つい宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が頭に浮かんでしまう。いつも謙虚で誰に対しても腰が低い。実直で妥協しない。面倒見がよくて、義理堅い。どうにも生き様がかっこよすぎる。

蛇足ながら、個人的に有元さんが新宿区とコラボしたら、なんか面白いことになりそうだと勝手に思っている。新宿区の職員の方、一度でもいいからTPPGに足を運んでみてください。もちろん都の方でも大丈夫です。

才を見つける才

ホンマさんはいつも気になっていて、これからも観つづけたい写真家のひとり。でも、おそらく自分とは今も昔も周波数が合っていないし、今後も合うことはなさそうな写真家だ。根拠はないけど、ホンマさんにそういう印象を持っている。

作品は物事の本質を探ってくる。アプローチはいろいろで、既成概念をバラしたり、再構築したりしながら作品を作っている。巧みなフェイクを交えたり、見抜かれないような伏線を張ったりもする。でも、文脈やコンセプトに偏重しすぎて、写真を気持ちよく見られない、ということはホンマさんの作品にはない。

あくまで写真に軸足を置いていて、際立ったクオリティで提示してくれる。たとえ制作意図を知らずとも、写真集をみれば、ふと手を止める写真があり、展示に赴けば、思わず足を止めてしまう写真に出会える。写真そのものの旨味は捨てない。そういえば、2015年に大宰府天満宮でカメラオブスキュラを使ったインスタレーションなんかもやっていた。写真の技法もすべて踏襲しようとしていると聞いたことがある。

「なぜこの写真なのか?」と意図を知りえた時に、ホンマさんから答えをもらえるのではなくて、ようやく問いかけてもらえる。投げられた問いはふわりとした軌道を描く時もあれば、ビュンと直線的に懐に収まる時もある。たまにポイと横に放られてしまうこともある。その問いに触れていろいろと考えては、また写真を見る。写真を観てはまた思考する。その循環によって作品が膨らむ。ホンマさんの役目はそこまでで、あとはこちらにゆだねられる。

捉えられそうで捉えられない。掴めそうで掴めない。常中変であり変中常。いつの間にか変化して先に行ってしまう。だから追いかけてみたくなるんだけど。

でもホンマさんの何がすごいかって、「人の才を見抜く才」だと思う。これはかなりエグい。この前のトークショー(らしきもの)の場でも思い知らされた。ホンマさんの間合いに踏みこめるのは、相当な手練れか、大間抜けくらい。かろうじて間合いを見極められる知恵者が渡り合えるだろうか。でもホンマさんが待っているのは、手練れでも、大間抜けでも、知恵者でもなくて、気づいたら間合いを詰められている天賦の才なのかもしれない。読めない才能を待ちわびているんだと思う。

どうやら自分はそれらのどれにも当てはまらない凡人だ。迂闊に周波数を合わせない方がいいかもしれない。むしろちょっとノイズが乗っているくらいが幸せなんだと思う。凡人には凡人なりに、噛み合わないという兵法もあっていいかもしれない。

加納満写真展「イタリア 無我の彷徨」@ギャラリー冬青

今回の展示は写真のある部分から離れようとしているように感じた。散々意識して磨いたものをいったん捨てるのは難しい。それが偶然だったのか、意図したことなのか、その中間だったのか、どちらでもないのか、それはわからないけど、今までとまた別の見方ができる展示だった。

加納さんは自分の写真を必要以上に言葉にしない。言葉を持たないんではなくて、あまり語らないのだ。それでも会話をしていると、端々でこだわりというか、信条ともいえる考え方が伝わってくる。まあ、ちゃんと訊いたら普通に答えてくれるかもしれないけど、野暮ったくてちゃんと訊いたことがない。

今回も気になるプリントが一点あった。本気で買おうかと思った。でも見合わることにした。昨年6月の個展で買ったプリントが熟成期を迎えている。といっても別に紙質や画質が経年変化したわけじゃない。むしろ保存が大事な写真は経年変化が遅いほうが好ましい。ここでいう熟成は物理的変化ではなくて、写真が自分に馴染んできたという意味で言っている。感覚的な話だけど、同一作家の新たな作品を加えるタイミングではなかったということ。

その写真は、俯瞰視点で裏路地の階段坂をとぼとぼとひとりの男が歩いているイメージ。ディープシャドウもハイエストライトも無い、ややコントラストが低めのプリント。時間が経てば経つほど新たな発見がある。個人的には加納作品の会心の一枚。文脈とかコンセプトとかに頼らずとも十分に強度を感じる作品だ。

プリントはこの熟成期を繰り返していくと見え方が少しずつ変化して、向き合う過程に深みが増す。だから、写真は初見ではすべてを計れない。買ったプリントはとことん向き合うのみだ。

PARCO劇場一時閉館

8月7日に渋谷PARCOのビル建て替えにともなってパルコ劇場が一時閉館となった。20代後半から30代前半まで観劇にはまってよく足を運んだのがパルコ劇場。新国や帝劇なんかの大劇場は肌が合わなくて、観るのはアングラか、商業劇ならパルコがちょうどよかった。

客席数が458の小劇場は演者と客の距離感が近いのがうれしかった。演者の息遣いが手に取るようにわかり、客の反応がつぶさに舞台に伝わる。互いの程よい緊張感がたまらない。商業劇の箱にしてはシビアな空間だ。

改装後の杮落としは楽しみだけど、あの劇場自体が舞台装置のような空間は新しくなっても大事にしてほしいなあ。

【4/4(最終回)】オリジナルプリントを買うなんて誰にも勧められない。

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オリジナルプリントは誰かに勧められて買うもんではない。というか、勧めようがない。しかも買うまでのハードルが高くて、買ってからモヤモヤする。これは買ってよかったのか? 自分の目は間違いなかったのか? ネガティブな面もポジティブな面もないまぜにして向き合わざるをえない。しんどいことのほうが多いかもしれない。

悪いことは言わないから、プリントを買うなんて止めておいたほうがよい。ほかに時間もお金もかけることがあるだろうし、もっとちゃんと生活したほうが身のためだ。逆にそう勧めたくなる。 続きを読む

【3/4】オリジナルプリントを買うなんて誰にも勧められない。

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オリジナルプリントを購入した後のもやもやがピークを過ぎると、いくらか落ち着いた目でプリントを見られるようになる。その一枚と向き合う時間がはじまる。

かといって、買ったことの誇らしさ、その後の経済的な不安、得体の知れない感情のどれも消えてなくなったり、整理整頓されたりすることはない。同居しにくい相容れない想いをぜんぶひっくるめて付き合おうと思えるようになるだけだ。大げさに聞こえるかもしれないが、腰を据えてプリントと向き合う覚悟が生まれてくる。 続きを読む

【2/4】オリジナルプリントを買うなんて誰にも勧められない。

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最初の一枚を買った時にとても複雑な気持ちになった。オリジナルプリントを手にしたうれしさはあったが、胃の腑が落ち着かなくなった。部屋にどう飾ろうかと思いめぐらせたら心は踊ったけど、肩にずしりと重たいものがのしかかった。

やはり普段買っているのと明らかに違うものに対して、お金を払っているからだろう。しかも何万単位の値段がする。洗剤やトイレットペーパーなどの生活必需品ではない。キャベツや豆腐でもない。ソファでも冷蔵庫でもデジカメでもない。オリジナルプリントの実用度はきわめて低い。自分を納得させるのに一苦労したのを覚えている。

ところが最初の一枚を購入してから5年以上たった今では、数十枚のオリジナルプリントが手元にある。写真を始める前には考えられない事態だし、自分でもどうかしていると思う。しかも、一枚目と同じように、購入するたびに複雑な気持ちになるのは変わらなかった。ぐるぐると思考をめぐらせ、自分を納得させる材料を探した。

でも不思議と買うときは、どれにするかすぐに決まり、「これをください」と迷いなく注文した。ひとしきり複雑な感情が過ぎ去れば、どのプリントも買ったことを後悔することもなかった。

それもこれもオリジナルプリントは買ってからがはじまりだと思えたからだった。

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【1/4】オリジナルプリントを買うなんて誰にも勧められない。

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最初に買ったオリジナルプリントは、ある若手写真家のCタイプのカラープリントだった。それまで実用品(カメラ機材も含む)以外で何万円もの買い物をするのは初めてで、自分のお金の使い道としては異例中の異例だった。

写真のワークショップに半年通って、写真を販売するギャラリーがあることを知り、写真を買おうと思えば買える世界があることを知った。その時はまさかそこまでは無いなと思っていたが、講師のある言葉だけが耳に残った。 続きを読む

サイ・トゥオンブリーの写真-変奏のリリシズム-@DIC川村記念美術館

初めてのDIC川村記念美術館のお目当は、サイ・トゥオンブリーと常設展。ようは全部。でも、今まではほぼノーマークの美術館。それにサイ・トゥオンブリーのこともあまり知らなかった。原美術館の企画展は知ってはいたけど、予定にも入れずにそのまま会期を終えた。

じゃあなぜ今トゥオンブリーを見たくなったかというと、いつだったかポラロイドの写真集「Photographs」を見てからだ。代表作のぐるぐるした絵はそそられなかったが、ポラ作品は妙に惹きつけられた。いつか実物が見られたらいいなと思っていた。そんな折りに川村記念美術館で企画展が開催されることを知り、清水穣さんの講演会に合わせて観賞することにした。

さて、美術館内のトゥオンブリー展は最後のスペースらしい。あせらず常設展から順路どおりに進んで観賞することにした。途中のロスコ・ルームは期待以上で、感想が長くなったので別稿にまとめた。

さて、トゥオンブリー展。前半の最初期のモノクロ写真やドローイング、彫刻の作品に触れつつ、ようやくメインのポラロイド作品のスペースへと向かう。

ポラロイド作品といっても、額装されたプリントはオリジナルのポラロイドではなく、2.5倍に引き伸ばされた複製だ。とはいえ複製方法に並々ならぬこだわりがあり、ゴム印画法の発展形とされるフレッソンプリントか、そのフレッソンと同じ効果を求めてトゥオンブリー自身の工房によるカラードライプリントで複製された。その複製にエディションをつけて販売している。どれもエディションナンバーとエンボスで「CT」と刻印されている。複製だけどオリジナルプリントだ。

どれもピンボケのイメージばかりで、強いて言えば柔らかな画面はポラロイドのとの相性がよいかもしれない。しごく日常的な生活の空間から、アトリエの作品を写したものもある。焦点にとらわれない、とらわれたくないということだろうか。ある意味「ゆるふわ系」と言えなくもない。

清水穣さんの講演会で、トゥオンブリーは絵画、彫刻、写真が三つ巴というか、互いに牽制し合うことで成り立っていて、かつ互いに補完しようとしている、ということを言っていた。早い段階から3つの表現を取り入れながら、作品を作っていたらしい。写真も若い頃から撮ってはいたが、ポラロイドを作品として発表しはじめたのはキャリアの晩年からになる。満を持したのか、せっかくだから発表したのか、その辺はどうかはわからない。後出しで伝えたかったことってなんだろうと考えたりする。清水さんの話はかなりディープな考察で、あまり理解できなかったが、うっすらと全体像はつかめた気がする。まあ学術的なアプローチもたまにはよい。

3つの手法を知ることによってはじめてトゥオンブリーを理解できるというのは確かだろうけど、まずもってこのポラロイド作品がとても魅力的だった。100点ものオリジナルプリントに酔いしれることができて、ロスコ・ルームという収穫もあり、生モネ、生レンブラントを拝めて、川村に足を運んで大正解だった。

もちろん図録は購入した。コストパフォーマンスは素晴らしい。素晴らしいが、さらに網羅的にトゥオンブリーの「Photographs」の作品を紐解いてみたくなった。ここを軸にして、サイ・トゥオンブリーを深く知ることができたらおもしろい。

いつか広くて深い学びを


写真に出会ってからというもの、界隈を「諸星あたる」的に節操もなく歩き回っていることを自覚した時に、ちょっと情けなく切なくなることもあるんだけど、まあ、それでもいいかなって今は思っている。傍から見ればつまみ食いの八方美人。浅く広くなんて聞こえがいいものでもなくて、単に狭く深く掘り下げる過程に乏しく、きっと何もものにならないパターンかもしれない。

それでも写真への興味は尽きることはなく、延々と広がるばかりだ。性懲りもない自分に愛想は尽きつつも、また次の写真をみたくなってしまうし、向き合いたくなってしまう。

それもこれも、写真には単にうわべの表現ではなくて、本質的な何かを教えてくれそうな予感や期待感や可能性が確かに存在していているからだ。その片鱗でもいいからみてみたいと思いながら、できるだけ古今東西の写真に触れてみてみたくなり、ときおり撮ったり焼いたりたくなる。

写真に関しては、飽きるとか、やめるとか、そんな気持ちになることは、きっとないだろう。別に広く浅くでも八方美人でも、ゆっくりでもじっくりでもいいから、続けていくうちに、いつか広くて深い学びがあったら有難いなと思っている。

そろそろ写真集を整理整頓


本棚に入りきらなくなったら整理する。写真集を収集する上での一応のルール。そろそろその時期がまた来たみたい。前回は「これだけは手放せないなあ」と思っていたものも、今回は「まあいいかも」と思えるものもある。

最近は好みが収斂しているみたいで、定番、東欧、ポラロイドなんかが関心事になっている。欧米のストリートスナップは少し興味が薄れているみたい。最新の図録よりも定番の古書を探したくなったり、内戦のしこりが残る東欧の人たちが醸しだす抜けの悪い空気感に浸ってみたくなったりしている。

とりわけポラロイドで作品を作っていたアーチスト(写真家だけとは限らないので)も多くいて、そんなのも集めてみたくなっている。手元にあるのはタルコフスキーの「Instant Light」とトゥオンブリーの図録だけだけど、ケルテスの「From My Window」とエバンスの「Polaroids」が近々やってくる予定。他にも気になるのが2、3冊ある。こういうテーマに則したのも楽しい。減らしても減らしても増えるのは性なのかもしれない(笑)

あ、それとSteidlから出版予定の井津建郎さんの「Eternal Light」が待ち遠しい。井津さんの作品はプリントに勝るクオリティはないと思うけど、シュタイデルさんがどう解釈して仕上げるのかは興味がある。

マーク・ロスコ《シーグラム壁画》@DIC川村記念美術館


DIC川村記念美術館はサイ・トゥオンブリーの企画展がメインだったけど、想像以上にマーク・ロスコがよくて、トゥオンブリーとは別稿でまとめることにした。

マーク・ロスコの《シーグラム壁画》。この作品のために用意された部屋が「ロスコ・ルーム」で、7点の壁画がぐるりと囲む作品空間になっている。ロスコの壁画を見られるのは、世界でも4か所しかない。「ロスコ・ルーム」と名のつく場所は3か所で、ロンドンのテート・ギャラリー、ワシントンのフィリップ・スコレクション、そして佐倉市のDIC川村記念美術館だ。もうひとつは、「ロスコ・チャペル」と呼ばれ、ヒューストンのメニル・コレクションにある。

まあ、ウィキペディアに載ってそうなことはその辺にしておいて、実物を見ての感想を。

ロスコ・ルームは美術館の一階の最奥にある。出入口は衝立のような壁を中央に配して二手に分かれている。警備員が張りつく右手から入ると、部屋は横長の七角形を成し、壁ひとつに1点ずつ壁画がかけられていた。どれも高さは2メートルはゆうに超える。ただ大きさに圧倒される感じはしなかった。というのも、照度をかなり抑えたスポットライトで壁画を照らしているので、最初は薄ぼんやりと赤褐色の壁が確認できるくらいにしか見えなかったからだ。

しばらくして、少しずつ目が慣れて瞳孔が開いてくると、7枚の壁画がぐぐっと立ち現われてきた。薄暗さには理由があったのかもと思えた。作品保護の意味もあるかもしれないが、どちらかというと壁画だけを際立たせるより、部屋全体をひとつの作品としてとらえられるようになっているようだ。部屋の中にどっぷりと浸かるような感覚になる。

それから一枚一枚をじっくり観たり、一枚の中の細部に目をこらしたりして、矯めつ眇めつ観賞する。そしてまた、全体を見渡して、空間に浸るように佇んでみる。まったく飽きない。それどころか、見れば見るほど楽しくなってくる。このところ美術品を観ていて湧きあがってくるのが「やべぇ、すげーおもしろい」ってシンプルな感情だ。モランディ以来、久しぶりにそれがやってきた。

この時代の抽象絵画についてそれほどの興味があるわけではないけれど、少なくともマーク・ロスコは、きわめて魅力的に映った。時間が許せばいつまでも居続けたい場所だった。そう、見続けたいというより、居続けたいだ。

DIC川村記念美術館はロスコのためだけにでも再訪したい場所だ。

【観賞後】福山えみ『岸を見ていた』@Poetic Scape

個展がプレスリリースされてすぐに、プリント購入を決めた。まだ見ていなくても確信めいたものがあった。今回の新作はやばいぞ、と。たまにそういうことが起きる。

福山えみさんの写真は、見ればすぐに福山さんのだとわかる。「そうそう、これこれ」となる。初めてでも数枚みればその特徴をつかめると思う。手前に遮蔽物があり、奥を覗くような視線。一定の温度と湿度を保ったねむいトーン。プリントを観るたびに、なにかを予感させ、胸をざわつかせる。不思議な魅力をもつ写真だ。

今回の『岸を見ていた』を初めて観たときに、「月がついてくる」や「A Trip to Europe」と比べて、なにかが決定的に違う印象を受けた。大きな変化もなく、作風はそのままなのに、ざわつきようが尋常じゃないのだ。

メインヴィジュアルになっている1枚目が特にそうだ。自動車の後部座席の窓から野花を見つめるイメージで、なんでもなさそうでいて、なにかがある。「すごさ」というよりも、「危うさ」を感じた。「福山さん、大丈夫?」って。

ただ、こうだと決めつけられない。危うさの中にも安心感がある。陽とも陰ともつかない。彼岸と此岸ととらえられなくもない。彼岸にピントが合っているので、そちら側に意識があるとは思えるけど、かといって此岸から見ているともいいきれない。実はその逆かもしれない。

ようするに、福山さんの意識が、その空間、次元の間(あわい)にいるような感覚だ。どちら側にもいるようでいて、どちら側にもいない。ギャラリーの柿島さん曰く「幽体離脱をして俯瞰してその状況をみている」と表していた。確かにその感覚に近い。

こういう写真を撮る根底にあるものはなんだろうと考えたときに、尾仲さんとのトークでヒントをもらえた。

「子どものころに、夜ひとりで眠るのが怖くて、両親の寝室にいくんだけど、眠っているところに潜り込んでいく勇気もなく、起こしてしまって今の状況が壊れてしまうのも嫌で、両親が気づくまでそばで座って待っていることがよくあった」と言っていたのだ。

ことが起きる前、ことを起こす前の、なにかを予感させる距離感を常に維持している感じ。望んでいることはあるのに、そこには自ら踏み込まない。その状況はが楽しいわけでもなく、かといって望みをあきらめてもいない。間(あわい)の妙がこの福山作品の根底にある気がする。

作品の発表はマイペースで、どちらかといえば寡作といえる写真家だろう。でも福山さんにとって展示と展示の間のインターミッションこそが作品づくりに欠くことのできない時間なのだとしたら、福山さんにとってごく自然なペースなのかもしれない。

寄稿している「街道マガジン」でもふれているが、福山さんは体調を崩して入院した時期があった。期を同じくして、愛用のマキナも壊れ、仲良く入院となる。今回の作品は、復帰してからの一年くらいの撮り下ろしだという。作品を見た後に、改めてステートメントを読み返すと、ここ一年の精神的、身体的なもどかしい状態を感じ取ることができる。

本来持っている間(あわい)の意識に、不調で前に進めぬもどかしさが加わった。また人生のある転機も迎えている。福山さんのインターミッションは、確実に今作にも影響を与え、その本質的な要素が濃縮され深化している。もはや輪廻している感もある。さらにすごみを増しているのに、当の本人はあいかわらずのテンションなのが、またすごいと思ってしまう。

展示でも写真集も最後の配されている木の影のイメージも好きなカットだ。とても初々しくて、撮る喜びに満ちあふれている。これからの福山さんの活動を予感させるものだった。少し長めのインターミッションは、作品を確実に深化させた。さらなる深みを見せてくれるのか、それとも新たな変化を示すのか。これからどう発展するのか予想はつかないが、あらためて撮る喜びを感じている福山さんの作品が今まで以上にたのしみでしかたがない。

以下、改めてプレスリリースの引用です。

私と向こう岸の間には、大きな小さなたくさんの水のうねり。

流れは速くないが、とどまることなくうねり続け、なかなか渡れそうもない。

私の立っているところは、やはりこちら側の岸なのだろうか。

いや、水上の流れに身を任せて漂っている小舟かもしれない。

ゆらゆらと不安定なその足元になんとかこらえて立ちながら、

うねりの向こう側にある岸を見ていた。

ただ静かにそこにある岸。

そんな一年だった。

-福山えみ-

井津建郎 写真展「ブータン 内なる聖地」@コニカミノルタプラザ

井津さんの作品はツァイトの展示以来で、その時は貴重な銀塩作品だった。今回は真骨頂のプラチナプリントの個展ということもあり、とても楽しみにしていた。バウハウスでのプラチナ作品の衝撃は今でもおぼえている。

コニカミノルタプラザは新宿高野ビルの4階にあるけど、フルーツ高野を抜けてエレベーターまでのわずかな時間が、いつも気まずい感じになるのは私だけだろうか。かといってGUCCIのフロアを通り抜ける勇気もない。あの導線はどうにかならないのかな。

さて、肝心の展示の話に。

4階のフロアに入ったとたん、いつものコニミノじゃない雰囲気を感じた。凛とした空気。でもそれは緊張をよぶものではなくて、むしろ心が静まって穏やかになっていく感じだった。メインの大きな看板以外、これといった演出はしていないようだった。でもこの感じなんだろう?

展示スペースへ向かう。今回はギャラリーBとCのふたつのスペースを使っての展示だった。順路入口の右脇でショートムービーが上映されていた。井津さん率いる撮影隊のドキュメンタリーだ。そこは後回しにして、まずはプリントを観ることに。

最初の1枚。次に2枚目。そして3枚目。嘆息…。言葉にならない。つきなみな褒め言葉では形容できない。それほど井津建郎さんのプラチナプリントは圧倒的な存在感を放っていた。会場の空気がいつもと違うと感じたのもうなずける。

ゆっくりと1枚ずつ堪能したいと思いながらも、次のプリントも早く観てみたいと気が急いてしまう。相容れない思いをなだめながら順に観賞した。それを3巡、4巡と繰り返す。14×20インチの密着焼きのプラチナプリントの立体感と連続階調に、ただただ惹きこまれた。

民族衣装の「キラ」を羽織るブータンの人たちがとても美しい。瞳に力強さを宿しながら、どこまでもやさしげで、どこまでも謙虚さにあふれている。あのワンチュク国王の姿もあった。2011年に国王が日本に外遊されたのは記憶に新しい。気品に満ち溢れた立ち居振る舞いをテレビで見ただけでも、その人柄がうかがえた。井津さんのプラチナプリントの写しだされた国王は、さらにその人格、風格がよく現れているように感じた。

ライフワークとなっている「聖地」への想いが、あますことなくプリントに封じ込められているようだ。井津建郎さんのプラチナプリントは、まさに高純度の白金そのもの。研ぎ澄まされた1枚は言語を超えてあらゆる人に伝わる気がした。

紫外線露光機作り 配線編

サイアノタイプに必要なUV露光機づくりの「配線編」。主な材料と工具は次の通り。

  1. 直管蛍光灯器具・グロースターター形(端子台付を推奨)
  2. ケミカルランプもしくはブラックライト
  3. 平型ビニールコード(2芯のVFFの単線もしくはより線)
  4. 圧着端子(より線の場合に先端に圧着する)
  5. 電源用補助コード(棒端子付きや中間スイッチ付きなど)
  6. 電工ペンチ(あると便利)
  7. 接続コネクタ(器具に端子台がない場合やスイッチ分岐させる場合など用)

蛍光灯器具の並列接続は、思っているより簡単にできる。おすすめなのは20w以上の直管蛍光灯器具・トラフ(傘なし)を購入すると良いと思う。ほとんどの器具に「端子台」というコードを配線する器具が標準で付いている。

この端子台の「電源」と「送り」の穴に「単線」か圧縮端子を着けた「より線」で接続するだけで並列が完了する。端子台は、4つの差込口があって、電源側と送り線側が2つずつある。電源線⇒送り線⇒電源線と順繰りに繋げれば完了。

参考図:端子台

そんなことを言っておきながら、今回はあくまでコンパクトにしたかったので、15Wを4灯だけ並べることにした。光量不足の心配はあったけど、使わない時の収納も考えてのことだ。いろいろ探すうちに、幸い15Wの蛍光灯器具には珍しく端子台付きがみつかった。

早速注文したところ、残念なことに差込口が2箇所しかない簡易タイプだった。これは予想外。サイトに「端子台付き」とあったので高を括ってしまった。そこで急遽ホームセンターで、WAGO製「差込コネクタ・5本用」を買ってきて対応する。この差込コネクタは複数のコードを簡単に並列接続できる優れもの。

なんかすんなり並列にできたような言いぶりだけど、これにたどり着く前に紆余曲折。直列にしてしまい電圧が足りずに1灯しかつかなかったり、電源を入れたままコードを変なところに触れさせてショートしてブレーカーが落ちたりしたこともあった。何事も経験だ。

蛍光灯はノーマルにケミカルランプにした。仕様的にはブラックライトのほうがいいかなとも思ったけど、分光分布を比較しても価格に見合うほど違いがなさそうだったし。

器具の間隔を狭くして、できるだけ光源ムラを減らしたかったので、グローは外に出っぱらないように、内側にひねって本体内に収まるようにした。切れたらカバーを外して交換すればいい。

というわけで、配線完了。